記事タイトル:まだ、価値判断と事実判断について 


お名前: てんとうむし   
谷沢さんの本は、単元が短く、とても読みやすいのでおすすめです。

最初の項目「人間通」のところで、

人間の器量としては、凡人でもよく、世に尽くす誠意と情熱があれば
それで充分である。・・・世の礎になりうるための必要条件は、
ただ、一つといえる。それは、他人(ひと)の心がわかることである。
ただそれだけである。・・・・

こういう捉え方が、とても良いんですね。

彼のライフワーク的目標は、「人間性の探求」だそうなので
面白い考え方がこの本をよむと知ることができて
そこから、自分の考えを反対にしても賛成にしても
発展させると、勉強になる様な気がします。
[2000年7月16日 12時50分38秒]

お名前: kouji   
>谷沢永一さんってご存知ですか?

いえ、私はあまり本は読まないほうなので。(^^;
昔は超能力とかコンピュータとかのコーナーで立ち読みしていたんですが、
最近は本屋にもほとんど行かなくなってしまいました。

谷沢永一さんの「人間通」(新潮選書・1068円・新潮社刊)ですね。
今度本屋に寄ったときに探してみます。
(「『ぷよぷよ通』じゃなくて『人間通』」と関連付けておけば大丈夫かな。)
[2000年7月15日 2時15分8秒]

お名前: てんとうむし   
どうもマックの爆弾がでやすくなってしまって・・・
初期設定のネットスケープのセットアップとプリファレンスを捨てて
来てみました。

無心は、私も、今後も、考えたり、経験から、とらえていきたいですね。

koujiさんは、谷沢永一さんってご存知ですか?
彼の「人間通」(新潮選書・1068円・新潮社刊)を読むと
人間性を考えてみるとっかかりのエッセイで、なにか手がかりがあるかも。
いま、拾い読みで読んで見たりしていますが、koujiさんも
どう?
[2000年7月14日 1時17分22秒]

お名前: kouji   
てんとうむしさん、こんばんは。
当分てんとうむしさんの書き込みがなかったので少し心配していましたが、
TOPページのほうの掲示板に書き込みされていたのを見たときにホッとしました。(^^)
マシンの調子がおかしかったんですね。

>共存共栄は、理屈からでも事実をみた、経験したところからでも
>両極からとにかくとらえられるものだということで良いのかも。

と思います。ただ、実際の共存共栄は、その味がわからないと
理屈の上ではわかりづらいかもしれません。

>また、無心というのは、koujiさんの経験のなかでどうですか。
>なにか、理屈と現実の事実のバランスを感じたことございますか?

ここでの無心については、文字通りに捉えないで考えてみました。
時間をかけることにより、
第一印象に左右されにくい、
いろんな視点が見えてくる、
感情的な要素が変化して、いろんな感覚や落ち着いた状態からも観察できる、
と読みました。

文字通りに(?)読むと、
よく考えてみる、
自分から離れてみる、
・・・文字通りになってないですね。(^^;

経験では、てんとうむしさんからこの無心について提示して頂いてからなので
まだ経験不足なのではありますが、
上記の箇条書きの通りです。
人の立場に立てる、結果としてどうなるかが見えてくる、
というのも付け加えることが出来ると思います。
[2000年6月27日 22時21分30秒]

お名前: てんとうむし   
「共存・共栄」は、理屈からも現実の事実からも出せるということ
かもしれませんね。

この間、日本に来られた、ダライ・ラマが面白いことをおっしゃっていました。
宗教のない人、信じない人は、自分の他者への行為が結局は自分のために
なるということをわかるようにおしえれば良いというようなことを・・・

共存共栄は、理屈からでも事実をみた、経験したところからでも
両極からとにかくとらえられるものだということで良いのかも。

また、無心というのは、koujiさんの経験のなかでどうですか。
なにか、理屈と現実の事実のバランスを感じたことございますか?
[2000年6月27日 12時1分44秒]

お名前: てんとうむし   
どうも別館のここへ来ると、爆弾がでてしまい、わがマックは、
フリーズしてしまって。
でも、ようやく安定したようです。
なんせ、第二世代のPCなので・・・
[2000年6月27日 11時49分59秒]

お名前: kouji   
てんとうむしさんへ

遅くなってすいません。
どうも私は物事をとりかかるまでに時間がかかるんですよね。(^^;


>価値観というものをいつも固定したものではなく捉えていると、
>宗教団体などの欠陥がすぐ見抜けるような氣がします。

宗教に限らず、いろんな見方、いろんな立場からの見方をすると、
「ん?ここは・・・」と思えやすくなりますね。
私を含め現代人は、教育方法がまずかったのか、それとも元々そうなのか、
流れてくる情報に流されてしまいがちですが。


>そのとき、「現実の事実の見方」が問題になると思いますが、
>森田は、面白いことを言っています。
>その事実をじっと見ていなさい、といいます。
>無心の心にして見ているとそこに、人間には、調和の働きがでてきて
>単純に理性だけ、感性だけでない判断が出てくると言うのです。
>瞬間の判断では、ないので感覚的な動物的なものでは、ないようですが、
>ここがちょっと考えて見たいところです・・・

無心・・・わかりませんが、
じっと見ていることによって、
最初に出てくる先入観を排除できたり、
そのうちに新たな視点が生まれてくるというようなことなのかもしれません。
そうだと考えるとこれは重要なことですね。


〜〜〜〜〜〜〜
>ですから、森田が言っている、価値観は、相対的であるという
>意識がきっと大切なのでしょうね・・・
>普遍的、絶対的価値観というものは、ないという意識が大切なのかもしれません。

そうですね。そう見ていくと、おかしいと思われる価値観も見えてくる、
また、逆に、相手の考え・価値観の持ち方を受け入れることも出来る
ようになってくるのではないかと思います。

>それと「無心」で物事の事実をみていく・・・
>ここの捉え方、どう思われます。人間の脳の働きは、右、左の役割が
>明確化されてきていますが、それは、理性と感性と役割を持っているような氣もしますが
>「無心」という捉え方、心のもっていき方は、なんらかのつながりがあるのか、
>ちょっと興味がありますが、よくわかりません。

