記事タイトル:ヒューマニズム 


お名前: てんとうむし   
他のファイルで問題になっています点を読んでいて気になりますのは、
やはり、正法、そして、その流布ということを当然の言葉の使い方をしていますが、
シリーズ初期のものを読んで考えてみますと・・・
自然法則・順従のために倫理観をどうしていかねばならないかということに
つきるように思うのですが、ここを読まれているかたは、どう思われるでしょうか。
正法も流布も便宜的に使っている言葉だけのように思います。
高橋氏から千乃先生への流れから、そこへ関わってきた方への配慮もあり、
使っているだけではないでしょうか・・・
シリーズや、高橋氏の著作を読むと、これだと思い、その内容を
全ての自分の規範にしようと思ってしまうことが多いと思うのです。
しかし、ちょっとたちどまり、自分の中の倫理道徳を確認してみる
ことが大切だと思います。そうして、シリーズと同じものであれば、
それは、シリーズを肯定するものとしてあるのでは、なく、
真理、人間の中にある共通のものだとその内容はどこにも所属して
いるものではないことを見切らねばなりません。
その確認があって始めて、天上界のメッセージをとらえねば
宗教の教義を信じるのと同じ事になってしまいます。

天上界のメッセージを検討するときも、自分の側の人として共通である
と思える倫理道徳の規範がきちっとあれば、べつにメッセージの内容が完全でなく
てもいいわけです。
批判しながら読み考えていけば良いわけなんです。それに、メッセージの
内容がおかしければすぐに気がつきます。

流布は、天上シリーズの全貌を伝えることだと考えているとそれは、
現在ストレートには、仲介者も具合が悪くなり、無理なのですから、
天からのメッセージは、こないのですから無理なことです。

ですから、人としてのヒューマニズムを踏まえた共存共栄などの倫理規範から、
それを検討することにに気づくべきではないかと思うのです。
あくまで本人の人としての他の人と共通な道徳規範からです。
天上界という絶対者からのものだからではいけないのです。

そういう姿勢でまわりのいろいろな人の著作、発言をみていきますと
同じ事をいっている方がたくさんいることに気がつきます。
中村天風氏なども本質は、同じ事を言っています。
人間の大使命についてのところで、「宇宙原則に即応してこの世の中の
進化と向上とを現実化することに努力する」ということを
語っています。こういう尊い大使命を遂行するためにこの
現象界に生まれて来たとおっしゃっています。
これなどは、同じ境地に思えます。
また、肥田春充(天真療法を書いた)氏は、宗教と科学の一致を
叫んでいます。べつに千乃正法が画期的ではないのです。
アインシュタインも「宗教のない科学は盲目であり、
科学のない宗教は無知である」というようなことを言っていますが
これも、おなじ、つながりがなくてはいけないことを言っています。

こういったことを見ていきますと、
今期の正法を伝える流れは、他のいろいろな正法を知らなくても
懸命に真理を伝えようとしてきた人の流れの一つでしかなく、
これでなければいけないのだという事はないことにだんだん
気づいていくのです。いくらでもそれぞれの限界を抱えながらも
頑張っている方に気づくのです。

霊体の転生の仕組み、他の星の人の様子、悪霊との戦い、・・・
こういったことは、情報としてとらえるのです。
実際には、ハッキリと証明もできないし、確信の元にはしないことです。
話し合ったり検討しあうのは、べつに良いと思うのです。
ただそれを真実のものだと知らない人へ語ってもそれは、無理な話です。
シリーズでも推論の域をでないと断っておられましたが・・・
[1999年12月21日 2時56分41秒]

お名前: てんとうむし   
ご意見ありがとうございます。そうですね。
これは、自分の経験に基づいていますが、昔、シリーズを人に伝えていくときに
まるで、ヤドカリみたいに、その内容を「自分の考えだ」とすっぽり今までの自分の
考えとすり替えてしまって、平然としていたときがあるわけです。
(これがまさに、宗教の欠点ですよね。)
相手が違う考えを持っていてもシリーズの内容でチェックして、相手は、間違っている
といい気になっていたんです。
天上界の方もそれを指摘しておっしゃっていました。「あなた達は、私達が
笑えと言えば笑う・・・」と。
自分で考えることをしない。自分が天上界の一人になったような視点から
ものを見てしまう。
それは、もうやめました。人間側に立ってできるだけ多くの人が共通に
持っているものを考えて行きながら、天上の人の示唆を煮詰めてみる、
そういう作業をやってみたいと思っています。
それで、人にとっては、当たり前の捉え方になると思いますけども、
書いて見たいと思っています。
ですので、「普遍的な形で世に浸透させていくための有効なテーマ」と
とらえて頂くとうれしい限りです。
[1999年12月17日 9時8分0秒]

