甲斐国武田氏の重臣。姓を曾禰とも書く。曽根氏は武田氏の古い分流であり、この昌世はその後裔と伝わる。通称は孫次郎。内匠助・下野守。駿河国興国寺城の城将。
はじめ奥近習のひとりとして武田信玄に仕え、のちに足軽大将衆に累進。
永禄8年(1565)の武田義信幽閉事件に際し、子の曽根周防は妻が飯富虎昌の女で、義信の乳母であったため義信派と見なされて処刑されたが、昌世自身は所領を武田氏に返上して一時は駿河国に蟄居し、のちに召し返されたという。
永禄12年(1569)10月の三増峠の合戦では、殿軍を務めた浅利信種が北条軍に包囲されて敗死したのち、乱れそうになる部隊をよくまとめ、群がる北条軍を撃退して武名を挙げた。ほか、翌年1月の駿河国花沢城の戦いなどにおいても戦功を挙げている。
元亀4年(=天正元年:1573)4月の信玄の没後にはその子・武田勝頼に仕えたが、『甲陽軍鑑』によればこの頃よりしばしば密かに織田信長への内応の意思を示していたという。
天正5年(1577)9月下旬には遠江国小山城支援のために派遣され、岡部元信とともに防衛にあたった。
時期は不詳ながらも駿河国の興国寺城将に任じられて在城していたが、昌世は天正10年(1582)2月からの武田征伐に先立って織田信長に内通しており、織田氏の友軍として侵攻した北条軍からの攻撃を免れている。
同年3月に武田氏が滅亡した後、駿河国は徳川氏の領国とされたが、昌世はそのまま興国寺城の城領を安堵されている。徳川氏による武田旧臣の取り込みに協力したが、のちに徳川家康から主家であった武田氏を裏切ったことを疎まれて放逐されたという。
その後は蒲生氏郷に仕え、陸奥国会津城の縄張は昌世によるものとされるが、蒲生氏が没落した後の動向は不詳である。