人間は理性と感性の持ち主なので、どちらかが欠けた捉え方というのは、
人に関した物事を捉える上で良くないということかもしれないです、
そういう意味でも、じっと時間をかけて捉えなおすということは
優れたことかもしれません。
(無常なものを捉える場合もそうかもしれません。)
[2000年6月10日 15時4分19秒]

お名前: kouji    URL
>理屈と現実の事実と分けて考えてみていますが、
>「共存・共栄」は、理屈からでたものでは、ないのでは、ないかと
>考えています。
>人間達の経験から、でたもの、現実の問題を経験してきた
>結果の判断だと思いますがどう思われますか。

「共存・共栄」は、理屈から出すことは出来るのではないかと思いますが、
浅はかな理屈からは なかなか出てこないものなのではないか と感じます。
浅はかな理屈からは、利己的、孤立的、感情・感覚を失った答えが出やすいため、
「共存・共栄」という、実感覚を伴ったほうが導き出されやすいことは、
理屈からは出にくいように最近感じます。

>「共存・共栄」の理屈は、あとからつけたもの、そうとらえると
>この規範が単なる価値観からでは、なく現実の事実からの
>ものであり、より、宗教などの価値観とは、違うという認識に
>立てそうな気がしています。

後先については何もいえませんが、
「共存・共栄」は現実の事実でないと「共存・共栄」とはいえない存在ではないかと、
う〜ん、表現が変ですね、(^^;
現実のものでない「共存・共栄」は概念であり、
現実の「共存・共栄」でないと実感できない。
愛情は現実であるから愛情。ん〜、ここは、まだ私の理解が進んでないですね。(^^;
[2000年6月6日 20時50分36秒]

お名前: てんとうむし   
理屈と現実の事実と分けて考えてみていますが、
「共存・共栄」は、理屈からでたものでは、ないのでは、ないかと
考えています。
人間達の経験から、でたもの、現実の問題を経験してきた
結果の判断だと思いますがどう思われますか。

「共存・共栄」の理屈は、あとからつけたもの、そうとらえると
この規範が単なる価値観からでは、なく現実の事実からの
ものであり、より、宗教などの価値観とは、違うという認識に
立てそうな気がしています。
[2000年6月6日 11時51分5秒]

お名前: てんとうむし   
koujiさん
お心遣いありがとう。
[2000年6月6日 11時44分16秒]

お名前: kouji   
てんとうむしさん、
お身体を大切にしてくださいね。(^^)

無理せずに
 元気ハツラツ
  精神統一

私からの返事はもう少し待ってください。(^^;ゞ
[2000年6月3日 8時49分18秒]

お名前: てんとうむし   
koujiさん
大分時間があき、また、大したお返事になっていませんが、なにか
思いついたら書いてみてください。


>興味深い文ですね。(^^)
       1.調和。科学と芸術。実用と趣味。
       2.事実を離れて思想はない。
       3.事実を離れて気分や思想の上に思想をたてるのが危なっかしい。
---------------------------------------------
私もそう思います。


>ここで、ちょっと私が考えたのは、事実からの思想、つまり、
>理屈は、あくまで、現実、事実からくるのでは、ないかということです。
>>まさに、宗教団体の人や私たち(?、少なくとも私はそうです(^^;)
が陥りやすいことですね。
現実に実現するのものではなく、観念の遊びとしてしてしまったり。
これが報道関係の場合、口先だけの、批判しかしないアナウンサーになったり、
これが立法行政の場合、できもしないような法律を作って混乱させたり。
----------------------------------------------
価値観というものをいつも固定したものではなく捉えていると、
宗教団体などの欠陥がすぐ見抜けるような氣がします。

現実の事実の方をみてその宗教団体の理屈をみていけばいいので
すぐ変なものは、わかりますね。

そのとき、「現実の事実の見方」が問題になると思いますが、
森田は、面白いことを言っています。
その事実をじっと見ていなさい、といいます。
無心の心にして見ているとそこに、人間には、調和の働きがでてきて
単純に理性だけ、感性だけでない判断が出てくると言うのです。
瞬間の判断では、ないので感覚的な動物的なものでは、ないようですが、
ここがちょっと考えて見たいところです・・・


>価値観のとらえなおしを具体的にする時に、
       事実と理屈があっているかどうかを見るという点で、
       方法の細かい点はケースバイケースかもしれません。
---------------------------------------
本当、ここが大切なところだと思います。


>例えば、
       本を読んで、ある一つの「理屈」を知り、実生活において事実とその理屈とを
       照らし合わせることで、価値観のとらえなおしをするというケースがあります。
       このケースの場合、「理屈」があらかじめ頭にあり、それと目の前に展開される現象
       とを照らし合わせる自分がいるということになります。

       また別のケースとしては、実生活においていろんな角度から見て試行錯誤した結果
       「こうしたほうがいい」という結論に至り、それを汎用的な視野で見てみて「理屈」
       が出てくるケースがあります。また、出てきた理屈が以前読んだ本にかかれている
       ことを後で気づくなんてこともあります。

       ここでも注意すべきは、捉えなおしを試みた価値観も
       「厭世観とか楽天観とか・・・自分の気質から割り出した一方面の観察」
       でありえるということであって、
       ものや場合によっては、絶対視したり・汎用視したりするのは危険ですね。
------------------------------------------------
ですから、森田が言っている、価値観は、相対的であるという
意識がきっと大切なのでしょうね・・・
普遍的、絶対的価値観というものは、ないという意識が大切なのかもしれません。
それと「無心」で物事の事実をみていく・・・
ここの捉え方、どう思われます。人間の脳の働きは、右、左の役割が
明確化されてきていますが、それは、理性と感性と役割を持っているような氣もしますが
「無心」という捉え方、心の持って生き方は、なんらかのつながりがあるのか、
ちょっと興味がありますが、よくわかりません。


>「正法は常に現実に合うから正法というのだ!」なんて言われそうですが、
       現実にあわなくなったものは あうように変えなければ 何の価値もない
       と言っても過言ではないのではと思います。
-----------------------------------------------
そうだと思います。


>しかし「正法」と一言で呼んでいるものそのものを
       ひとつひとつ具体的に吟味してみないと
       正法に対するこの会話そのものが「理屈の遊技」でしかない
       ということになると思います。
       (少なくとも今の私には正法の概念が明確ではないので。)
------------------------------------------------
おっしゃるとおりだと思います。
[2000年6月1日 14時27分36秒]

