記事タイトル:再び、事実判断と価値判断について 


お名前: kouji    URL
待ってます。(^^)
今度からは、なるべく話題の趣旨・的を絞った記述にしようと思います。
ちなみに、HNを変えます。(現在、暫定)
[2000年2月6日 20時3分7秒]

お名前: てんとうむし   
観ちゃん
書き込みありがとう。
間があいてしまいましたね。
でも、また、書きますから、待っててくださいね。
[2000年2月6日 2時45分17秒]

お名前: 観ちゃん    URL
>事実判断の「判断」には、価値観がついてまわりますから、自然なんでしょうね、
>そう考えるほうが・・・そうすると、
>事実判断を科学の範囲で捉えているとしたら、この事実の「判断」には、
>科学者や、科学というものをとらえている人の「共有できる価値観」が
>存在していて判断していると見てよいのでしょうか・・・

(もしかしたら、てんとうむしさんが言わんとすることと
 違っているかもしれませんが、)
「共有できる見方」が存在していて判断しているといえると思います。
この見方は、教育や慣習(や、独創性)などで培われると思います。
(・・・こう考えると、教師の影響力というものは大きいですね。)


>>>理性の獲得の意識改革をすすめた人たちの流れから、うまれた、
>これも一つの「価値観」だというわけです。

>つまり、こういう現代の科学の基礎的考え方を作った人たちも価値観が
>「触れない」というところにあってそれが、現代の科学でも影響しているのでは、
>ないか、一つの「価値観」という捉え方では、ないかと思うのです。
>大した内容ではなく、それを言いたかったのですが、わかります?

「明証性のあるもの以外は『排除しよう』とする価値観」
「『触れない』という価値観」
ということですね。
確かに、これも1つの価値観ですね。
私が以前返事した文章「キリスト教的価値観の下に…」は
返事になってなかったですね。(^^;


>岩崎武雄さんの「正しく考えるために」
>(講談社現代新書)の説明が分かりやすいかもしれないので紹介すると・・・

>事実判断=「・・・がある。」「・・・である。」という判断。
>価値判断=「・・・であるべきである。」「・・・すべきである。」という判断。

国語辞典には、
・価値観  … そのものに どういう価値(意義)を認めるか
       についての、それぞれの人の考え方。
・価値判断 … 何かの価値について、それぞれの基準からなされる判断。

と書いてありました。
とすると、価値観は、対象に対する感じ方・見方・反応、
価値判断は、その価値観を基準にした判断、ということになるのでしょうか。
逆にいえば、価値観は、価値判断の基準となった見方、ということですね。


>岩崎さんの本で面白いのは、価値判断は、いわば、「理想についての判断」
>であり、事実存在していない事柄の判断だと言っています。
>理想というのは、実現されているものでは、ないものと言います。
>彼は、それで、理想とは、元来現実に対するものであって、事実判断から、
>価値判断は、導けないとおっしゃいます。
>私は、ここのところがどうも不満なのです。彼は、はっきり二極に分けていますが。
>この、二極に分ける捉え方は、現代の科学者も意識しているのだと
>思いますが、事実判断の定義、意味をもっと違う言葉で考えて、広げてとらえて、
>価値観も含んで、事実判断でまとめた捉え方が、良いのでは、ないかと
>私は、考えているんですが、まだ、よく、はっきりしません。

価値判断で出た理想というものは、容易に実現できればいいけれども、
なかには現実からかけ離れた理想であることもあります ので、
価値観の見直し、段階をおった目標、手法の改善などがとられますね。
[2000年1月20日 0時48分35秒]

お名前: てんとうむし   
観ちゃん


>「すでに価値観がある上で、事実判断をおこなっている」
       ともいえると思います。
------------------------------
やはり、そう思われますか。
事実判断の「判断」には、価値観がついてまわりますから、自然なんでしょうね、
そう考えるほうが・・・そうすると、
事実判断を科学の範囲で捉えているとしたら、この事実の「判断」には、
科学者や、科学というものをとらえている人の「共有できる価値観」が
存在していて判断していると見てよいのでしょうか・・・


