私    の    思    い    出

 思い出といっても、学校で遠足にいったとか、宿題で大変だったとか、そういう思い出ではありません。
今まで経験して、今だに忘れられず、またどうしてそのようなことが起こったのか、今もわからないような事柄です。

@空飛ぶ円盤
 あなたは、空飛ぶ円盤が実在するとお思いになりますか?最近は、テレビなどで円盤と思われる映像が放映されて、「円盤は実在する。」と思っている方が増えているのではないでしょうか。
実は私は、まだ小学校へ上がる前に、はっきりと空飛ぶ円盤を見たことがあるのです。
私が子供のころは、今のように「少子化」の反対でどこの家でも3〜5人くらいの子供がいた。私はその中で一番小さかった。近所の子が学校へ出かけてしまうと、一人で家の庭で遊んだものだ。
そんなある日、皆が学校へ出かけた後、庭で一人で遊んでいた。不図空を見上げると西の空から東の空へ、土星のような形をした円盤が音もたてずにスーと飛んでゆくのを見た。ほんの2〜3秒であった。色は軍服色であった。そんなに高いところでなく、ヘリコプターが飛ぶくらいの比較的低空であった。いまなら相当びっくりしたであろうが、驚きもせず家に戻って母に「今円盤が飛んで行ったよ。」と言った。母は関心がないらしく「フーン」と言っただけであった。食事の準備に余念がない。私はもっと母が興味を示してくれると思っていたので内心残念であった。
昼を過ぎると、三々五々子供たちが帰ってきた。私は、年長の子に「今日は、空飛ぶ円盤を見たよ。」と言った。周りを囲んだ子供たちは「嘘だー。」とか「円盤なんて無いんだよ。」とまったく本気にしようとしない。「そんなこと言うと、この子は変なことをいう子だ、と思われて相手にされなくなるから絶対に人には言わないほうがいいよ。」と一番しっかりした子が言った。私は、嘘を言ってはいないが、あの子が言ったのだから、言わないほうがいいのだろう、と硬く思って今日まで誰にも言わなかった。でも、はっきり言う。「私は、空飛ぶ円盤を見たのだ。絶対に。」

A僕って誰だろう
 まだ、小学校へあがる前のことだから4歳くらいのときだったと思う。鮮やかな夕焼けの出た日であった。ぽつんと家の庭に立っていると、突然「僕って誰なのだろう」という疑問が心の中に湧いてきた。「僕には名前がある。でも、そうではなくて僕を意識している僕って何なのだろう?お父さんもいるしお母さんもいる、兄ちゃんもいる。昨日までは、お父さんお母さん兄ちゃんとご飯を一緒に食べ、お風呂に入ったりするのが当たり前のことで、特にお父さんお母さん、兄ちゃん、僕ということを意識したことがなかった。でも、今、急に「僕」が意識され、お父さんともお母さんとも、兄ちゃんとも離れて違う世界に入ってしまったような感じがした。お父さんとお母さんの子であることには違いないが、僕を意識している僕って一体どこから来たのだろう。踏切を渡ってきたのだろうか?そんなことは無い。どこか知らない世界から来たのだ。その知らない世界ってどこにあるのだろう。その知らない世界ってどんな世界なのだろう。」と次々にわからないことが心に湧いてきて、考えるのが怖くなった。でも、どうしてもその疑問がしつこく頭に湧いてくる。ああ、怖い助けて!と思うと傍にいた母が、眉間にしわを寄せて「あんまり難しいこと考えないほうがいいよ」と心配して言ってくれた。その言葉で恐怖感はなくなったが、怖かった。本当に。でも、母はなぜ私が難しいことを考えているとわかったのであろう。今もわからない。