お名前: kouji   
いえ、ここほど考えては書いていません。(^^;

今、労働時間や睡眠時間を再検討しています。
「命あってのものだねぇ〜」ですので。(^^)
[2000年5月25日 22時54分40秒]

お名前: てんとうむし   
koujiさんへ

どうもからだの調子がわるく、気分のいいときに
興味がでたものを書いていてこのところこちらへの
内省が進まず、書けなくてすみません。
koujiさんは、他へも元気に書き込んでいるようですね。
[2000年5月22日 12時50分24秒]

お名前: kouji   
>大分あいだがあきました。また、あとで、ちゃんと書きますが・・・

特に急いではいませんので。(^^)


>分子生物学から、でてきた分子栄養学という
>捉え方があるそうですが、ご存知でしょうか。

いえ、耳にしたことがもしかするとあるかもしれませんが、知りません。(^^;


>塩分を減らすのではなく、カリウムとのバランスがポイントで

確か、NaとKとによって、神経の電気的伝達などが起こると学んだような
気がします。そういったこともあって、よく摂るNaよりもKをよく摂るべき
なんですよね。
(IME2000って便利ですね。
 「とる」を変換したら、いろんな「とる」の意味が表示されます。)


>価値観の上にさらに価値観を重ねておかしくなるということもあるのでしょうね。

確かに、本を読むと、栄養学も価値観の重ね着といった感じを感じますね。

TV番組を見ると、チャンとした人は、最新の情報をわかりやすく教え、
以前の情報の誤りやその前の情報の誤りなども訂正して教えてくれます。
でも、適当な番組は、それなりの肩書きを持ったDrが出てはきますが、
価値観を重ねる重ねない以前に、いい加減な事しかいいません。


>こりゃ・・・かちかち山だ・・?!

(爆笑)
[2000年4月24日 22時26分55秒]

お名前: てんとうむし   
大分あいだがあきました。また、あとで、ちゃんと書きますが・・・

「時空の歪み」については、よくわからないです。
お名前しかよく判りませんが、ホーキング氏などは、どうとらえて
いるのでしょうか?

栄養と健康情報で、最近の、分子栄養学というのは、ご存知ですか。
自然食品に私も興味があり、色々食べたり、本も読んでみましたが
経験則から、でてくる考え方もおおく、疑問点もありましたが、
それをカバーできる科学的見方がでてきて、これは、すばらしいなあと
考えているのですが、分子生物学から、でてきた分子栄養学という
捉え方があるそうですが、ご存知でしょうか。

産経新聞のコラムに以前連載されたこともある、三石巌氏が
「医学常識は、ウソだらけ」という本で書いています。(クレスト社)

塩分とりすぎにしても塩分を減らすのではなく、カリウムとのバランス
がポイントで高血圧が塩分のせいだというのは、ウソだというのです。
良質のタンパク、カルシウム、マグネシウム、カリウムのバランスが
大切で、遺伝的に高血圧になるねずみにこれらを大量投与させたところ
寿命をまっとうするまで高血圧は、でなかったそうです。
ところが、医者は、こういう研究結果に目をむけず、習慣的に
「塩分を控えなさい」という一点張りだというのです。

こう言った例が色々紹介されています。
作者自身が経験しているエピソードなどもとても考えさせられます。
医者に目が必ず見えなくなると言われ、それを分子栄養学で
治した話。
彼は、東大の物理学科をでられ、大学で教えられていた方ですが
三石理論として、最近は注目されつつあるようです。

http://www.pastelnet.or.jp/users/bignews/MITUI.htm

で本の紹介もしている方がおられます。

分子栄養学での医者の態度もそうですが、これも価値観の問題に
思えますね。
価値観の上にさらに価値観を重ねておかしくなるということもあるのでしょうね。
価値の上に価値を重ねていくと・・・

こりゃ・・・かちかち山だ・・?!
きっと背中に火がついてどうしようもうなくなるんですね・・・天罰かな・・・(笑)
[2000年4月24日 8時46分24秒]

お名前: kouji   
>事実との整合性を常にとらえなおし続ける。
>科学者がつねに実験で確かめているようにその概念が事実とどう
>関わっているかをみていく。
>「教理」のように信じこまない---ということでは、ないでしょうか。

余談ですが、時空の歪みが相対性理論から予想され、
実験で近いものが認められていますが、
その後の実験はどうなっているのでしょうね?
確立されてしまったのでしょうか。誰も実験していないのかな?
また、果物のザクロに女性ホルモンと同等のものが含まれていて
美容にいいとか宣伝されていましたが、
その後の実験で、ザクロを原料とする製品からその成分が検出されなかった
とか聞きました。(よく買ってたもので・・・(^^;)
栄養とか健康とかの情報は、それまで常識だったものが嘘になり、
さらにその新しい情報さえもその後くつがえされていますね。


>よく問題になった、統一教会の場合も、教理の理屈が一つ「生き方」として
>定着するとそこから、抜け出せなくなります。
>前にも「性(さが)」と申し上げましたが、まるで、手品でにわとりや鳩の目を
>ふさぎ身体全体をこすると催眠状態にかかるように、人間も価値観が定着すると
>人生観も変わってしまいます。

オーム真理教の信者がいまだに抜け出せないでいるのも
そういうことなんでしょうかね。
情報などが身近ではないのでよく知りませんが。
(それとも何か化学的な方法でアルコール依存症みたいに
 漬けられて抜け出せないとか?!)


>ところが、「生き方」が一つでは、ないんだということに気づくとそれが解ける
>と思います。統一教会から、離れた人で、その体験をみてみると、
>ある方は、交通事故を起こした後、親に隔離され、統一教会から時間的に
>大分はなれ静養し、その間に、一般的なキリスト教の牧師さんに聖書などの話を
>聞いたそうです。この経験により、「生き方」は、一つではないということに
>気づくわけです。

なるほど!!