>>理性の獲得の意識改革をすすめた人たちの流れから、うまれた、
これも一つの「価値観」だというわけです。
------------------------------
これはですね、うまく書けるかわかりませんが・・・「論語」でいえば、
「怪力乱神を語らず」というのと同じです。そういう存在は、感じている
敬うがそれには、触れない。カントも当時、四部しか売れなかった大作、
スウェーデンボルグの「天界の秘義」八巻を購入し、読んでいましたが、
「一視霊者の夢--形而上学の夢によって説明されたる」という本のなかで、
「オカルトの世界は、科学で扱えないだけであって、決して否定できる世界ではない。
ただ自分は学者だから、科学的アプローチしかできない」といっているそうです。
つまり、理性者の立場としての価値観がここには、あるように思う訳なんです。
デカルトも明証性のあるもの以外は、排除して、演繹的な捉え方をすすめてい
ますよね。
(ニュートンは、「天使論」「悪魔論」も研究していたはずですが、この論文は、
現在、大英博物館か、大学図書館にニュートンの名誉を汚すとかで、伏せられて
所蔵されているようですが。彼は、理性の価値観がまた、違っている人だった
ように思いますけど・・・。)
つまり、こういう現代の科学の基礎的考え方を作った人たちも価値観が
「触れない」というところにあってそれが、現代の科学でも影響しているのでは、
ないか、一つの「価値観」という捉え方では、ないかと思うのです。
大した内容ではなく、それを言いたかったのですが、わかります?


>「事実判断」「価値判断」「価値観」などの言葉の細かい定義と、
       例が必要ですね。(^^)
----------------------------------
そうなんですよね。
ただ、どうも、自分自身で、判らなくなるので、なるべく、定義付けなしで、
わかるような言葉で考えたり、伝えたり、したいんですが、無理かな・・・
岩崎武雄さんの「正しく考えるために」
(講談社現代新書)の説明が分かりやすいかもしれないので紹介すると・・・

事実判断=「・・・がある。」「・・・である。」という判断。
価値判断=「・・・であるべきである。」「・・・すべきである。」という判断。

だそうです。これ、なるほどなと思っているんですが。
ここからみて、価値観は、価値判断をしている内容でしょうか・・・
よくわからないけども。
メッセージ集では、価値観は、「生き方」と説明していましたですね。
これは、「・・・であるべき、すべき」と考えるとなるほどと思いますけど。
「価値判断を使っている考え方」かな。

岩崎さんの本で面白いのは、価値判断は、いわば、「理想についての判断」
であり、事実存在していない事柄の判断だと言っています。
理想というのは、実現されているものでは、ないものと言います。
彼は、それで、理想とは、元来現実に対するものであって、事実判断から、
価値判断は、導けないとおっしゃいます。
私は、ここのところがどうも不満なのです。彼は、はっきり二極に分けていますが。
この、二極に分ける捉え方は、現代の科学者も意識しているのだと
思いますが、事実判断の定義、意味をもっと違う言葉で考えて、広げてとらえて、
価値観も含んで、事実判断でまとめた捉え方が、良いのでは、ないかと
私は、考えているんですが、まだ、よく、はっきりしません。
ただそれのヒントになる考え方を、森田療法の森田正馬氏が語っています。
「事実唯真」という言葉で価値観と比較して述べているのですが、
まだ、それをよく検討できないでいます。
[2000年1月19日 2時35分27秒]

お名前: 観ちゃん    URL
>観ちゃん(こう読んでいいですね?)

「ちゃん+さん」では妙ですのでよろしくお願いします。(^^)

>また、書いてくれたの読んで、書いて見ますが、すぐに入れられるか
>判りませんが、宜しくお願いします。

こちらこそ、すぐには返事が書けないことが多いですが、よろしくお願いします。
[2000年1月18日 20時52分13秒]

お名前: てんとうむし   
観ちゃん(こう読んでいいですね?)

また、書いてくれたの読んで、書いて見ますが、すぐに入れられるか
判りませんが、宜しくお願いします。
[2000年1月18日 3時4分16秒]

お名前: 観ちゃん    URL
Windows2000評価版をいじってて遅くなってしまいました。すいません。(^^;
・・・と書きながらまだあちこち設定やってるぞ〜
それにしても、何らかの問題を残しているコンピュータをいじりながら、
イライラしたり時間を費やしている自分が、少しアホらしく感じてきました。
逆に、それだけ手がかかるからこそ楽しいとも言えるのですが・・・(−−;


>私の友人とこの件話していて、
>事実判断というのには、すでに価値観があってやっているのではないか
>というものがいるんですが
>そういう捉え方は、いかがでしょうか・・・

事実判断をしようとする際には、どうしても、
個人個人の視点・見方・捉え方、考え方・感情が加わるので、
そういう意味でも、
「すでに価値観がある上で、事実判断をおこなっている」
ともいえると思います。


例えば、TVのある動物番組で、
 『この動物の羽がこのような形になっているのはなぜでしょう?』
という問題が出されたとして、
 『敵からカモフラージュするため』
がその番組での正解だとすると、

これはすでに価値観がある上で導かれた答えととれると思います。
「どこかの神様がある目的でそうした」のか
「その動物の先祖が念力で変身した」のか
「自然淘汰でその種がそうなっていった結果」なのか
考えられる答えはいろいろですから。