Bジャンケン
 小学校のときには「子ども会」というのがあった。近所の子供が集まって、夏休みに「お化け大会」をやったり、お昼を持って近くの公園へ行ったり、そんなことをやる会であった。私の子ども会は「黒鐘子ども会」といった。私が6年生になると、もう一人の6年生の子に「君のほうが会長に合っている。」と言われ、私が会長になることになった。ある日学校で、新しく会長になった人が全員放課後に校庭に集まった。ざわざわしている中、指導の先生が「まずジャンケンをします。相手を見つけなさい。負けたら勝った人の後ろにつきなさい。そうすると二人連れが出来るから、二人連れ同士でジャンケンをしなさい。負けた組は、勝った組の後ろにつきなさい。最後までやると一列になる。さあ、やりなさい。」と仰った。私は、そのとき絶対に最後まで勝ちたい、絶対一番になりたいと強く心に思った。一回目は勝った。二回目も勝った。三回目も勝った。胸がどきどきしてきた。本当に最後まで勝つのじゃないだろうか?どきどきしながら相手を見つけてジャンケンをしていった。その度に勝った。そうして最後のジャンケンのときが来た。これに勝てば自分の思ったとおりになる、絶対に勝ちたい。そう強く思ってジャンケンをした。結果はすぐに出た。思い通りに私は勝った。そして、一番になった。ジャンケンは実力ではない。ただ単に運が良かったかどうかで決まる。何回勝ち続けたのか忘れたが、私の後ろにつき従う友達を見て、うれしさ、満足感、信じられない思いで興奮していた。思いを強くするとそれが現実化するのであろうか?何にしてもこんなに運が良かったことは無かったし、今までにも無い。

C徒競走
 運動会になると競走が楽しみだった。徒競走とリレーがあった。徒競走は今は「短距離走」というそうであるが、私は、母に似たのか足が早かった。1年生から6年生まで徒競走は常に1着、紅白リレーも代表選手、丁目リレーも代表選手であった。毎年父母が見に来てくれて、写真好きの父はたくさんの写真を残してくれた。私の足の速いのは、学校中で有名であった。ある運動会の日、終わって家に帰ると母が「お前の走るのを見ていると、人に負けてたまるか!という気持ちが表に表れていたよ。」と言ったことがあった。確かに私は、走る前に必ず「絶対に負けるものか、絶対に」という思いを強く強く持ってから走ったものであった。
思いが強いとそれを実現する力も強く働くのであろうか。

D白い求人票
 大学へ進学した私は、様々な悩みを抱えながらも4年生になり、就職を決める時期となった。どこと言って就職の当ての無い私は、自分がどこへ行けばよいのかわからなかった。というより、ずっと学校という籠の中にいたので、いざ外に出ろといわれてもピンと来なかったのである。毎日毎日求人票の貼ってある就職掲示板を見回したが、どうも自分にはピンとくるところが無かった。イッソのこと大学院へ行こうかと考えたこともあった。その日もいつもの様に就職掲示板を見て回っていた。当時はコピーといっても青焼きで、それが掲示板いっぱいに貼られていたのである。不図自分の目を疑った。いっぱいに貼られた求人票の中に一枚だけ雪のように白い求人票があったのである。引きつけられるように歩み寄った。そして、「ここだ、ここだ。就職するのは絶対ここだ。」とあれほどまでわからなかった、就職先がその場でわかってしまった。後は試験だ。就職するためには就職試験に合格しなければならない。そのためには勉強をしなければならない。しかし、心に決めた就職先に入るためだったら勉強は苦にならなかった。朝から晩まで図書館に閉じこもり、勉強を続けた。図書館からの帰りに時々掲示板を見たが、白い求人票は二度と見えなかった。たった一度だけ白く、そして私にだけ見えたのだ。
そしていよいよ試験の日は来た。会場へ行ってみると60人募集のところ2000人以上が受験に来ていると聞いた。私の部屋には100人ほどがいたが、率で計算するとこの中からは3人弱しか受からないことになる。「大変な試験だ」と思いを新たにしているうちに試験が始まり、試験問題が配られた。解いてゆくうちに、試験勉強が功を奏したのであろう、ほとんど苦もなく解けた。もちろんまったくわからなかった問題もあったが、ほんのわずかだった。試験は終わった。2次試験(面接試験等)は、一週間後に1次試験に受かった人にだけ電報で連絡が行きます、とのこと。私は、一週間待った。しかし、その日、夕方まで待ったが電報は来なかった。「あんなに勉強したのに・・・」思わず世の中の厳しさ、自分への情けなさを感じていた。夕食直前に電話が鳴り「2次試験にはこられますね?」との問い合わせであった。私は一瞬戸惑った。それを言うと、「あなたは1次試験に合格しています。電報は遅れているのだと思います。」とのことだった。翌日午前中に電報は来た。住所を見ると間違っていることがわかった。大きな達成感を感じた。何にしても、第一関門は突破した。面接の日、やはり緊張した。出身大学名、自分の名前を言うのもずいぶん緊張をした。何を聞かれ何を答えたか覚えていない。数日後大きな封筒が届いた。中には合格を知らせる紙が入っていた。母に知らせると安心とも喜びともつかぬ調子で「良かったね」と言ってくれた。「合格証書を持ってきなさい。」と言われ手渡すと、亡き父の仏壇に報告しお線香をあげていた。私は、第一志望に入れる喜びを噛み締めていた。

