関ヶ原(せきがはら)の役 (1/5頁)

慶長3年(1598)8月の羽柴秀吉の死後、秀吉の築き上げた政権は秀吉の遺児・豊臣秀頼を頂点として、徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝の五大老と前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家の五奉行が実質的運営にあたる形になっていたが、しだいに五大老の筆頭格である家康と、五奉行一の実力者である三成との対立が表面化するようになった。
家康と拮抗する実力を有していた前田利家の存命中は辛うじて小康状態が保たれていたが、慶長4年(1599)閏3月3日に利家が没したことを機に、事態は緊迫を孕んだ新しい方向へと展開していくことになる。
利家の死後、かねてより三成に反感を持っていた加藤清正黒田長政福島正則池田輝政加藤喜明細川忠興・浅野幸長の7人が摂津国大坂に三成を襲撃する計画を立てるが、三成はこれを事前に察知。窮地に陥った三成はあえて家康へ援けを求めたのである。ここで三成を討つことはたやすいが、それは得策ではないと考えた家康は、警護の兵をつけて三成の居城・近江国佐和山城に送り届けることにしたのである。しかし、虎口を脱した代償として三成は否応なく隠退させられ、政治の舞台から引き降ろされることとなった。
体よく三成を排除した家康は政務の中心となっていた京都伏見城の西ノ丸に移り、さらには大坂に出仕していた他の大老らに帰国を許し、単独で政務を取り仕切る体制を作り上げたのである。
そして家康が秀頼に謁見するため大坂入りした9月7日の夜、増田長盛から「前田利長が浅野長政・土方雄久・大野治長と謀って家康を殺害しようとしている」と知らされたため、謁見の日に家康が警護の兵を率いて大坂城に登城するという事件が起こった。実際には襲撃は行われなかったが、これを機に家康は秀頼の居す大坂城に留まることとなり、豊臣政権の代行者という立場を固めたのである。

五大老のなかでただひとり畿内に留まり、秀頼の威光を後ろ楯として政権の実権を握った家康は他の大老の追い落としにかかる。まず標的に据えたのは、父・前田利家の死没によって五大老の地位と遺領を継承し、先だっては家康の襲撃を企てたとされる前田利長であった。
当時利長は自領の加賀国にあったが、家康は利長が浅野ら3人に襲撃を教唆したと断定して浅野を蟄居処分、土方・大野をそれぞれ常陸国・下野国に配流するとともに、利長を征伐する声明を出した。これに驚いた利長は使者を大坂に送って家康に弁明したが、容れられないばかりか母を人質に出すことを要求されたのである。
利長はやむなくこれに応じたが、家康はこの利長の母を、自身の本拠である江戸に移した。これにあたり、増田長盛らが「この人質は豊臣政権に出されたものであるから、江戸に送るのは私的行為にあたる」と反発したが、家康は移送を強行したという。既にここに家康が政権を私物化しようとする意図が読み取れるのである。
前田氏を屈服させた家康が次なる標的としたのは、陸奥国会津ほかに120万石の所領を構える上杉景勝であった。
景勝は慶長3年3月に秀吉の命を受けて越後国から会津へ入部していたが、それから半年も経ない同年8月に秀吉が死没したことを受けて上洛しており、慶長4年8月に帰国したのちには遅延していた道路・橋梁・城郭の整備に取り組み、積極的に浪人を登用して軍備の拡充を図るなど、領国経営の充実に意を注いでいたのである。
この性急にも見える隣国の国力増強に危惧を抱いた越後国春日山城主堀氏の重臣・堀直政、出羽国角館城主・戸沢政盛、さらには上杉家臣で慶長5年(1600)3月に逐電した藤田信吉までもが「景勝に謀叛の兆しあり」と注進したことを受けた家康は、慶長5年4月1日に伊奈昭綱を景勝のもとに遣わして上洛を命じた。その名目は、景勝は五大老の1人であるにも関わらず自領の陸奥国会津へ帰ったままであること、領内の城や防備を固めて戦備を整えていることなどについて上洛して説明せよ、とするものであった。
しかし、景勝の返事は否であった。上洛して家康に陳弁するということは、先の前田利長と同様に家康への屈服を認めたに他ならないからである。のみならず、上杉氏重臣・直江兼続の手による『直江状』と呼ばれる書状を返した。これは家康から出された上洛勧告に対し、応じられない理由を詳細に述べたものであるが、その文致は上杉から徳川への挑戦状ともいうべき過激なもので、これを読んだ家康は激怒したという。
これを受けて家康は「景勝が秀頼公に対し謀叛を企てている」との判断を示し、上杉征伐の軍事行動を起こすことを決めたのである(会津上杉征伐)。

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