お名前: JUBILOSO   
てんとうむしさん、こんばんは。
人道主義と人文主義のご解説、ありがとうございます。
ヒューマニズムについて深く掘り下げていく作業は、千乃正法の真髄を一宗教という形を
もってではなく、もっと普遍的な形で世に浸透させていくための有効なテーマとなります
ね。
これは宗教的思考の呪縛から解放される思考を獲得していくのに、誠に有効な話題だとも
思います。
もっとも、一つ間違うと「そんなものか」とか「あまりに当たり前すぎて」と見過ごされ
がちな分野でもあります。
特に日々の出来事に忙殺されてる方々はその傾向が強くなりがちですね。
[1999年12月17日 0時38分38秒]

お名前: てんとうむし   
人文主義は、文芸復興期にイタリアに起こった思想。
教会中心の考え方に対し、ギリシャ・ローマの文化を研究して、
人間性の解放・向上をはかった。というものですよね。

人道主義は、人種間や階級間の差別をなくし、人類全体の幸福の実現を
最大の目的とする主義。

ヒューマニズムという捉え方を調べていて、人文主義にしても
現在の宗教を超える倫理観をもつには、ルネサンスのころのこの
動きのようなものが必要ではないかとちょっと思ったのです。

現代は、人道主義(ヒューマニズム、ヒューマニタリアニズム)を基調として
共存共栄を唱え、科学と倫理の具体的な捉え方を研究していく。
これが、正法流布の方向、また、具体的な姿だと思うのです。

正法は、仏教用語ですから、地域性が強く、多くの宗教を乗り越えるには
問題があると思います。捉えて行く過程では、使っていいと思いますが、
結局、いまのままですと、千乃正法などと使ってしまって、小さく、
一宗教の様に見えてしまいます。

正法流布をただ打ち出すのではなく、
<自然法則のもとに人間は、生きて行かなくてはならない。
人間は、この自然法則に一時は、反する状態をことができる、しかし、
それでは、滅亡を結局は迎える。従って、それを回避するには、
自然法則・順従が必要である。そして、その順従の仕方を工夫して
捜していかなければならない。>
ということをのべることが、一番大切であるはずです。
そこをいろいろ論じ、研究していくことで、結果的には、正法流布と
初期の正法者がもっていたものと同じになるのではないでしょうか・・・

そして、その自然法則をよく理解し、警告してきている霊(天上世界)の存在がある。
そのメッセージは、どういう内容か、と検討してみれば、非情に世界共通に
倫理的なものであり納得せざるを得ないという捉え方・・・と位置づけるわけです。

「現代は、人道主義(ヒューマニズム、ヒューマニタリアニズム)を基調として
共存共栄を唱え、科学と倫理の具体的な捉え方を研究していく。」
となぜあえて、言うかといいますと、現在の人類が共通に持っている
考え方や、言葉を組立たところから、見ていく、また、考え、人に
伝えていかないと、結局は、宗教運動で終わってしまいそうに見えるからです。
[1999年12月16日 3時36分50秒]

お名前: JUBILOSO    URL
てんとうむしさん、こんばんは。
ヒューマニズムですか?私は残念ながら詳しくありませんが、確かにヒューマニズムという
言葉からイメージするものは人道主義的なものですね。
一方、人文主義の方はあまりピンと来なかったりします。(私だけかも知れませんが)
結局のところ、共産主義と人道主義的なものとは相容れませんね。
「人道主義の真髄は唯物論から入っていく切り口では理解ができず、また悟れもしないから」
というのがその理由だと思います。
[1999年12月15日 1時17分22秒]

お名前: てんとうむし   
最近、ヒューマニズム(humanism)について考えています。
詳しい方がいらっしゃったら教えていただけますでしょうか。

調べてみますと、人文主義と人道主義があります。
人道主義は、正しくは、ヒューマニタリアニズム(humanitarianism)
ですがでも、日本では、人道主義をヒューマニズムという捉え方に
なっているようです。
[1999年12月14日 8時1分45秒]


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