E神の治療?
 就職が決まった私は卒業の日が近づくにつれ、胸に不安が占領し始めた。「本当に勤められるのであろうか」その不安が日増しに強まって行くのであった。「会社なんて一度も経験したことないし・・・みんな偉い人ばかり見たいだし・・・」。卒業の日=就職の日は刻々と迫ってくる。不安は増すばかりであった。そんな中、休みを利用して「修学旅行」と称して四国を巡る旅に出た。3月と言ってもまだ寒い日があった。高松に着き日中観光旅行をして宿に着く。もう夕食が用意されていてすぐに食べた。お風呂にも入った。何をするでもなく寝る時間になった。8畳くらいの和室で、布団がしかれていた。枕のすぐ上は床の間で、立派な松の木が床柱に据えられていた。布団に入ったが、不安でなかなか寝付けなかった。寝返りばかり打っていた。何時頃であろうか、敷かれた布団の左側の足のほうの畳が「ミシミシッ」と鳴った。少ししてまた「ミシミシッ」と鳴った。今度は少し頭のほうに近づいてきた。さすがに異変に気がついた私は「猫か何かがいるのだろうか?」と思っていた。そうしているうちにまた「ミシミシッ」と鳴った。今度は腰のあたりだ。さすがに緊張が走った。また「ミシミシッ」と鳴った。ちょうど寝ている私の左側を足元から一直線に頭のほうに向かってくる。そして、頭のすぐ左側の畳が「ミシミシッ」と鳴った。私は次に起こるであろう「驚くべき事変」に備えて息を止めていた。「ハッ」としたのと畳が「ミシミシッ」と鳴ったのが一緒だった。音は、頭の少し上の床の間に近いほうで鳴った。「何事も起こらないのだろうか?」私は相変わらず息を止めていた。少ししてまた「ミシミシッ」と鳴った。もう殆ど床柱のところだ。「どうなるのだろう」私は、気配をうかがっていた。と、今度は床柱の下の部分から「ミシミシッ」と言う音がした。音はまだ続き床柱をどんどん上に上っていった。「ミシミシッ」と言う音とともに。天井まで行き着いた。1分ほど私は緊張しながら様子を伺っていたがもうそれで音はしなくなった。いっぺんに緊張が解けてぐったりした。一体今のはなんだったのだろう?あれこれ考えた。でも、結論は出なかった。畳がミシミシ音がするのは良いとしても、床柱が下から音を立てて行ったのにはどう考えても人間技、否動物でも出来ないであろう。そんなことを考えているうちにいつの間にかぐっすり眠ってしまった。どのくらい経ったのだろう。夢か現実かわからないが、丸い白い円形が見えた。その円形の中に、パッと開いた両手が漢字の「八」の字の様に現れた。薄い白いゴム手袋をしているように見えた。そしてその白い手が、寝ている私の頭に近づき、頭蓋骨をいとも簡単にすり抜けて私の脳をいじくり始めた。「わー、殺されるー。」と悲鳴を上げた。と一秒か二秒で全てが消え去った。後は朝まで何も覚えていない。翌朝起きた。「なんと暖かいのだろう」とすぐに思った。体の芯から温かいのだ。陽気のせいではない。ぽかぽかする。それに気がついてみると、昨日まで苦しめられていた「不安」が跡形もなく消え去っていた。不思議だ。本当に心が軽い。鼻歌でも出そうだ。私は、寝床から起き、昨夜と同じ畳の上を歩いてみた。どんなに乱暴に歩いても音一つしなかった。何度か試したがついに音は最後までしなかった。その日観光旅行をしたが、終日からだが芯から暖かく、安心感に溢れた一日だった。どこへ行っても、何をしても楽しい一日だった。
それにしても、あの「ミシミシッ」という音の主は一体何だったのだろう?今もってわからない。

