山崎(やまざき)の合戦 (1/2頁)

天正10年(1582)6月2日未明、本能寺の変が勃発。事実上の天下人・織田信長が家臣の明智光秀に弑された。襲撃後、光秀は信長の遺骸を捜させたが、とうとう見つからなかったという。それでも信長の存在が消滅したことに変わりはない。信長嫡子の信忠も討死を遂げ、強固な結束力を誇った織田信長軍団はここに瓦解したのである。

徳川家康は同日、堺から京都へ向かう途中で変事を知ったが、少人数を率いた旅先ではどうすることもできず、本拠の三河国に帰国するのが精一杯だった。
信長の三男・信孝は四国平定に赴くため、丹羽長秀らと共に1万5千の兵を率いて大坂に来ていた。しかし変報が伝わると、あっという間に兵の半数以上が逃げ去ったという。
柴田勝家は、上杉氏に属していた越中国魚津城を攻め落としたばかりだった。6月7日に凶事を知った勝家は急遽戦線を縮小して防備を固め、越前国の居城に引き上げた。
滝川一益の元に情報が届いたのも6月7日。一益は上野国厩橋にいて関東の雄・北条氏と対決していたため、身動きが取れない。

羽柴秀吉は西国最大の大名・毛利氏に属する備中高松城を攻めていた。水攻めの方策が図にあたり、陥落を待つのみという状況であったが、毛利氏の援軍も布陣していたために迂闊には動けない有り様だった。
そんな秀吉のもとに、幸運が舞い込んだ。光秀は信長を討ったあとに毛利氏に宛てて密使を送ったのだが、その密使が間違って秀吉の陣所へと入ってしまったのだ。6月3日深夜のことだったという。
密書を手に入れた秀吉は驚愕した。すぐに弔い合戦を、と思ったことだろうが、毛利軍と対峙しているために身動きが取れないのである。しかも、時間がない。情報が伝播するのは時間の問題で、信長の横死が知れ渡れば自軍は混乱に陥ることは明らかで、毛利勢も攻めかかってくることは目に見えている。
秀吉は、信長横死の情報を隠したまま、毛利氏との和議を進めることにした。そして、高松城主・清水宗治の切腹という条件で和議を成立させたのである(高松城の戦い)。

6月6日、秀吉はそれまで留まっていた備中国高松城攻めの陣所を撤収し、上方へと戻ることになった。信長が光秀に弑されたことにより、それまでにやむなく信長に降っていた武将たちがどう出るか、また明智光秀がどう出るかわからず、とりあえずは上方へ向かい対応策を練るためであった。また、誓紙を取り交わしたとはいえ、毛利氏の動きも気になるところであり、追撃を心配しながらの撤退となった。
6日夜に岡山を経て備前国沼城に入り、その日はそこに泊まった。そして翌7日の早朝に出発、8日の朝までの丸一昼夜を走り通して姫路城まで、距離にして55キロも移動している。折から梅雨どきのため、各河川は増水しており、近くの農民を雇って人間の鎖を作り、その肩にすがって渡河したというから、「軍勢」という単位での移動速度としては驚異的な速度である。
この強行軍を『中国大返し』と呼んでいるが、その間にも秀吉は味方になってくれそうな武将への勧誘工作を怠りなく勧めていた。
また、秀吉が姫路から発とうとしたとき、いつも占いをしていた真言の護摩堂の僧侶が「明日は二度と帰ることのできない悪日なので、出陣は取りやめた方がよい」と進言したが、それを聞いた秀吉は「もし光秀に勝てば天下は意のままとなり、どこにでも城を築くことはできる。姫路に二度と戻らなくてもよい」と言って出陣したという。秀吉勢はその後も上方への急行を続け、12日の夜には摂津国の富田に陣を置いている。

一方の光秀は、本能寺襲撃当日の夕刻に本拠・近江国坂本城に入り、翌3日から4日にかけて秀吉の本拠地である長浜城や丹羽長秀の佐和山城を落とし、それと並行して近江・美濃の諸氏を誘降し、5日に安土城に入って近江国平定を完了している。8日には安土城から居城の近江国坂本城に戻っている。
9日には入洛して御所へと参内、銀5百枚を献上した。五山の寺々にも銀百枚ずつ配り、京都の住民には地租を免除する旨をふれた。いうまでもなく、懐柔政策である。
本能寺における光秀の襲撃計画は完璧だった。さして苦戦することもなく、信長父子を見事に討ち果たしている。その後の朝廷や京都住民への手配りもぬかりがない。事実、市井では光秀政権を歓迎する雰囲気もあったという。
しかし、唯一の誤算は予想以上に味方が集まらなかったことだ。織田家臣時代の同僚で親友の細川藤孝忠興父子は光秀の使者に対して信長追悼の意を表し、光秀への助力を拒否した。
与力大名であった筒井順慶からもはっきりとした返事をもらえず、よそよそしい態度で受け流されてしまったのである。
その頃には秀吉が毛利氏と講和して軍勢を戻しつつあるといった情報が寄せられていたのだろう、10日には京都を出発し、筒井順慶の参陣を促すために山城国八幡近くの洞ヶ峠まで出陣している。
11日、光秀は洞ヶ峠の陣を撤して下鳥羽を本陣とし、兵の一部を割いて淀城を修築させたりしており、しだいに光秀も秀吉も、山崎の天王山あたりで衝突するのではないかという意識を持ち始めていた。とくに光秀としては、秀吉の大軍をなんとしても山崎の狭隘部で防ぎとめなければ、と考えていたようである。大坂方面から京都に入るためには、どうしても通らなければならない場所であったのである。
しかし12日、どういうわけか山崎に置いていた兵を退かせて、円明寺川の線で左右に展開させている。

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