>個人で規範にするもの。あまり良い言い方ではないんですが、「利用する」
>とよりよく心を整え、共存共栄の仕組みになっている自然のなかで
>生きやすくなるという・・・・
>個人の自分が使っていけばよいのでそれを人に説くものではなく、
>「情報」として伝えていく、ものなのだと思います。

その通りですね。
[2000年4月15日 13時40分51秒]

お名前: kouji   
>もう少し、考えてみるのに参考になるかもしれない
>森田の言葉を紹介してみます。
(途中略)

興味深い文ですね。(^^)
1.調和。科学と芸術。実用と趣味。
2.事実を離れて思想はない。
3.事実を離れて気分や思想の上に思想をたてるのが危なっかしい。


>ここで、ちょっと私が考えたのは、事実からの思想、つまり、
>理屈は、あくまで、現実、事実からくるのでは、ないかということです。

>価値観が理屈のうえにあるとすると現実を見る見方からはなれてしまい
>やすいということかもしれません。

まさに、宗教団体の人や私たち(?、少なくとも私はそうです(^^;)
が陥りやすいことですね。
現実に実現するのものではなく、観念の遊びとしてしてしまったり。

これが報道関係の場合、口先だけの、批判しかしないアナウンサーになったり、
これが立法行政の場合、できもしないような法律を作って混乱させたり。
[2000年4月15日 12時7分12秒]

お名前: kouji   
>「哲学には、厭世観とか楽天観とかいうものがあるが、みなおのおのその哲学者
> の自分の気質から割り出した人生の一方面の観察であって、一歩誤れば
> 理屈の遊技になるのである。事実唯真ということから、人生の全体を
> 見れば、そんな自分の都合の良いような理屈は、用にたたないのである。」

>これを読んでいて、思ったのですが、価値観のとらえなおしは、具体的には、
>事実とその理屈があっているかどうかを見る自分がいるということでは
>ないかということなんですが、どうでしょう?

価値観のとらえなおしを具体的にする時に
事実と理屈があっているかどうかを見る自分がいるということは、
そのとおりだと思います。

ただ、仮に複数の理屈が導き出せて、それらと事実とが
どれも一見してあっているというケースでは、
人がそのうちの一つだけを導き出し、それにとらわれると、
時によっては通用しなかったり、ほかの人には通用しなかったり、
悲惨な結果になり得ますね。
逆に、人が複数の理屈を導き出し、どれか一つを必ず選択しなければならない場合
迷うことになりますね。(^^;


価値観のとらえなおしを具体的にする時に、
事実と理屈があっているかどうかを見るという点で、
方法の細かい点はケースバイケースかもしれません。

例えば、
本を読んで、ある一つの「理屈」を知り、実生活において事実とその理屈とを
照らし合わせることで、価値観のとらえなおしをするというケースがあります。
このケースの場合、「理屈」があらかじめ頭にあり、それと目の前に展開される現象
とを照らし合わせる自分がいるということになります。

また別のケースとしては、実生活においていろんな角度から見て試行錯誤した結果
「こうしたほうがいい」という結論に至り、それを汎用的な視野で見てみて「理屈」
が出てくるケースがあります。また、出てきた理屈が以前読んだ本にかかれている
ことを後で気づくなんてこともあります。

ここでも注意すべきは、捉えなおしを試みた価値観も
「厭世観とか楽天観とか・・・自分の気質から割り出した一方面の観察」
でありえるということであって、
ものや場合によっては、絶対視したり・汎用視したりするのは危険ですね。


>ですから、理屈が見つけられたとしたら、その理屈を使って、いろいろ
>考えを展開していきますが、あくまで、事実との整合性を見続けて
>使っていかなくては、いけないんではないでしょうか。

そうですね。
見つけ出した理屈を使っていろんな場合に展開していく場合も、
事実との整合性の見直しや、価値観の捉えなおしが必要ですね。


>たとえば、正法というすばらしい捉え方を概念を決め打ち出したとしても
>それが、現実にあわなくなったら、変えなくては、いけないということ
>かもしれません。しかし、この場合、事実は、一つであり、言葉やとらえかたは、
>変えなくては、いけないが、見ているものは、一つ、おなじものである
>のでは、ないかと思います。

「正法は常に現実に合うから正法というのだ!」なんて言われそうですが、
現実にあわなくなったものは あうように変えなければ 何の価値もない
と言っても過言ではないのではと思います。

しかし「正法」と一言で呼んでいるものそのものを
ひとつひとつ具体的に吟味してみないと
正法に対するこの会話そのものが「理屈の遊技」でしかない
ということになると思います。
(少なくとも今の私には正法の概念が明確ではないので。)


>正法の歴史のところをみると、ギリシアのころにそのとらえかたを説明して
>いますが、正法とは、言っていなかった訳です。
>ある、事実を歴史がくだり、捉え方が多様になってきて、正法と使って
>いるわけです。

(ちなみに、「正法」という言葉自体も一般に使われる言葉ではないですね。)
[2000年4月15日 11時20分21秒]

お名前: てんとうむし   
> 正法の概念は、自分で気づかないうちに大きな価値観を
 勝手に植え付けてしまっていることがあるのではないでしょうか?
--------------------------------
あるかもしれないですよね。


>今までの他のスレッドや掲示板等のいろんな書き込みを見てもそう思えます。
やはり、1つ1つ、吟味して、どうしてそうなのかを理解する、
またほかの捉え方はどうかを考えてみることも重要と思います。
リスクを負うこともありますが・・・
--------------------------------
そう思います。
事実との整合性を常にとらえなおし続ける。
科学者がつねに実験で確かめているようにその概念が事実とどう
関わっているかをみていく。
「教理」のように信じこまない---ということでは、ないでしょうか。

私が考えているのは、正法を後世へつたえていくときそれは、
「教理」では、なく、「情報」として伝えたいと思っています。
正法を知ることで「道徳観」は、整理され、きわだったポイントを
自覚できるのですが、これを「固定した」価値観としてしまう危険性が発生します。
私もよくやってしまうのですが、考え方が間違っていると思う相手に
価値観を振りかざしてしまうようなんです。
(このあたり、道徳が価値観かという点を見切っていないのであまり
言えませんが)


>略-----こんなふうにいろいろ角度を変えて捉えなおしていくと、
 周りの雰囲気から生まれていつのまにか普通だと思い込んでしまっている
そして固定されていた自分の価値観で自分や人を縛ってしまうということも
減ってきます。
-----------------------------------------------
おっしゃるとおりだと思います。


> 宗教のマインドコントロールにしても、植え付けてしまった価値観を捉えなおして
いくことが大切になるでしょうね。
------------------------------------------------
そう思います。
マインドコントロールの状態は、一つの理屈に固執して、それを価値観にして
いるところから生じていると思います。