F亡き父の助言
 入社して就職をして5年目、大変な仕事を担当することになった。経理の年度決算の報告書を作成するのであるが、当時枚数にして30枚もあろうかという報告書を作成せねばならなかった。歴代の先輩たちは、必ず間違えて怒鳴られていた。いよいよ今年は私の番になったのだ。4月20日が提出期限であった。一人ではなく数人が協力してやるのであるが、私は一番の古株であったので中心になってやることになった。遅いときは深夜の帰宅、と言うこともあったが、不思議と仕事はスムーズに進んだ。提出の前日、「総合審査」と言って、読み合わせや再計算をして間違いないことがわかると赤鉛筆で点を打ってゆく。全部の審査が済むと、時計はもう8時を指していた。それでも早いほうであった。「ずっと遅かったから今日はこのへんで帰ろう。」そういって帰宅した。夕飯を済ませ自分の部屋に入った。「まだ寒いからドアは閉めておこう」そう思ってドアをバタンと閉めた。ベッドに寄りかかっていると、安心したのかいつの間にか眠ってしまった。どのくらい寝たのであろうか、白い光の玉が見えた。その光の玉の中に人間の顔の目から下の部分だけが見えている。頬ひげの剃り跡がやけに青く見えた。その口が動いた「おいおい、昭、昭、お前は今そんなに暢気に寝ているけど、お前の今やっている仕事、固定資産の受払いの15行目と特別損失の7行目が違っているよ。」とそこまで言うと光の玉は消えてしまった。と同時に部屋のドアが「パッタン」と音を立てて閉まった。その「パッタン」という音を聞くと私は「ハッ」として目が覚めた。「あれー、今のって何なんだ?誰れかが入ってきたのか?」そう思って部屋のドアを見ると、ちゃんと閉めたはずのドアが5cmばかり開いていたのである。
締め切った部屋だから風で空いたということはない。家人は皆寝静まっている。「おかしなことがあるものだ。でも、言われたことは書いておいてみよう。」そう思って白紙に言われたとおりに書き留めておいた。
翌日いつもより早く出勤してロッカーから報告書を出してきた。白紙を出し言われたところを見た。2箇所とも赤鉛筆で点が打ってある。昨日審査したから間違いないのだ。でも・・・。私は、もう一度計算しなおした。
おかしい。昨日審査したのに違っている。私は信じられず再度計算した。やはり違っている。もう一箇所も見た。ここも同じように違っているのを発見した。私は、すぐに直した。その日の午後報告書を持って提出に行った。例年だと、提出して必ず間違いを指摘され「再提出」という名誉でない事態が待っていた。しかし、今回はそれがない。ずっと待った。ついに決算確定日が来た。今年は間違いがなかったのだ。
60人の部員を率いる部長が「今年の決算は良くやった。これで俺(部長)の顔も立ったというものだ。ご苦労だった。」とわざわざ私のところまで来て言ってくれた。私は、ただただ100%の仕事が出来たことだけが嬉しかった。そして、あの日見た光の玉を思い出していた。よく考えると、あの頬ひげの剃り跡の濃いのは、そうだ亡くなった父のものだった。そうだ、間違いなく父のものだった。私のやった仕事は、自分の雌雄を決するような仕事であった。間違えれば、評価は格段に下がる。100%の仕事をしたのは、例がなかった。若くして亡くなった父は、私のことをずっと見守り、重大な局面で私に貴重な助言を与えてくれたのだ。
ただただ感謝するばかりだ。

