翌天正18年(1590)3月1日、秀吉は自ら3万2千の直属の軍勢を率いて京都を出発した。先鋒として徳川家康の軍勢3万が2月7日に先発しており、これに続いて進発した上杉景勝・前田利家らの北陸方面軍3万5千や瀬戸内や紀伊・伊勢の水軍1万余、東海道諸城の守備として毛利軍など1万余、そして秀吉率いる本隊14万人を合わせると、総勢22万人を超える大軍となった。加えて米20万石を確保し、さらに黄金1万枚で米50万石を買うという、兵站面においても万全な態勢で臨んだ。
それに対する北条側は、さきの百姓の大量動員を入れてもおよそ3万5千、それに友軍を合わせても5万6千ほどの兵力でしかなかったという。
軍勢的には全く相手にならないほどの違いである。このとき小田原城では、出撃して箱根で上方勢を迎撃すべきであるという北条氏邦らと、小田原に籠城して戦うべきだと主張する松田憲秀らとの意見に別れ、侃々諤々の討議の末、籠城することに決まった。なかなか結論が得られなかったため、後世に、論議ばかりでいっこうに結論が出ないことを指す「小田原評定」の語源となった。
3月27日に秀吉が沼津に到着、29日より山中城に攻めかかり、わずか数時間の戦闘でこれを落とした(山中城の戦い)。山中城攻めと並行して行われた韮山城攻めは城兵がよく戦ったので持久戦となったが、北条氏にとってはこの山中城陥落は誤算だった。足柄城−山中城−韮山城を結ぶ防衛線で秀吉の大軍を防ごうと考えていた目論見が、いとも簡単に崩されてしまったのである。
秀吉軍は山中城を落とした勢いで東海道を下り、4月2日には箱根湯元に到着、いよいよ小田原城の包囲にかかるのである。
その小田原城であるが、この日のあることを想定していた北条氏の手によって、城と町がすっぽりと入ってしまう大外郭が完成していた。惣(総)構えとか惣郭とも呼ばれる大外郭は土塁のほか堀も備えたもので、きわめて広大なものであった。この大外郭の効果は絶大で、秀吉軍は包囲したものの、容易に城を落とすことができなかったのである。
そこで秀吉は得意の長期戦、すなわち兵糧攻めをすることにした。対の城として石垣山城の築城にかかり、自らは愛妾の淀殿を呼び寄せ、諸大名にも妻を呼ばせるなどして、小田原城中の兵糧の減少、戦意の喪失を待ったのである。さらにその一方で秀吉は、各地に散らばる北条氏方の50にも及ぶ支城を各個撃破にかかった。
4月20日に松井田城が落ち、続いて厩橋城、箕輪城が陥落。4月27日には江戸城も開城。5月初旬には河越城、松山城が降伏。5月22日に岩付城、6月14日には鉢形城、その他戦わずに開城してしまった城も多く、6月23日に八王子城、24日の韮山城の落城によって、残るのは小田原城と忍城の2つだけになってしまうという状態だった。
また、その間に北条氏重臣の松田憲秀の内応があり、さらには密かに同盟を望んでいた津軽為信・相馬義胤・結城晴朝・佐竹義宣・最上義光・伊達政宗などの関東から奥羽にかけての大名たちが秀吉に帰順したことにより、外部からの援助が期待できなくなったなどの情報がもたらされ、城中の空気は次第に徹底抗戦から降伏へと変わっていったのである。
機は熟したと見た秀吉は黒田孝高らを使者として送り、降伏を勧告させた。その一方では関東各地に展開させていた将兵を集結させて7月2日に総攻撃を命じるなど、硬軟とりまぜた戦術で北条氏を揺さぶったのである。
結局は氏直が7月5日、小田原城を出て家康の陣所を訪ね、自ら切腹するかわりに城兵の命を助けるよう求めることとなった。家康はそのまま氏直を秀吉家臣・滝川雄利のもとに行かせ、秀吉に氏直投降の由を連絡した。が、氏直の切腹の申し出にも関わらず、秀吉はそれをさせなかった。そのかわりに父の氏政と、その弟で八王子城主の北条氏照の2人に切腹を命じている。これは、氏直が家康の婿だったことを考慮したことも一つの理由であるが、秀吉が氏政と氏照の2人を主戦派と見なしたからであろう。また、大道寺政繁と、内応した松田憲秀も切腹を命じられた。
氏政・氏照は7月9日に城を出て、城下にあった田村安栖の屋敷に移され、そこで11日に切腹して果てた。これにより、初代の北条早雲以来およそ百年にわたって関東に覇を唱えた戦国大名・北条氏は滅亡したのである。
氏直は7月20日、一族の氏規・氏房ら3百余人とともに高野山に向かった。開城後の7月13日に小田原城に入った秀吉は、家康に北条氏の遺領を与え、さらに奥州平定のため、17日に小田原城を出発している。すでに小田原征伐の最中に伊達政宗が秀吉のもとに頭を下げてきたので、残る葛西氏や大崎氏などを滅ぼすためであった。
8月1日には佐竹氏の本領を安堵し、6日に白河、9日に黒川城(会津若松城)に入り、そこで小田原征伐に来なかった諸大名の処分を発表した。それによって大崎義隆・葛西晴信・石川昭光・白川義親らの所領が没収され、かわって蒲生氏郷・木村吉清らがそれらの跡に入ったのである。
これにより、奥州の仕置きが成り、秀吉の天下統一が完成した。その意味で、秀吉にとっても、また日本の歴史全体にとっても小田原征伐の持つ意味は大きいものであった。