よく問題になった、統一教会の場合も、教理の理屈が一つ「生き方」として
定着するとそこから、抜け出せなくなります。
前にも「性(さが)」と申し上げましたが、まるで、手品でにわとり、や鳩の目を
ふさぎ身体全体をこすると催眠状態にかかるように、人間も価値観が定着すると
人生観も変わってしまいます。

ところが、「生き方」が一つでは、ないんだということに気づくとそれが溶ける
と思います。統一教会から、離れた人で、その体験をみてみると、
ある方は、交通事故を起こした後、親に隔離され、統一教会から時間的に
大分はなれ静養し、その間に、一般的なキリスト教の牧師さんに聖書などの話を
聞いたそうです。この経験により、「生き方」は、一つではないということに
気づくわけです。


> 結局のところ、人は理屈で生きているのではなくて、
意識(心)で生きているのであって、
八正道の規範というものは、その意識(心)のための方法なんですよね。
(「〜だから」と無理に理屈を付ける必要はないと思う。)
----------------------------------------------
そうだと思います。
個人で規範にするもの。あまり良い言い方ではないんですが、「利用する」
とよりよく心を整え、共存共栄の仕組みになっている自然のなかで
生きやすくなるという・・・・
個人の自分が使っていけばよいのでそれを人に説くものではなく、
「情報」として伝えていく、ものなのだと思います。
ところが、これを価値観の<判断知識>として、違う考え方を持った人がいると
振りかざしてしまうことがあるのでは、ないでしょうか。
それが、いわゆる、「普遍的、絶対的価値観」という捉え方になるのだと
思います。
[2000年4月14日 12時17分14秒]

お名前: てんとうむし   
もう少し、考えてみるのに参考になるかもしれない
森田の言葉を紹介してみます。
彼は、精神科医ですが、ご自分で科学者であると自覚のあった人なので
その発言は、興味深いところがありますので。
こんなことも言っています。

「読者の中には、あるいは私を目して科学万能主義で気分を排斥し、
芸術否定論者と解する人がいるかもしれない。だが、私自身のつもりからは、
人生は、調和であるという調和論者である。もし、この調和という複雑な
条件事情を考えないで、たんに一方のみを主張するならば、それは、人生の
一知半解者であるといいたいのである。ここにたとえば手ぬぐいという
単一なるものでさえも、その寸法と形とは、一定しているが、その色や
模様は、千変万化である。そこに科学と芸術の離るべからざる関係が
あり、実用と趣味との調和がある。
人間万事一として調和でないものは、ない。ただ、思想は、事実から
起こったものである。事実を離れて思想はない。また、事実とは、
感動も思想のパラドクスも人間心理の事実である。
この事実を如実に批判するのが正しい思想である。
事実を離れて気分や思想の上に思想をたてるのが危なっかしいと
いうのである。・・・略・・・。」

ここで、ちょっと私が考えたのは、事実からの思想、つまり、
理屈は、あくまで、現実、事実からくるのでは、ないかということです。

価値観が理屈のうえにあるとすると現実を見る見方からはなれてしまい
やすいということかもしれません。

価値観は、自然に人間にでてくるものですから、メッセージでも
「生き方」だとおっしゃっていますし、だれにでもそれぞれに
あるとして、ただ、それが、事実は、どうかという意識と
併せてとらえていないと、新興宗教のようになるということだと
思えます。
[2000年4月14日 12時10分5秒]

お名前: てんとうむし   
森田正馬氏の言葉で誤り、がありました。

カギカッコの中の
「・・・一歩ゆずれば・・・」は、「・・・一歩誤れば・・・」でした。
[2000年4月14日 11時45分14秒]

お名前: てんとうむし   
>しかし、それ(人情など)を広い視野で見て、意識(心)のための法則(何が大切か)
を、理屈(教え)として取り出せます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
ここ、考えてみるのによい点だと思うのですが、森田正馬氏の
発言を紹介してみますと・・・

「哲学には、厭世観とか楽天観とかいうものがあるが、みなおのおのその哲学者
の自分の気質から割り出した人生の一方面の観察であって、一歩ゆずれば
理屈の遊技になるのである。事実唯真ということから、人生の全体を
見れば、そんな自分の都合の良いような理屈は、用にたたないのである。」

これを読んでいて、思ったのですが、価値観のとらえなおしは、具体的には、
事実とその理屈があっているかどうかを見る自分がいるということでは
ないかということなんですが、どうでしょう?

ですから、理屈が見つけられたとしたら、その理屈を使って、いろいろ
考えを展開していきますが、あくまで、事実との整合性を見続けて
使っていかなくては、いけないんではないでしょうか。

たとえば、正法というすばらしい捉え方を概念を決め打ち出したとしても
それが、現実にあわなくなったら、変えなくては、いけないということ
かもしれません。しかし、この場合、事実は、一つであり、言葉やとらえかたは、
変えなくては、いけないが、見ているものは、一つ、おなじものである
のでは、ないかと思います。

正法の歴史のところをみると、ギリシアのころにそのとらえかたを説明して
いますが、正法とは、言っていなかった訳です。
ある、事実を歴史がくだり、捉え方が多様になってきて、正法と使って
いるわけです。
[2000年4月13日 8時19分8秒]

お名前: kouji    URL
>正法の概念、理解は、価値観でみるのでは、なく、事実判断で
>とらえるべきものでは、ないかと思うのですが、この点は、どうでしょう。
>(「・・べきもの」とすると岩崎さんの定義だと価値判断かな・・・笑)

正法の概念は、自分で気づかないうちに大きな価値観を
勝手に植え付けてしまっていることがあるのではないでしょうか?
今までの他のスレッドや掲示板等のいろんな書き込みを見てもそう思えます。
やはり、1つ1つ、吟味して、どうしてそうなのかを理解する、
またほかの捉え方はどうかを考えてみることも重要と思います。
リスクを負うこともありますが・・・


>*マインドコントロールから逃れるには、価値観をいつもとらえなおすことを
>やっているといいのでは、と考えているんですけど、それが正論かは、わかりません。
>ただ、昨今の新興宗教の教理なり、考え方なり、を例に考えてみると・・・
>事実認識より、価値観が先行して基準になっていることは、確かではないでしょうか。

