15世紀から16世紀初頭までの関東地方は永享の乱・享徳の乱・長享の乱など数度に亘る派閥抗争を経ており、その都度、関東公方(古河公方・堀越公方)や山内上杉氏・扇谷上杉氏らは袂を分かっては戦い、そして和睦を繰り返していた。しかしその繰り返される抗争において、とくに中小領主層においては根深い対立を生み出すこととなり、長い闘争の末に公方や大名といった上層部が和睦しても、下層部では領主間、あるいは同族間での抗争や対立が依然として続いていたのである。
そんな状況下の永正3年(1506)、古河公方・足利政氏とその嫡子である高基(初名:高氏)との対立が表面化した。この父子が対立するに至った理由は不詳であるが、4月23日、高基が妻の実家である下野国の宇都宮氏を頼って逐電したのである。
公方の補佐役である関東管領・上杉顕定はこの公方父子の対立を調停するために奔走していたが、永正4年(1507)8月、越後国において守護代・長尾為景が守護・上杉房能を討って(天水越の合戦)房能養子の上杉定実を新守護に据えるという政変を起こすと、房能の実兄である顕定は為景を討つべく、永正6年(1509)6月に8千余の軍勢を率いて越後国に向けて出陣した。
これに対し為景は、それまで上杉氏に余同していた長尾景春や北条早雲と結んで顕定の後背を撹乱させる方策を用意しており、再び関東地方を分裂させる火種が蒔かれることとなったのである。
越後国に侵攻した顕定は8月頃までには為景・定実らを越中国へと逐い、そのまま越後国に駐留していたが、その間隙を衝くように長尾景春や北条早雲の動きが活発になる。
景春は上野国白井城に入って顕定勢力を分断させており、早雲は永正7年(1510)5月に武蔵国椚田要害を攻め落とすとともに相模国の高麗寺城・住吉城近辺の防備を固め、さらには扇谷上杉氏の重臣・上田政盛を寝返らせて権現山城に挙兵させるなど、関東中域侵攻のための楔を打ち込んできたのである。また、足利政氏の二男で鶴岡八幡宮別当の僧となっていた空然を還俗させて足利義明と名乗らせて擁立し、足利政氏・高基にも対抗した。
これらの動きに呼応するかのように長尾為景も佐渡を経て越後国に侵入し、6月の長森原の合戦で顕定を討ったのである。
この顕定の敗死は、関東管領家・山内上杉氏にも分裂を招くこととなった。山内上杉氏の名跡は顕定の遺言によって養子・上杉顕実(足利政氏の弟)が継いだが、もうひとりの養子・上杉憲房が顕実に対抗して上野国平井城に入ったのである。
顕定の死によって関東地方は再び分裂の混迷に陥ったが、これを好機として勢力を浸透させようとする長尾景春や北条早雲に対し、隠居していた扇谷上杉朝良が奔走を始める。
朝良は景春勢力を迎撃するために上野国に出陣し、7月には武蔵国に戻り、早雲に応じて寝返った上田政盛の籠もる権現山城を攻めて陥落させた(権現山城の戦い)。この権現山城の戦いには上杉憲房より朝良勢に対して援兵が送られており、長享の乱以来分裂していた山内上杉氏と扇谷上杉氏の提携が成されたのである。
また、この朝良の復帰に同調して南関東の反北条戦線も活発に活動を始め、7月から12月にかけて相模国の三浦義同(道寸)・義意父子が住吉要害や鴨沢(中村)要害をめぐる戦いで勝利するなど、早雲の武蔵国侵出を扼している。
突出を阻まれた早雲は、永正8年(1511)12月に朝良と和議を結んで矛先を収めた。