戦闘開始後、すでに4時間が経とうとしていた。正午を少しまわったころ、家康方から松尾山に鉄砲が撃ちかけられた。去就を決しかねている秀秋に、最後の決断を促す鉄砲であった。やがて小早川隊はまっすぐに松尾山を駆け下り、麓の大谷吉継隊に挑みかかった。
小早川秀秋の裏切りである。しかも、それまで大谷隊に属していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の4つの隊までもが連鎖的に寝返り、大谷隊の側面を攻撃したのである。これによって大谷隊が崩れ、さらには小西行長隊が崩れ、午後1時頃には西軍の総敗北となったのである。
ただ、島津隊だけは敗走せずに留まっていた。島津隊は東軍の意表をつき、捨て身の敵中突破を敢行して血路を斬り開き、戦場を離脱していったのである(関ヶ原撤退戦)。
南宮山の東麓にいた長束正家隊、長宗我部盛親隊などもそれぞれ伊勢を目指して落ちていった。
午後3時頃までには西軍の諸隊は関ヶ原から姿を消していた。家康は天満山の西南、藤古川の台地に本営を移し、そこで諸将を引見した。