大坂夏の陣 (2/2頁)

前の頁

その日の夜、大坂城では真田幸村毛利勝永後藤基次の3人は軍議を開き、明朝に徳川方の大和方面軍を国分付近で迎撃するという方策を固めた。徳川方が合流して大軍団となる前に戦力を削ごうということである。しかし、大和方面軍はその夜のうちに、すでに国分一帯に布陣していたのである。
そして翌6日早暁、大坂方の後藤隊は道明寺まで進出。しかしそこに友軍の姿はなく、徳川方の水野隊・伊達隊がすぐそばにまで接近していた。孤軍となった後藤隊は、2万3千を数える水野・伊達隊に2千8百の兵で戦いを挑んだのである(道明寺の合戦)。
後藤隊は小松山を占領して山上に陣取り、攻めあがってくる水野隊と果敢に戦ったが、伊達隊・松平忠明隊からも包囲攻撃を受ける破目になった。大激戦の末に、今はこれまでと基次は先頭をきって山を駆け下り、銃弾を胸に受けて戦死した。

道明寺から北へ2里ほどの八尾・若江においても朝から激戦があった。
この一帯は長瀬川と玉櫛川に挟まれた低湿地帯で、ここで河内方面軍を迎え撃つべく長宗我部盛親隊、木村重成隊が待ち構えていたのである。
八尾では長宗我部隊5千と藤堂隊5千が、若江では木村隊4千8百と井伊隊3千2百が激突した(八尾・若江の合戦)。
八尾では不意を衝かれた藤堂隊が次々と有力武将を失って崩れかけるが次第に持ち直し、3百の戦死者を出したが、6百弱の首級を挙げた。若江では、数に勝るはずの木村隊が壊滅的な打撃を受け、重成も戦死するという敗戦を喫した。井伊隊の犠牲者百人に対し、木村隊は3百の兵を失ったという。

濃霧による視界不良で参着が遅れた真田・毛利隊合わせて6千の兵が道明寺に到着したのは昼頃のことで、再び道明寺で合戦が始まった。既に後藤隊と戦って疲労の色が見える伊達隊らに対し、真田・毛利隊は新手である。今度は大坂方が優位に戦いを進めたが、午後2時過ぎになって八尾・若江戦線での敗報が届いたため、撤退した。
大坂城外での戦いはこれらの戦いだけであった。

翌7日からはとうとう大坂城の総攻撃が始められた。家康・秀忠は平野で軍議を練ったあと、家康が天王寺口からの攻撃を、秀忠が岡山口からの攻撃を受け持つことになった。このとき秀忠は、表舞台となる天王寺口での指揮を望んだが、家康はこれを許さず、自分が采配を揮うことに固執したという。自分の手で豊臣家を葬りたかったのであろう、家康は74歳であったが、念願の豊臣家滅亡の瞬間が近づいていることに、このときばかりは若やいでいたといわれている。
天王寺口の先鋒は藤堂高虎隊と井伊直孝隊の予定であったが、前日の野戦での損耗が激しかったために本多忠朝隊に変更された。岡山口の先鋒は前田利常である。
それに対する大坂方の守りであるが、天王寺口は真田幸村・毛利勝永・大野治長ら、岡山口は大野治房らが大将となって守っていた。そして遊軍として明石全登が船場に布陣。特に最前線と思しき天王寺茶臼山には真田幸村が布陣した。ここは冬の陣において家康が本陣を置いた場所であるが、真田隊は前日の夜からここに陣を構えたという。戦術的に要衝の地だったのである。
徳川勢が大坂城に攻撃をかけたのは正午頃である。天王寺口の本多・毛利両部隊の間で口火が切られ、この天王寺口の戦いの銃声が合図となって、岡山口でも戦いの火ぶたが切って落とされたのである。
家康は、今度の出陣前に「大坂城を3日で落としてみせる」と豪語していたという。5日の出陣なので、7日がその3日目にあたる。徳川方諸将は、何としてもこの日のうちに攻め落としたいと奮戦し、特にその中でも松平忠直隊1万5千が茶臼山へ向けて死に物狂いの突撃を敢行、最終的に挙げた首級は3千7百余という。
3千の赤備え武者を率い、家康本陣へ向けて決死の突撃を図った真田隊もこの松平忠直隊に阻まれ、幸村は討死を遂げた。
この日、出陣するにあたって幸村は秀頼自身の出馬を望んだという。総大将の秀頼が姿を見せれば自軍の士気も格段に上がるであろうことを見越してのことだったが、秀頼が戦場に姿を見せることはなかった。淀殿に引き止められてしまったのだ。
一方の岡山口では、いま一人の総大将・徳川秀忠の指揮する軍勢と、大野治房の率いる大坂方諸隊とで激しい攻防戦が展開された。押され気味の戦況に勇み立つ秀忠が自ら采配を執って進み出ようとするのを左右の者が押し留めようとしたが、それでもなお秀忠は進もうとしたといい、これによって徳川方の諸隊も勇戦に励んだのである。

開戦当初は拮抗していた戦況も、時間を経るにつれて形勢が明らかになっていった。圧倒的な兵力でもって臨んだ徳川方が、その強みを発揮したのである。これらの合戦がいかに激しい戦いだったかは、この日だけで両軍合わせての死者が2万人と伝えられていることからも窺える。
そして午後3時頃には大坂方諸隊が壊滅していた。
徳川方は城へ向かう敗残兵を追って三の丸に迫り、家康は茶臼山、秀忠は岡山へと本陣を進める。そして、これに合わせるかのように大坂城内から火の手が上がった。大坂城内で台所頭を務めていた大角与左衛門という侍が徳川方に通じており、御殿の大台所に火をつけたのである。
火は延焼し、とうとう千畳敷にもいられなくなった秀頼らは天守閣に入って自害しようとしたが、近臣らに諫められて山里曲輪の隅櫓に逃げ込んだ。糒庫(ほしいくら)と呼ばれているところである。
この頃、大坂方の最後の望みとして秀頼の妻・千姫が岡山の秀忠本陣に送り届けられた。千姫は秀忠の娘、家康には孫娘であり、大野治長はこの千姫をして自らの切腹と引き換えに淀殿・秀頼母子の助命を嘆願したのである。
しかし、これは黙殺された。家康はこの処置を将軍である秀忠に一任したが、秀忠は助命を認めなかったのである。
午後4時頃には本丸も炎上し、この日の戦闘は終了した。大坂城は落城したのである。

そして翌5月8日の朝、名城の名をほしいままにした大坂城は、前日からの猛火によって無残な姿となっていた。
糒庫で長い夜を過ごした淀殿・秀頼母子や近臣らは千姫に託した助命嘆願を希望に生き長らえていたが、正午頃に片桐且元の案内を受けた井伊直孝・安藤重信隊が、糒庫を目がけて一斉射撃を行ったところ、間もなく糒庫から火の手があがった。この銃声によって一縷の望みを断たれたことを悟った母子は自害し、大野治長・毛利勝永・真田大助ら近臣らも火薬に火をかけて殉じたのであった。

秀頼には、千姫との間には子がなかったが、側室との間に8歳の男子と7歳の女子がいた。この2人は落城に際して脱出を果たして京都に逃れていたが、やがて見つけ出された。
男子は国松といい、5月23日に京都六条河原で斬首された。女子は千姫の妹分として鎌倉の尼寺・東慶寺に入れられて天秀尼と称したが、生涯を独身で通したため、秀吉の血筋は残されなかった。
栄華を誇った豊臣氏はわずか2代で滅亡したのである。