信長が本格的に伊勢国長島の一揆鎮定に乗り出すのは天正2年(1574)7月である。織田勢は水軍で4方向からの一斉攻撃を加え、滝川一益・織田信雄・織田信孝以下の諸将は篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島の5つの城に立て籠もる一揆勢を各個撃破していった(伊勢長島一向一揆:その3)。この長島での戦いは、多数の一門(一族)衆を失うという悲運もあったが、全般的に織田勢優勢のまま展開された。最後まで抵抗した中江・屋長島の両城は、織田勢が幾重にも巡らせた柵の中に四方から火を放たれ、男女2万人が生きながら焼き殺されるという、酸鼻を極める制裁を受けた。
翌天正3年(1575)5月に長篠の合戦で武田勝頼勢を撃破した信長は、8月12日、越前国の一向一揆討伐に進発した。15日に先陣が木芽峠を越え、虎杖城・火燧ヶ城の一揆勢は越前国府中へと向けて敗走。この討伐戦でも3万や4万ともいわれる門徒衆の殺戮が行われ、越前国における一向一揆は壊滅(越前一向一揆)。信長が京都奉行の村井定勝に「府中は死骸ばかりにて、一円あき所なく候、見せたく候」との戦勝報告を宛てたのはこのときのことである。
伊勢国長島に続く越前国の一向一揆の敗北という結果、石山本願寺は加賀国の一向一揆と遮断されてしまい、こうなると手足をもぎ取られたも同然だった。これを受けて、10月に至ると顕如は堺奉行の松井夕閑と4月に信長に降った三好康長(笑岩)を介して信長に講和を求めた。が、これは一時凌ぎの方策だったようで、翌天正4年(1576)4月14日、顕如は紀伊国から雑賀衆を呼び寄せるとともに、中国地方の雄・毛利氏や足利義昭との連携も強めていたのである。
この頃より信長は明智光秀・細川藤孝・荒木村重らに命じ、本格的に石山本願寺を攻めさせた。ここに5年にも及ぶ石山籠城戦が始まったのである。
この籠城戦において、本願寺を支援したのは毛利氏と雑賀衆、そして諸国の門徒たちである。7月頃より毛利勢の水軍は信長勢の水軍を壊滅させ(木津川沖の海戦)、海路より大坂湾から石山本願寺に食糧・武器・弾薬などの搬入を開始した。これに対し信長は翌天正5年(1577)2月、本願寺勢の補給基地となっていた紀伊国の雑賀衆を討つべく、京を出陣した。そして3月15日に首領の鈴木重秀(孫市)らを降伏させたのである(雑賀征伐)。また、大坂湾における制海権を奪回するため、九鬼嘉隆に命じて作らせた大型の鉄船『日本丸』で雑賀水軍を打ち破り、11月には毛利水軍をも蹴散らした(木津川沖の海戦:その2)。
天正6年(1578)2月、一度は織田氏に恭順の意向を示した播磨国三木城主・別所長治が、そして10月には重臣の荒木村重が相次いで信長に叛旗を翻し、毛利氏・本願寺と同盟。さらに摂津国高槻城主・高山重友や同茨木城主・中川清秀もこの動きに呼応するという事態が起こる。
信長はまず、11月に高山重友・中川清秀を降伏させ、翌天正7年(1579)9月に荒木村重の拠る摂津国有岡城、続いて天正8年(1580)1月に別所長治の三木城を落としてこの難事を切り抜けた。
この頃になると信長も顕如も、戦局や諸大名の動向などの情勢に応じて和戦両様の構えになっていたようである。また、日時の経過とともに石山籠城軍にも疲労の色が濃くなっていった。毛利氏は陸路より羽柴秀吉が中国地方の経略に乗り出していたため、本願寺を援助することも難しくなっていた。また、前年(1579)8月に柴田勝家が加賀を制圧、本願寺の領国が潰えたことの影響も無視できないだろう。
天正7年12月下旬より、勅使の下向による和睦の斡旋が勧められていたが、信長は8年3月17日、顕如に降伏条件を提示した。条件は、石山よりの退去である。顕如がこの講和条件を受け入れ、双方が内容を確認の上で朝廷に誓詞を入れたのは翌月、閏3月5日のことであった。
顕如が石山本願寺を退去し、紀伊国鷺ノ森に移ったのは4月9日である。だが、講和に反対していた教如はその後も籠城を続けて信長に抵抗の姿勢を見せ続けた。しかしこの教如も7月17日に至って信長の講和条件を容れ、8月2日には石山の地をあとにした。ここに石山合戦は10年余にしてようやく終息したのである。
なお、教如らが退去したあとに火が発し、石山本願寺は全寺域を焼失した。自然発火とも、放火ともいわれている。