たとえば、といっても宗教とは別の例になりますが、
仕事のやり方・考え方などはこの方法がうまく使えます。
労働を例にとると、
*仕事は結果がすべてだ。業績を出さなければいけない。
 仲間に迷惑はかけられない。仕事がたくさんあるうちは多くこなすのが大切だ。
*仕事は食べていくための手段であり、そのために家庭を犠牲にするのは間違いだ。
 仕事が多いのならば人や日数を増やせばいい。無理をして体を壊せば意味がない。
こんなふうにいろいろ角度を変えて捉えなおしていくと、
周りの雰囲気から生まれていつのまにか普通だと思い込んでしまっている
自分の価値観に気づくことができますね。
そして固定されていた自分の価値観で自分や人を縛ってしまうということも
減ってきます。
宗教のマインドコントロールにしても、植え付けてしまった価値観を捉えなおして
いくことが大切になるでしょうね。

>それとあわせて、森田療法の森田正馬氏の発言のなかで、
     〜略〜
>愛や、八正道の規範も自分のこころを整えるものとして使い、
>行動としてでてくるものは、人情-純なる心にまかせる・・・
>こういうことかなと、思い当たりました。

結局のところ、人は理屈で生きているのではなくて、
意識(心)で生きているのであって、
八正道の規範というものは、その意識(心)のための方法なんですよね。
(「〜だから」と無理に理屈を付ける必要はないと思う。)
しかし、それ(人情など)を広い視野で見て、意識(心)のための法則(何が大切か)
を、理屈(教え)として取り出せます。
[2000年4月13日 1時15分15秒]

お名前: kouji    URL
てんとうむしさんへ

どうも私の価値観を根底から見直さないといけなくなったようです。
自分に植え付けられてきた価値観、(というより)自分に植え付けてしまった価値観
(常識や、聖典、神理・正法と呼ばれているものも含めて)
を根底から見直す必要が出てきました。
それは、常識と自分で思い込んでいるものを常識のはんちゅうからはずすことであり、
また、さまざまなものを受け入れることであり、
また、それは、明白な悪をおこなわないということでもあるのですが、
白紙の状態からなるべく見ること、肯定も否定もしないこと
です。(表現があいまいなのは、自分自身でよくわかっていないためです。(^^;)

この文を見る人にはこのことは当たり前のことと思われるかもしれませんが、
実際の私にはのんびりした流れのなかで実践していたりしたいなかったり
といったいい加減なレベルの実践であり、またこれからもそのままかもしれません。
しかし、精神的な葛藤・自己嫌悪等と、そこから来ていると思われるからだの不調
のため、見直しせざるを得ない状況です。

返事のほうは、もう少しお待ちください。
[2000年4月11日 21時12分55秒]

お名前: てんとうむし   
Koujiさん

大分、間があいてしまいました。
いろいろ考えていたのですが、どうも、うまくまとまりません。
でも、すこし、思いついたことを書いてみます。
なんでも、アドバイスいただければ幸いです。

************
>すいません「事・物の価値観」「根源の価値観」がピンときません。
----------------------------------------------------------------------
*「根源の価値観」というのは、何故生きているのかとか、人間はどうして発生したか
とか、哲学のテーマに対しての考え方(価値観)のことです。
「事・物の価値観」は、例えば、バナナは、五本で二百円とか、あの金の価値は、
一万円だとかいうものです。
これで、わかります??


>ソクラテスが、一市民として(誤った)裁判の判決を受け入れたという出来事が、
これ(普遍性)に該当すると思います(が、どうでしょう?)
でも、私は、今でも、この普遍的といえる立派な判断が
価値判断のうちの一つであると思えるのです。
-----------------------------------------------------------------------
*なるほど・・・・。



> なるほど、人間のさがですか!!・・・植え付けられた価値観に対する
価値観の形成があるのかもしれませんね。(文だけ見るとわけわからなく
なりますが・・・(^^;)
-------------------------------------------------------------------------
*マインドコントロールから逃れるには、価値観をいつもとらえなおすことを
やっているといいのでは、と考えているんですけど、それが正論かは、わかりません。
ただ、昨今の新興宗教の教理なり、考え方なり、を例に考えてみると・・・
事実認識より、価値観が先行して基準になっていることは、確かではないでしょうか。



それで、このあいだ、おすすめした、「正体見たり社会主義」の六章で
谷沢さんが、
「認識論理」と「自然科学」の戦いが19世紀にあり、認識論理は、究極は、
社会主義を生んだということをいっています。
これを読んでいて、面白いと思ったのは、私が問題にしていた、価値判断は、
まさに、認識・論理の範囲だと思い当たったことです。

それとあわせて、森田療法の森田正馬氏の発言のなかで、「純なる心」すなわち
<人情>から、出発する、のと<理屈>から出発するのとの違いを語っているとことが
ありまして、すこし、そうかもしれないと思ったのですが、宗教とか道徳というものを
理屈で考えるのでは、なく、人情からとらえる、この「人情」は、「人ならば
誰でも持っているはずの心の働き。同情、感謝、報恩、献身の気持ち、思いやり。」
これは、西洋流にいえば、「愛」ですね。
でも、その「愛」=「人情」は、理屈からくるのでは、ないんです。
人間の本来の「純なる心」から、くるもの、恐らく、古神道の「清き、明き、
直き心」もそういった、虚心坦懐の無心の姿勢で人と接するところからくる
ものにまかせるということでは、ないかと思うのですが、そういったものに
「まかせる」ために日々のこころを整えておけばよいということかなと思いました。
ラファエル様が「扉」でのメッセージでも語っているところで、私が読みとったのは、
現実とどう「折り合い」をつけて自分の生き方を見つけていくかということでしたが、
それは、愛や、八正道の規範も自分のこころを整えるものとして
使い、行動としてでてくるものは、人情-純なる心にまかせる・・・こういうことか
なと、思い当たりました。

こういった、表現は、わかりますか?どうも、うまく書けていないきがしますが・・・

以前にも申しましたが、事実唯真ということが、森田正馬氏がいっていて
よくわからなかったのですが、それが、ちょっと最近わかってきた感じなんです。
自然科学を中心にしかし、人情(愛)(理屈からくるものでは、ない)を
大事にしていくという生き方です。慈悲、愛、正義、信義・・・を価値観として
人に振りかざしては、生きないということでしょうか・・・
[2000年4月4日 1時48分21秒]