G神の授業
 社会人になり、もう学生時代のように甘えは赦されなかった。学生時代は好きな友達同士だけと付き合っていればよかった。人間関係が選べたのである。社会人一年目はあっという間に過ぎた。やることなすこと出会うこと全てが初めての体験で、無我夢中でやったのだ。2年、3年すると、少しずつ余裕も出てきた。それと同時に、嫌な人間関係も経験してゆくことになった。赦しがたい思い、悔しさ、憤り、いろんな思いが心に浮かんできては私を苦しめた。私は、社会人になってすぐに日曜参禅会にに通うようになった。社会人生活の苦しみの救いを求めてだ。しかし、何もわからなかった。けれどもお経を誦することはとても心が落ち着き気持ちが良かった。社会人2年目の夏休みに、能登半島を巡る旅に出かけた。能登半島では永平寺を見学した。禅宗のお寺である。階段を登って永平寺に入ると、何とも懐かしい気がした。初めて訪れたのに、ずっと昔に来たような気がした。心から懐かしいなー、と思った。その後も、参禅会には行っていたが、やがてその足も遠のいていった。そんなある日、本屋で何か自分の心を救う本はないか探していたところ、「Sの家」の聖典と言われる「生命の実相」と言う本を見た。その名前を見た瞬間「何と懐かしい、何と今の私の心を表している本だろう。」としみじみ思った。すぐに買った。
前述した、父の助言で無事大きな仕事を無事に成し終えた私は、自宅から1時間20分ほどかかるところに転勤となった。通勤の電車もただ何もせずにいればずいぶん退屈だが、本を読めばかなり読める。私は、3年余りの赴任期間中に、その「生命の実相」を繰り返し読んだ。それにより人間の「こころ」と言うものを知り真剣に考えるようになった。しかし、3年を過ぎる頃からあれほど「いい本だ」と思った「生命の実相」も、読んでも全く心に残らないようになった。もう読みたいとは思わなくなった。
そんな頃、通勤の電車を乗り換えていたとき急に「守護霊団」と言う言葉が、頭に湧いてきた。「あれ?守護霊団?何のことだろう?」とその言葉が頭に貼り付いて取れなくなった。翌日は休みだった。S駅で用を達した後、帰りの私鉄の途中の駅で、急に降りたくなった。「ここは降りる駅ではない。」と思ったが、どうしても降りたくて仕方がなくなった。仕方なしに降りた。というより足が勝手に動いていた、と言ったほうが適切な表現かもしれない。改札を出て大きな本屋に入る。足がずんずん動いてあるコーナーの前で止まった。「哲学・宗教」のコーナーだった。手がスーと伸びてある本を掴んだ。ぱらぱらと目次を開いてみると「守護霊団」のことが書かれてあるのがわかった。「これを買おう。」すぐに買った。帰宅して読むと俳優の「丹波哲郎」さんが書いた本であった。それからは、丹波哲郎さんの守護霊に関する本をずいぶん読むようになった。もちろん霊界のこともずいぶん教えられた。そう言えば、「生命の実相」には霊界のことが殆ど書かれていなかった。この世とあの世を結ぶ霊能者のことも書かれてあった。また、霊界の様子を描いた本も出されたのでこれも買った。霊界のことが視覚的に理解できるようになった。本も随分たまった。それを机の上に重ねて置いていた。ある日の夕方「霊界の階層ってどんな風になっていたんだっけ?」と思い出せずにいた。外も暗くなってきたので雨戸を閉めようと立ち上がったとき、積んであった本に手がかかり、一冊が床に落ちた。拾い上げるとあるページが開いていた。読んでみると、霊界の階層が詳しく書かれていた。まるで、誰かがそのページを開いて床においてくれたようであった。また、こんなこともあった。わからないこと(霊界の関係で)があると、途中の駅で急に降りたくなる。そして、件の本屋に足が動いてゆく。そして、件のコーナーで手がスーッと伸びて本を取る。パラパラめくっていると、わからなかったことがそこに書かれている。こんな経験は随分した。
こんなことをしながら、私は3年ほど「丹波哲郎」さんの霊界に関する本で霊界の勉強をした。わからないときには、神?の手助けを受けながら・・・。そして3年を過ぎたある日、私は、人生で大変つらい目にあうのであった。そして、それがきっかけで私の人生を決定的に方向ずける人に会うことになるのである。
日曜参禅会も、生命の実相も、丹波哲郎さんの霊界の本も、すべてプレリュード(予備的知識)であった。
プロセスであった。これからが私の今生での本番であった。
随分と回り道をした。でも、現実の世界でも生まれてすぐに大学生になることなどありえず、まず幼稚園へ行き、小学校へ通い、中学を終えて高校に進みそうして初めて大学生になるのである。すべては私にとって学ばねばならないことだったのである。