物質を構成している「原子」いついて考えてみますと、
ある人は「大きな球」(原子核)の周りに「小さな球」(電子)が
周っている姿を想像するでしょうし、
またある人は、「ある性質を持った点」(原子核)の周りに
「別の性質を持った点」(電子)を想像するでしょう。
また別の人は、「ある状態の雲」の周りに「別の状態の雲」が位置している
と捉えるかもしれません。


正見とは、
白紙の状態で観る
いろんな視点から見てみる
コトだと思いますが、
なかなかぬぐいされないものだと思います。


>デカルト、カント(少し違うかも)など形而上には、触れないという理性の
>獲得の意識改革をすすめた人たちの流れから、うまれた、これも
>一つの「価値観」だというわけです。

すいません。ちょっと意味が把握できませんでした。(^^;

>この拒否のなかにも「価値観」が実は、存在しているわけです。
>これには、なるほどと思いましたがどう思います?・・・

詳しく読んだことがないのですが、というか、ほとんど知らないのですが、
一部は、キリスト教的価値観の下に、つまりある視点の下で、おこなわれている
のではないかと想像します。


>私が考えるに、宗教との違いは、
>まさにこの事実判断と価値判断をどうとらえているかに
>かかっているんだと思います。

>現在のジェイアイの関係者が見ていたら、こういうことも
>考えてみて欲しい訳なんです。
>先生の現状の事実を「どういう価値観」でみているかを・・・。


==============================


>しかし、「判断」が科学の場合の基準と哲学などの価値観の場合の基準が
>違うかも知れませんね。そこをはっきりさせてからでないと
>だめかな・・・定義の確認から入らないと・・・

「事実判断」「価値判断」「価値観」などの言葉の細かい定義と、
例が必要ですね。(^^)
[2000年1月10日 17時31分57秒]

お名前: てんとうむし   
しかし、「判断」が科学の場合の基準と哲学などの価値観の場合の基準が
違うかも知れませんね。そこをはっきりさせてからでないと
だめかな・・・定義の確認から入らないと・・・

観ちゃんさん、なんでも良いので私の読んで、気づいたところが
あったら、書いてみて下さい。
[1999年12月26日 9時46分10秒]

お名前: てんとうむし   
観ちゃんさん

書き込みありがとうございます。

>価値判断から事実を究明するという手法は、方法として非常にうまい手法
であると思いますが、万能ではなく、・・・

この捉え方、興味深いですね。
方法として「うまい手法」・・・そうですね。

私の友人とこの件話していて、事実判断というのには、すでに
価値観があってやっているのではないかというものがいるんですが
そういう捉え方は、いかがでしょうか・・・

「事実を判断(価値でみている)」というわけです。現代の
科学者などは、価値判断を排除しようとしますが、実は、価値観でみている
ことを素直にとらえることを拒否しているというわけです。
デカルト、カント(少し違うかも)など形而上には、触れないという理性の
獲得の意識改革をすすめた人たちの流れから、うまれた、これも
一つの「価値観」だというわけです。
この拒否のなかにも「価値観」が実は、存在しているわけです。

これには、なるほどと思いましたがどう思います?・・・

私が、なぜ、事実判断にこだわるかといいますと、すでにご承知だと思いますが、
現状のジェイアイ、や新興宗教の欠陥がここにあると考えるからです。
ジェイアイでも、かつて正常なときに宗教の違いを論じたことがありましたが、
教祖がいない、御利益を求めない、教理がない・・・とか比較していましたが、
どうもそれを読んでいて納得できなかった訳なんです。
結局、正常なときにそう論じていてもいまのような新興宗教とおなじような
現状になってしまったんですから、関係者もよくわかっていなかったんだと
思うんです。

私が考えるに、宗教との違いは、まさにこの事実判断と価値判断をどうとらえて
いるかにかかっているんだと思います。
現在のジェイアイの関係者が見ていたら、こういうことも考えてみて
欲しい訳なんです。先生の現状の事実を「どういう価値観」でみているかを・・・。
[1999年12月26日 9時40分28秒]

お名前: 観ちゃん    URL
こちらの掲示板へは久しぶりの書き込みになります。(^^)
私の視点からの単なるコメントを記述させていただきます。
(引用個所に手を加えています。)

>両方を意識すれば良いのですが、
>パヌエル様の発言を読まれて
>皆さんは、どのようにお考えでしょうか・・・

【1】事実判断→価値判断

>「科学者は、
> 宇宙の構造、仕組みの精緻であること、その神秘なまでの秩序に触れて
> 何ら感動を呼び覚まされる事はないのでしょうか。
> 心をうたれるところはないのでしょうか。
> その感動が生き生きと波打っているならば、
> その美しく整えられた宇宙の秩序と法則を破壊するものからはすべて手を引き、
> お互いに戒め合うくらいの良心がなければなりません。」