お名前: てんとうむし   
koujiさん、元気になられたようですね。
書いて頂いたのをまた、読んでみます。

ところで、谷沢永一著の「正体見たり社会主義」(PHP文庫)
をお持ちですか。この「第六章-現実即応の実証主義の時代」の
ところに価値観と事実判断のことをさらに考えてみるのに
面白い内容がでています。
「認識論理」と「自然科学をもとにする現実主義、現実即応の実証主義」という
とらえかたで論じているのですが、ここのところで扱っている
「認識論理」は、「価値判断」と同じではないかと思えるところがあります。
この本、お持ちなら、ちょっと読んでみて下さい。
文庫に入る前は、単行本で「嘘ばっかりで七十年」(講談社刊)という
名前の本です。
[2000年3月17日 2時47分42秒]

お名前: kouji   
(1)
>中川八洋さんなども、明確には、論じきれていないようですが、
>異端の思想に陥らないためには、「伝統と慣習」を基準にすべきだということを
>おっしゃっていますが、事実を見ていく自分には、必ず、価値観(共有できる
>見方)があると思いますね。

あくまでも、「異端」に陥らないための手法として、「伝統と慣習」を基準にする
ということですね。中川八洋さんの場合は。
仏陀が悟った際には、その悟りの内容が世間の常識からかけ離れている
と思われたとあるのと同じく、事実を見ていくという姿勢からでは、
「伝統と慣習」を基準にする姿勢は、あまり良いとは思えません。
ただし、個々の見方によっては、極端な見方に陥ってしまうケースもありますので、
「伝統と慣習」を基準にする姿勢はこの点で良い力を持つのではと思います。

>ところが、哲学者の岩崎さんは、この科学者の「共有できる見方」を事・物の
>価値観であって、哲学で探求する根源の価値とは違うと言うんですよ。
>私は、その考えは、すっきりしているんですが、疑問に思うところもあって、
>やはり、科学者も人間ですから、その価値観は、根源の価値観に通じていると思うんです。
>シリーズでも科学者への意見として、宇宙の構造の精緻なことや、秩序に
>対してどうみるのかを問うているところがありますが、これは、
>哲学で根源がどうのと言う前に、普通の社会で育った人間に備わっている価値観
>は、根源の価値をとらえられていることを踏まえていると思うのです。

すいません「事・物の価値観」「根源の価値観」がピンときません。

>ですから、科学者が西洋の一時代に確立したような、事物の変化だけを問題に
>すべきであり、それ以外の人間の生き方を排除するような考え方は、
>やめるべきだと思ったりしています。


(3)
>>>岩崎さんの本で面白いのは、価値判断は、いわば、「理想についての判断」
>>>であり、事実存在していない事柄の判断だと言っています。

>>>事実判断の定義、意味をもっと違う言葉で考えて、広げてとらえて、
>>>価値観も含んで、事実判断でまとめた捉え方が、良いのでは、ないかと
>>>私は、考えているんですが、まだ、よく、はっきりしません。

>>価値判断で出た理想というものは、容易に実現できればいいけれども、
>>なかには現実からかけ離れた理想であることもあります ので、
>> 価値観の見直し、段階をおった目標、手法の改善などがとられますね。
>-------------------------------------------------------
>そうですね、だから、やはり、価値判断というのは、相対的なものであるとして、
>捉えているべきで、普遍性や、絶対的なものと、みてしまうと、まずいと思いますね。

そうですね。

>普遍的なものは、価値観ではなく、カントが道徳法則についていっているところが
>あるんですが、ちょっと難しいですが・・・
>「格律(行為を規定する主観的原理)が普遍的法則となることを
>君が同時に意志できるような、そういう格律に従ってのみ行為せよ」
>つまり、
>普遍的な「法則」となると意志できるものを選んで行為をする、
>主観的原理(自分が個人として身につけている生活方針=価値観)が
>普遍的な法則と一致するかどうかということを見切れれば普遍性、絶対的なもの
>として良いと思うのですが・・・。価値観だけでは、理想的なものや、
>普遍性をいえないし、絶対的ともいえないのでは、ないでしょうか。

ソクラテスが、一市民として(誤った)裁判の判決を受け入れたという出来事が、
これ(普遍性)に該当すると思います(が、どうでしょう?)
でも、私は、今でも、この普遍的といえる立派な判断が、
価値判断のうちの一つであると思えるのです。

>まず、自分のなかにこの、相対的なものだという認識があると、自分の
>持っている価値観を点検できるし、事実が新たに判ってくるとそれに合わせて、
>価値判断の見直しができるのでは、ないでしょうか・・・

その通りだと思います。
(今の私には実践・生活の中における見直しの自信はないですが・・・)

>宗教の教理の場合は、普遍的絶対的な価値観という形で、信者に浸透していきます。
>それによって間違った大義名分に命まで懸けてしまうことができるように
>なります。これは、人間の性、欠陥でもあり、特徴のような気がしています。
>マインドコントロールの利用も、この価値観を植え付けられる人間の
>性を利用したものだと思いませんか?

なるほど、人間のさがですか!!・・・植え付けられた価値観に対する価値観の形成
があるのかもしれませんね。(文だけ見るとわけわからなくなりますが・・・(^^;)
[2000年3月16日 2時45分0秒]

お名前: kouji   
要するに、
・物事の捉え方、見方によって、人それぞれの様々な価値観が生じることがある。
・教育や環境によって、そのうちの1つのみが正しい・良いと思い込むことがある。
 固まってしまった価値観にとらわれるのは危険であり、事実を見極めて判断すべきである。
・普遍性や因果などから、ベストを選択することができうる。
という感じでしょうか。まだうまく把握できていませんが・・・
[2000年3月16日 1時58分42秒]

お名前: kouji   
一つの物事に対して、さまざまな方向から見るときに、
一つの答えが出るときもあり、
複数の答えが出ることもあり、
あいまいな答えしか出ないときもあります。

一つの物事から、さまざまな見方が出てきて(価値観)、
その中から決断をするわけですが(価値判断)、
同じ価値観を共有している多くのまたは少ない人々を思想集団と呼び、
どんな犠牲を出そうとも決断を実行しようとする人々をテロ集団と呼ぶのでしょうね。