○霊能者に会う。
 人生にはいろいろ辛いことがある。そういったことに会っても、気分転換や時間の経過が心を癒してくれ、いつの間にか日常生活に戻っている場合が多い。しかし、中にはどうしても忘れられないような、しかもその辛さが毎日のように続くこともある。私も、暫く前にそういった目に会った。余りにも辛いので、人生相談に行った。ちょうどその頃熱心に読んでいた丹波哲郎さんの主催する「21世紀研究会」の事務局に「こちらでは人生相談はしていませんか?」と一縷の望みを託して聞いてみた。他に、助かるすべが思い当たらなかったのである。「こちらではやっていませんが、会員の中に霊能者の方がいますので、良かったらご紹介します。」と言われた。もらったメモ紙に書かれてあった電話番号をまわしてみた。「予約制になっています。」とのこと。2月19日13時からと言うことに決まった。言われたとおり、東京は中野にあるお宅へ伺った。
最初は震えていた。霊能者ってどんな人だろう、そんな警戒とも恐れともつかぬ気持ちが、私の体を震わせたのだ。相談用紙に、ありきたりに住所、名前、年齢、電話番号、生年月日等を書いて先生の前に出した。
すると、先生は目を閉じて合掌をし誰かと話している風であった。そして、「あなたは、普通の人とは違う。」と仰った。これまでの苦しみは、心の糧にして真理を探究するとよい、とのことで五井昌久先生の「神と人間」を薦めてくださった。1時間ほどいろいろお話をして帰ることになったが、帰り道はとても心が軽く真っ白い感じがした。途中本屋に寄り、「神と人間」を買って帰った。すぐに読んでしまった。そして、次の本、次の本と次々に読んでいった。そのうち白光真宏会へ行きたいという気持ちが強くなり、平成2年の正月明けに東京道場へ行った。当時講師をしていらした「中川先生」に初めてお浄めをしていただいた。暫く東京道場通いが続いたが、市川の本部にも行きたくなり開催の日には参加した。
その年の11月下旬、私は再度その霊能者の方にお会いした。もちろん相談事でだ。11月22日午後1時が予約の時間であった。昼まで仕事をし昼食をとって退社しようとすると、上司から「どうしても頼みたいことがある」と、書類の送達を頼まれてしまった。それは、霊能者の方の方角とは反対の方へ行かねばならなかった。到底時間には間に合わない。が、仕方ない。半分は仕事だからな。そう思って書類を届けにいった。
用件を済ませ、中野に向かった。時計を見てばかりいた、2回目だったので駅を降りてからの道程は迷わなかった。少し急ぎ足になった。階段を上り玄関のブザーを押した。時計を見ると丁度1時を指していた。どう計算しても遅刻するであろうと思っていたのに、不思議にも間に合ってしまったのだ。これも「何か」の働きがあったからであろう。そう考えざるを得なかった。
その後、何回か相談をお願いしたが、ここのところはお会いしていない。最後にお会いしたとき先生は、あなたは白光真宏会で浄められていますので、私がお浄めをする必要がありませんね、と仰っていた。
もうあなたは私のところへ来る必要がありません。一人で全て出来ます。とも言われた。私は、長年やって来たことが報われたようでとてもうれしかった。

