姉川(あねがわ)の合戦 (1/2頁)

予期せぬ浅井長政の挙兵によって朝倉征伐(金ヶ崎の退き口)に失敗し、撤退を余儀なくされた織田信長が近江国の朽木を経て京都に戻ったのは元亀元年(1570)4月30日のことであった。
京都で体勢を立て直した信長は5月9日に2万の軍勢を率いて進発し、本拠である美濃国岐阜城へと向かう。その道中では、かつて近江国南域を領し、信長によって駆逐された六角義賢が残党を煽動して帰国を阻もうとしていたが、これと戦いつつ宇佐山城・永原城・長光寺城などの要衝に重臣を配し、千種越えで21日に岐阜に帰着した。六角義賢の放った刺客・杉谷善住坊に狙撃されたのは、このときである。
帰国した信長は、朝倉氏のみならず浅井氏をも討滅する決意を固め、同盟者である三河国の徳川家康に援軍を要請した。
一方、信長を討ちもらした浅井長政はその反撃を予見し、美濃との国境に近い長比(たけくらべ)や刈安尾に城砦を築くとともに横山城・鎌刃城の守備を固めて防衛網を布いていたが、信長の命を受けた羽柴秀吉竹中重治の調略によって長比城の樋口直房、鎌刃城の堀秀村が織田方に寝返ったばかりか箕浦城までもが織田方の手に落ちたため、早くも防衛網に綻びが生じるところとなったのである。

浅井氏の本城・小谷城の防衛網に風穴を開けることに成功した信長は直ちに軍勢を率いて岐阜を出発、6月19日には織田方となった長比城に着陣した。その陣容は、尾張・美濃・伊勢国より催した1万8千の兵に加え、援軍として徳川家康から派遣された兵力が3千、総勢2万1千ほどである。
浅井方は、同盟関係にある越前国の朝倉氏に援軍を要請するとともに、横山城や大原観音寺に3千の軍勢を投入して防備を固めていたが、信長はこの防衛線を無視して小谷城に向けて進軍し、21日には森可成を雲雀山に、自らは小谷城の南西約4キロに位置する虎御前山(虎姫山)に本陣を据え、坂井政尚・斎藤長龍・市橋長利・佐藤正秋・不破光治・樋口直房・池田恒興らに小谷城下に放火させた。
この放火という行為は城に籠もる軍勢を挑発するための常套手段である。信長は野戦で決着をつけようと目論んでいたようだが、浅井勢はこれには乗らず、城に籠もったままであった。
動かぬ浅井勢に対して信長は、小谷城の南方約9キロに位置する横山城を攻めて小谷城からの来援を誘うこととし、翌22日には本陣の移動を始めた。この動きを察知した小谷城から追撃隊が繰り出されて戦闘になったが、殿軍の簗田広正佐々成政・中条家忠らの活躍によって織田勢は無事に龍ヶ鼻までの移動を完了した(八相山の退口)。
横山城への攻撃は24日から始められた。北の大手犬飼坂からは池田恒興・坂井政尚・羽柴秀吉、南の観音寺坂からは森可成・丹羽長秀蜂屋頼隆、東の大原坂口からは柴田勝家氏家卜全、西の石田口からは佐久間信盛稲葉一鉄水野信元・市橋長利・河尻秀隆らという布陣である。
大軍による包囲攻撃を受けることとなった横山城では、かねてより小谷城に救援要請を行っていたが、そこに朝倉景健率いる救援軍の先鋒隊1万が小谷城南東の大依山(大寄山)に到着する。26日には長政も軍勢を率いて大依山で朝倉勢に合流しており、軍議の結果、横山城の救援は危急を要するので朝倉義景率いる救援軍の本隊を待たず、27日の夜半に大依山から野村・三田村に兵を進めるということになった。
この間に織田陣営にも徳川家康が5千の兵を率いて到着し、その兵力は2万6千ほどに膨れ上がる。浅井・朝倉勢が出陣の準備をしていたであろう27日の夜、信長は夥しく蠢く大依山の篝火を見て進軍のあることを察知したといい、直ちに応戦の手配りに取り掛かった。

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