新発田重家(しばたしげいえ)の乱 (1/2頁)

越後国新発田城主・新発田重家上杉謙信死後の内訌(御館の乱)において上杉景勝に与して勝利に寄与したが、戦後の論功行賞で恩賞の沙汰がなかったことに強い不満を持っていた。そこに織田信長より内応を誘われ、これに応じて景勝に叛いたのである。
重家が逆意を企てるに至った時期は不詳であるが、天正9年(1581)4月頃にはそうした風聞が流れていること、同年5月17日付の武田勝頼からの書状に『貴国(越後国)奥郡之事、付、新発田事』とあることから、御館の乱が決着した天正8年(1580)後半から天正9年早春頃までの間と推測され、天正9年6月に新潟津沖の運上(入港税)徴収権を奪って敵対の態度を顕わにしたのであった。
重家の叛意を知った景勝は蒲原郡木場城の防備を固めるなどの措置を取っているが、この頃には北陸方面における織田勢の動きも活発化しており、重家はこれに呼応して戦線を拡大し、新潟や沼垂までをも版図に収めたのである。
さらに天正10年(1582)3月になると織田勢は武田勝頼を滅ぼし(武田征伐)、その余勢を駆った軍勢が上野・信濃国方面から越後国を窺っており、6月には越中・越後国の国境に近い越中国魚津城もが落城寸前にまで追い込まれていた(魚津城の戦い)。ここに厳重な上杉包囲網が完成しつつあった。
しかし事態は急転する。6月2日未明、京都・本能寺に投宿していた信長を重臣である明智光秀が討ったのである(本能寺の変)。
信長の死を知った織田勢がにわかに撤退を始めたことにより、上杉勢は息を吹き返した。
危機を脱した景勝は、まずは信濃国に出兵して北信濃を制圧したのちに新発田征伐に取り掛かる。8月下旬に新発田方の五十公野に侵攻し、9月に至っては新発田城の堀際にまで迫るなどして1ヶ月に亘って攻撃を続けたが、攻めあぐねて9月25日に撤退しようとしたところ、放生橋で新発田方からの激しい追撃を受けている(放生橋の合戦)。

本能寺の変ののち、北陸地方では信長亡きあとの織田氏の主導権をめぐって羽柴秀吉柴田勝家の対立が表面化していた。秀吉は景勝との連携を企図し、勝家方の将・佐々成政がその大半を領する越中国への出兵を要請しているが、一方の成政は景勝に抗していた新発田重家と結ぶことで景勝の背後を撹乱することを目論んでおり、景勝と重家の抗争は単なる一地域の抗争という規模を越え、地方の情勢をも左右する戦略戦の一端を担うようになる。
天正11年(1583)1月に景勝は秀吉の要請に応じることを伝え、3月にも秀吉から越中国への出兵を要請されているが、この頃の景勝は信濃国に出馬しており、越中国への出兵はできなかった。その間にも秀吉は勝家征伐に動いており、4月の賤ヶ岳の合戦、続く北ノ庄城の戦いを経て勝家を滅ぼし、北陸地方を制圧したのである。
ここに秀吉は威勢と実力を増すこととなり、北ノ庄の戦いの直後には景勝が越中出兵に応じなかったことの違約を咎めているが、これに対して景勝は秀吉に勝家を討滅したことを祝すとともに、今後とも昵懇を願う旨の書状を送っている。これは秀吉の風下に立つことを認めたことに他ならないが、景勝は秀吉との関係を深めることで後顧の憂いをなくし、新発田討伐に意を注げることになった。

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