○神の使い?
 それは、平成3年(1991年)の夏のことだった。8月20日(火)に五井先生の夢を見た。私のところに来てくださったのだ。その4日前につまり8月16日(金)にテレビで「天地創造」という映画を見た。これを見たことによって、アダムとエバ(イブ)、エデンの園、バベルの塔、ノアの箱舟、虹の意味等伝説的に語られていることが、視覚的にわかった。19日(月)ソ連でクーデターが発生。エリツィンの危機。21日(水)北海道旅行に出発(利尻島・礼文島)。22日(木)朝刊でクーデター失敗の記事を見る。23日(金)朝5時から世界平和の祈りをソ連に向けて祈る。その日エリツィン大統領が勝利宣言を発する。と、時間的に書くとそうなる。
でも、これは全て偶然ではなかったように感じられる。前年に「北海道にはまだ行ったことがない。行くなら道南、道北、道東の三回に分けていこう。」と決めていたのである。前年は予定通り道南へ行った。とても楽しかった。天気もよかったし、ガイドさんもとてもよかった。バスに同乗の人たちもとてもよい人ばかりであった。「来年も必ず来よう。」そう思って東京に帰ってきたのだった。そして翌年(H3年)決めたとおり道北(利尻・礼文)の旅を申し込んだ。それは、日本で一番ソ連に近いところであった。
8月16日(金)「天地創造」と言う映画(テレビ)を見た。旧約聖書の創世記を題材にしたものであった。それによって「虹」の意味を知った。
8月19日(月)ソ連でクーデターが発生したのをニュースで知る。
8月20日(火)五井先生が私のところへ来てくださった。(夢を見る。)
8月21日(水)飛行機の中で、今回の北海道旅行の意味が胸に強く描かれた。「白光真宏会」の会員の一人として、ソ連に最も近いところで「世界平和の祈りを祈る」。それに違いないと強く思われた。そうとわかると一心に世界平和の祈りをはじめた。飛行機を降り観光バスに乗っても祈っていた。
8月22日(木)朝刊でクーデター失敗の記事を見る。相変わらず一心に平和の祈りをしていた。一日観光バスに乗り、夕方バスガイド嬢に「お客様の後ろに・・・」と言われて振り返ると、そこには見事な虹がかかっていたのである。私は、出発前に見た「天地創造」の映画を思い出した。ノアの箱舟がアララテ山の山頂に漂着し、ノアの一族が箱舟に乗せた全ての動物のつがいを放ったとき振り返るとそこには見事な虹がかかっていた。そこに神の声があった。「神と人間の間に虹を置こう。虹を見たらそれは神と人間との出会いだと思うがよい。」・・・。やはりそうだった。私は、神(五井先生)に選ばれてソ連に最も近いところまで来て、世界平和の祈りを祈ると言う使命を果たしているのだ。そう思うと尚のこと祈りを真剣にした。
8月23日(金)朝5時に起床をし、出来るだけソ連に近いと思われる海岸に出て世界平和の祈りをした。空はどんよりと鉛色の雲が垂れ込めている。どのくらい祈りをしたのであろう。不図空を見上げると先ほどまでの空とは一変し、真っ黒な雲がソ連から日本のほうに流れてくるのである。いくつもいくつも、ものすごいスピードで。私は、まるで映画のスペクタクル画面でも見るかのように、生唾を飲んで見ているのみであった。
こんなすごい光景は今まで見たことがなかった。先ほどまでは、動きなどない鉛色の雲がどんより垂れ込めているだけであったのに・・・。「世界平和の祈りの力を見たか!世界平和の祈りは天候などこのようにいとも簡単に変えることが出来るのだ。よく見るがよい。」私は、神にそういわれた気がした。そして「ソ連は大丈夫。」という気がした。すべての旅程が終わり、離島から北海道本島に戻ってくるフェリーに乗船するとき、さっと雲が晴れ青空が広がった。そして、私は船上の人となった。心地よい風が吹き抜ける。私の使命を達成したと言う気がした。満足感が広がった。「神様に使っていただいた。」何にも代えがたく有難かった。

○空いていた自由席
 霊能者の先生の勧めで「白光真宏会」の「誌友会員」となった私は、3年経過したところで「維持会員」となった。これまでの経験から3年するとその教えは「卒業」となっていたので、様子を見ていたのである。ずっと続けられそうだったので正式に「維持会員」になったのである。平成5年のことだったと思う。その年、富士野外道場で特別行事が行われることになった。参加の条件があり、それを達成した人だけが参加できるのである。私は、条件をクリアーし参加した。普段は白光の行事と言うと千葉県市川市の聖ヶ丘道場で行われていたが、特別行事と言うことで富士聖地で行われたのである。
行き方もわからなかったが、新幹線で新富士まで行き後は東海道線とタクシーの相乗りで何とか辿り着いた。初めてだったのではないだろうか、富士聖地に立つのは。時間が来て行事が始まった。様々なことをしたが、最後に今日のご褒美に超高級霊に触れ合わせて頂けることになった。私は、手の先がぴりぴりするのを感じながらその時を過ごした。後は何も感じなかった。それでその日の行事はすべて終わった。
帰りは、バスに乗り新幹線の新富士に着いた。ホームで電車を待っている間中、やはり疲れたのであろう「是非席に座りたい。」と思っていた。やがて、電車がすべるように入ってきた。私はすぐ窓から中を見た。期待に相違して満席だった。デッキにまで人が立っていて、それらの人を掻き分けて中に入って行った。どこを見ても空いていない。ところが丁度真ん中くらいまで来ると2人掛けの窓際の席がポツンと空いていた。隣の女性に「そこ、どなたか来るのですか」と聞くと「いいえ」と言う。私は、すぐに座った。これで、東京まで座っていける。心もからだも楽だった。あれほど、込み合っていたのに「どうぞ」と言うように一つだけ席が空いていた。「神様がご褒美に空けていてくれたんだ。」私は、勝手にそう思いながら、窓外の景色を見ていた。