>これは、日本の科学者を批判したものですが、ここで考えてみたいのは、
>『事実判断から価値観が生まれている』
>ということではないのか、ということなんです。

例がないとよくわからないのですが〜
人体や遺伝子を例にとって考えてみることにします。

宇宙の極大極小の科学探求に限らず、人体のDNAも、
探求していると、人知を超えた(神のような)智を感じることと思います。
DNAには人体の様々な情報があり、そこから人体が生起して、
綿密に、活動・保持、成長・衰退しています。

そして、この人体の仕組みや、遺伝子に対して、現在、
医療的に手を加えている、もしくはどうするか検討しています。
果たしてこれら手を加えようとしているものうちの1つ1つは、
正しいのでしょうか?

手を加えることにより、
健康を回復したり、治癒を早めたり、悪化を遅らせたり
できるものがあります。
逆に、副作用や予期しない悪化をもたらす場合もあります。

もしも、快適=正しい という視点で見た場合、
すべての回復作業≒正しい となるかもしれませんが、
見る人の見方・背景によってこれは変わるはずです。

とすると、
 事実判断+視点→価値判断
となるのかな?


【2】価値判断→事実判断

>岩崎武雄さんの「哲学のすすめ」などをよみますと、
>『事実判断と価値判断は相いれない関係』と説明してしています。
>『お互いが必要だが、きちっと分けている』わけです。
>そうして、
>『価値判断が主体であり、 科学もそれを主体にとらえていき事実判断すべきである』
>という論調です。
>しかし・・・それですと、
>『現実をしっかりとらえない危険性』がでてくるわけです。
>宗教などの価値観はそのいい例です。

>私は、ニュートン時代の自然(哲)学の捉え方が、どうだろうと考えています。
>この時代は、哲学(宗教観)と科学が一体となっていました。
>神の存在の証明の為に法則を発見していますが、
>その神を現代は自然法則と置き換えれば同じになります。
>アインシュタインの発言をみていても近いものを感じます。

前述の医療の話しに続きますが、
ある宗教団体では、聖書の記述を忠実に守り(?)輸血をおこなわないそうです。
従って、そのために助かる病気も助からないと言ったケースもあるそうです。

中世のキリスト教では、魔女狩り等がおこなわれ、
ガリレオが「それでも地球は周っている」と言ったとされているのは
ご存知と思います。

価値判断から事実を究明するという手法は、方法として非常にうまい手法
であると思いますが、万能ではなく、
やはり『現実をしっかりとらえない危険性』があると思います。


【3】まったくの余談

1、子供は、正しく物事を認識して判断することに乏しい。
2、親は、正しい方法を子供に教えて、しつける。
3、子供は、成長するに従って、正しい判断ができるようになってくる。
[1999年12月23日 13時51分10秒]

お名前: てんとうむし   
以前に事実判断(科学的な捉え方)と価値判断(共有できる原理的価値観)
について考えていて、いろいろな方の意見を伺いましたが、
ふたたび伺いたい点がでましたので、判る方に教えていただきたいのですが。
天国の証のパヌエル様の発言のところで・・・

「科学者は、宇宙の構造、仕組みの精緻であること、その神秘なまでの
秩序に触れて何ら感動を呼び覚まされる事はないのでしょうか。心をうたれる
ところはないのでしょうか。その感動が生き生きと波打っているならば、
その美しく整えられた宇宙の秩序と法則を破壊するものからは、すべて
手を引き、お互いに戒め合う暗いの良心がなければなりません。」

これは、日本の科学者を批判したものですが、ここで考えてみたいのは、
事実判断から価値観が生まれているということではないのか、という
ことなんです。
岩崎武雄さんの「哲学のすすめ」などをよみますと、
事実判断と価値判断は相いれない関係と説明してしています。
お互いが必要だが、きちっと分けているわけです。
そうして、価値判断が主体であり、科学もそれを主体にとらえていく
事実判断すべきであるという論調です。
しかし・・・
それですと、現実をしっかりとらえない危険性がでてくるわけです。
宗教などの価値観はそのいい例です。

私は、ニュートン時代の自然(哲)学の捉え方が、どうだろうと
考えています。この時代は、哲学(宗教観)と科学が一体と
なっていました。
神の存在の証明の為に法則を発見していますが、その神を現代は
自然法則と置き換えれば同じになります。
アインシュタインの発言をみていても近いものを感じます。
両方を意識すれば良いのですが、パヌエル様の発言を読まれて
皆さんは、どのようにお考えでしょうか・・・
[1999年12月23日 10時36分59秒]


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