厳島(いつくしま)の合戦 (1/2頁)

安芸国の毛利元就ははじめ大内氏に、大内氏が天文20年(1551)に陶晴賢によって滅ぼされてからは陶氏に従属していた。元就は晴賢のこの行動を是認したわけではないが、大内氏滅亡によって生じた勢力の空白を乗じ、毛利氏の勢力基盤を確固たるものにすべく動いていたのである。
そして天文23年(1554)5月に陶氏と決別、同年9月の折敷畑の合戦では勝利したが、この合戦における勝利だけでは、力関係においては依然として陶氏が優位のままであることに変わりはなかった。このままではいずれ陶氏によって討滅されるという危機感を抱いた元就は、来るべき陶氏との決戦に備えて幾つかの手を打ち始めていた。
その一つが離間策である。元就が狙いをつけたのは、陶氏の安芸侵攻には先鋒を務めると噂されていた江良房栄だった。元就は間者を山口城下に送りこみ、「江良房栄は毛利元就と手を結び、毛利討伐の際に寝返って陶氏を討つ手筈になっているらしい」という噂を広めさせ、さらには房栄の筆跡を真似た房栄から元就宛の誓書を偽作し、それを山口城下に落としてくるというまでの念の入れようだったという。この離間策の実在には疑問の残るところもあるが、江良房栄が陶・毛利氏の決戦以前に誅伐されたことは事実だったようである。

その頃の陶氏の最大動員兵力は2万を超すといわれているが、対する毛利氏は4千程度であり、まともに戦っては勝ち目がない。この兵力差を覆すために決戦場をどこに設定するか、そこにも元就の謀略が働いていた。
思案の末、元就が選んだのは厳島であった。ここは陶氏にとって安芸支配の拠点であり、陶氏の水軍にとっても重要な基地でもあった。天文24年(=弘治元年:1555)5月、元就は厳島有ノ浦北方の岬に宮ノ尾城(別称:宮ノ城)を築き、陶方から毛利へと寝返った己斐豊後守・新里宮内少輔の2人の武将に城の守備を任せたのである。
これは晴賢を刺激するに十分であった。さらに元就は間者を使い、「厳島に兵力を割いたのは失敗だった。いま厳島を攻められたらひとたまりもない」と後悔しているという噂を流させたのである。それだけでなく、桜尾城を守っていた桂元澄に命じて「晴賢が厳島を攻めれば元就も軍勢を率いて宮ノ尾城の後詰に向かうであろうから、そのとき自分は晴賢に味方して元就の背後を攻めるつもりだ」という、晴賢宛の偽りの内応の書状を書かせ、それを届けさせたともいわれている。こうして陶軍の矛先を厳島に向けるように仕向け、事前の準備が整えられた。これと並行して、元就は伊予国の村上水軍の協力をも取り付けている。

次の頁