○スムーズな一日
 何年前だったか忘れたが、某教団の「ノストラダムス・戦慄の啓示」とか言う映画が上映されたことがあった。私は、掲示板に張られたポスターで知った。その教団には興味が無かったが、映画だけは見たいと思った。土曜休みの日に、ポスターで見た上映館に場所はどこか電話で聞いた。S駅から3分ほどのところで、聞いただけでわかった。電話を切ったあと「しまった、始まりの時間を聞くんだった。」と残念な思いをした。「でも繰り返し上映するから、いつ行っても大丈夫だろう。」と思い直した。
昼食を済ませ最寄の駅に着くと不思議と電車が丁度のところで止まり、さっとドアが開いた。私が乗り込むとドアが閉まり、すぐに出発となった。一秒の待ち時間も無く無駄が無かった。乗換駅で階段を降りて行き、いつものところまで歩いて行くと、これまた電車が止まってドアが目の前で開いた。乗車するとすぐに出発となった。一秒の無駄も無く急ぎもしなかった。S駅に着き映画館まで歩いていったが、途中に信号がある。見ると赤信号であった。「ああ、とうとう待たされるのか。」と信号のところまで行くと、不思議にパッと信号が青に変わった。全く止まることなく横断できた。信号を渡ると青年が何かチラシを配っている。初めは素通りしたが、行過ぎて何を思ったか戻って一枚チラシをもらった。よく見たらこれから見る映画の割引券であった。
割引で入場券を買って、入場し着席すると30秒もしないうちに場内の照明が落ち、映画が始まった。映画の開始時間は聞かなかったのに・・・。
映画を見ると、私が観たい、或いは勉強しておくべき内容であった。これほどまでにすべてが順調に運ぶのは、神様の応援があるからであると思う。きっと、この映画で勉強しなさい、と言う神様のご指示で映画を見たと思う。だから、物事がスムーズに運んだのだと思う。
この後も、神様ごとをするときには物事がスムーズに運び邪魔が入らないと言う体験を何度かした。
その度に神様のなさることは、完璧なものだといつも感心させられる。

○入れ替わっていた手紙
 白光真宏会の会員になると、時々、会から手紙で連絡事項をもらうことがある。1〜2年前だったと思う。
その日も連絡事項の封書が届いた。開けてみると、連絡事項だった。ところが2枚入っている用紙は両方とも同じものであった。したがって、連絡事項の内容は不明のままであった。丁度第2土曜日であったので、いつもの集会へ行った。当然、連絡事項のことが話題に出た。私は「私のところへは1枚目が2枚来ました。白光でもこんな単純ミスをするのですね。」と少し驚いて話した。祈り、印、各国の平和の祈りなど終わって、集会も終わった。帰宅して、例の封書が目に入ったが、内容は既に集会で聞いていたので余り関心が無かった。しかしなぜかもう一度見てみたかった。開けてみると一枚目が見えた。そして、次を見ると何と正しい2枚目が入っていたのである。あれ?と思った。あれほど注意深く見て1枚目が2枚も入っていてがっかりしたのが、何と2枚目が入れ替わるように入っていたのである。普通ではこんなこと起きるはずは無い。まさか2枚目が白光真宏会から飛んできたわけでもあるまい。色々考えたが分からなかった。起こりえないことであるからだ。まるで手品のようであった。神様ごとは、ときに人を驚かせることもあるのだと感心した。



つづく