開創初期の室町幕府は奥州の統治機構として奥州総大将を置いていたが、これに任じられていた石塔義房が貞和元:興国6年(1345)に解任された。彼が積極的に活動したためか、現地ではこれに反発する動きも生じ、それが幕府に伝わると警戒感が高まり、ついには罷免ということになったようである。
このため、その後継機構として奥州管領が置かれることとなり、吉良貞家と畠山国氏が任じられた。この両名は貞和2:興国7年(1346)に東北地方に下ったとみられる。
しかし室町幕府を開創した足利尊氏の執事である高師直・師泰兄弟を中心とする派閥と、尊氏の弟である足利直義を支持する派閥の不和が貞和5:正平4年(1349)8月に表面化し、翌観応元:正平5年(1350)10月に「観応の擾乱」と呼ばれる分裂抗争に発展すると、その対立の構図は関東を経て東北地方にも伝播していった。
吉良貞家は奥州管領に任じられる以前には評定衆や引付方の二番頭人を務め、政務面で尊氏を補佐していた足利直義とも密接な関係にあったことからも直義派であった。一方の畠山国氏は、それまで目ぼしい官職に就いたことはなく、奥州管領への就任は異例の抜擢ともいえる。それだけに後ろ楯や人脈に乏しく、幕府の中心であった尊氏の腹心である高師直方になびいたのであろうか。
吉良貞家と畠山国氏の反目がいつから始まり、いつから衝突の危機をはらむようになったかは不詳であるが、貞家が直義の軍勢催促に応じて南下しようとしたところ、師直派である国氏やその父の畠山高国、陸奥国府周辺の領主である留守・宮城氏らが敵対したという。そして観応2:正平6年(1351)1月9日からは両派の抗争が各地で繰り広げられ、徐々に劣勢となっていた畠山父子や留守家次らは追い詰められ、同月15日までに府中の岩切城や新田城(留守城ともいう)等に籠った。
これを包囲した吉良勢に、その優勢を見てのことか、従うようになった者たちが馳せ参じた。中には北朝方(師直派)でありながら処遇等に不満があり、貞家からの軍勢催促に応じた白川顕朝などの姿もあった。
岩切城への総攻撃は2月12日であった。激戦だったようだが岩切城は1日で落城して畠山父子は切腹、彼らに従った武士ら100余人もこれに殉じたというが、状勢からみると勝敗は総攻撃以前に決していたものと思われる。
また、留守氏らの籠った新田城は岩切城が落城すると自落し、留守氏らは畠山一族の上野二郎を擁してさらに虚空蔵城に退却したが、ここにも吉良勢が迫り、抗戦の末に上野二郎は自害、留守氏らも生捕りにされた。留守氏はこの抗争に際して大打撃を受け、勢力を大きく減衰させることになった。
こうして吉良勢が畠山勢を圧倒し、「奥州両管領」とも文書に見えていた体制は、吉良貞家の単独となったのである。また、敗れた畠山氏は子孫が南陸奥の二本松を基盤とし、のちに二本松氏とも称されるようになった。