物事を見渡したうえで、場合に応じて正しい価値観を選び出す人、
また、場合に応じて一つの価値観にとらわれない人を、
見る力のある人と呼ぶのでしょうね。

私は複数の価値観の葛藤と脅迫神経症とで心身ともにボロボロですよ。(^^;
[2000年3月13日 22時58分34秒]

お名前: kouji    URL
お久しぶりです。(^^)
急な胃辺りの変化で、ビックリしました。
日ごろの行いが悪くて、私の神が意思を表したのかも知れません。(^^;
それにしても病気をしてみて、日ごろ自分が如何にからだの状態や警告信号を無視して
やりたい放題やっていたかがわかりました。

それから、Windows98とWindows2000のインストールもやっていました。

久々にアクセスして少々ビックリしたのですが、このHPも変更するようですね。
[2000年2月27日 21時33分8秒]

お名前: てんとうむし   
koujiさん

だいじょうぶですか?
急がないので元気になって書けるときおねがいします。
ゆっくり静養してください。
[2000年2月18日 1時40分41秒]

お名前: kouji    URL
てんとうむしさんへ

すいません。体調をくずしてしまい、
返事が遅れますが、しばらくお待ちください。
[2000年2月17日 10時5分56秒]

お名前: てんとうむし   
正法の概念、理解は、価値観でみるのでは、なく、事実判断で
とらえるべきものでは、ないかと思うのですが、この点は、どうでしょう。
(「・・べきもの」とすると岩崎さんの定義だと価値判断かな・・・笑)
[2000年2月16日 1時48分44秒]

お名前: てんとうむし   
JUBILOSOさん

お気遣いありがとうございます。
「再び・・」は、その後、書き込む時間があいてしまいましたので
別に構いません。
また、書けそうになって、こうやって書かせて頂いていますから・・・
[2000年2月15日 1時22分19秒]

お名前: JUBILOSO    URL
(管理人からお詫び)

てんとうむしさん、こんばんは。
このお話は過去ログ第7集の「再び、事実判断と価値判断について」の続きですね。
私の不手際により、過去ログに載せてしまいまして誠に申し訳ございませんでした。
[2000年2月14日 2時18分44秒]

お名前: てんとうむし   
観ちゃん 
遅くなりましたが、別ファイルで書き込んでみました。
うまく、話し合えているか、わかりませんが、よろしくおねがいします。



(1)
>>事実判断の「判断」には、価値観がついてまわりますから、自然なんでしょうね、
>>そう考えるほうが・・・そうすると、
>>・・・略・・・「共有できる価値観」が
>>存在していて判断していると見てよいのでしょうか・・・

>「共有できる見方」が存在していて判断しているといえると思います。
       この見方は、教育や慣習(や、独創性)などで培われると思います。
       (・・・こう考えると、教師の影響力というものは大きいですね。)
----------------------------------------------------------
中川八洋さんなども、明確には、論じきれていないようですが、
異端の思想に陥らないためには、「伝統と慣習」を基準にすべきだということを
おっしゃっていますが、事実を見ていく自分には、必ず、価値観(共有できる
見方)があると思いますね。

ところが、哲学者の岩崎さんは、この科学者の「共有できる見方」を事・物の
価値観であって、哲学で探求する根源の価値とは違うと言うんですよ。
私は、その考えは、すっきりしているんですが、疑問に思うところもあって、
やはり、科学者も人間ですから、その価値観は、根源の価値観に通じていると思うんです。
シリーズでも科学者への意見として、宇宙の構造の精緻なことや、秩序に
対してどうみるのかを問うているところがありますが、これは、
哲学で根源がどうのと言う前に、普通の社会で育った人間に備わっている価値観
は、根源の価値をとらえられていることを踏まえていると思うのです。

ですから、科学者が西洋の一時代に確立したような、事物の変化だけを問題に
すべきであり、それ以外の人間の生き方を排除するような考え方は、
やめるべきだと思ったりしています。


(2)
>>岩崎武雄さんの「正しく考えるために」
>>(講談社現代新書)の説明が分かりやすいかもしれないので紹介すると・・・

>>事実判断=「・・・がある。」「・・・である。」という判断。
>>価値判断=「・・・であるべきである。」「・・・すべきである。」という判断。

>国語辞典には、
>・価値観  … そのものに どういう価値(意義)を認めるか
              についての、それぞれの人の考え方。
>・価値判断 … 何かの価値について、それぞれの基準からなされる判断。

>と書いてありました。
>とすると、価値観は、対象に対する感じ方・見方・反応、
>価値判断は、その価値観を基準にした判断、ということになるのでしょうか。
>逆にいえば、価値観は、価値判断の基準となった見方、ということですね。
--------------------------------------------------------
そういうことでいいんじゃないでしょうか・・・。


(3)
>>岩崎さんの本で面白いのは、価値判断は、いわば、「理想についての判断」
>>であり、事実存在していない事柄の判断だと言っています。
>>理想というのは、実現されているものでは、ないものと言います。
>>彼は、それで、理想とは、元来現実に対するものであって、事実判断から、
>>価値判断は、導けないとおっしゃいます。
> >私は、ここのところがどうも不満なのです。彼は、はっきり二極に分けていますが。
>>この、二極に分ける捉え方は、現代の科学者も意識しているのだと
>>思いますが、事実判断の定義、意味をもっと違う言葉で考えて、広げてとらえて、
>>価値観も含んで、事実判断でまとめた捉え方が、良いのでは、ないかと
>>私は、考えているんですが、まだ、よく、はっきりしません。

>価値判断で出た理想というものは、容易に実現できればいいけれども、
>なかには現実からかけ離れた理想であることもあります ので、
> 価値観の見直し、段階をおった目標、手法の改善などがとられますね。
-------------------------------------------------------
そうですね、だから、やはり、価値判断というのは、相対的なものであるとして、
捉えているべきで、普遍性や、絶対的なものと、みてしまうと、まずいと思いますね。

普遍的なものは、価値観ではなく、カントが道徳法則についていっているところが
あるんですが、ちょっと難しいですが・・・
「格律(行為を規定する主観的原理)が普遍的法則となることを
君が同時に意志できるような、そういう格律に従ってのみ行為せよ」
つまり、
普遍的な「法則」となると意志できるものを選んで行為をする、
主観的原理(自分が個人として身につけている生活方針=価値観)が
普遍的な法則と一致するかどうかということを見切れれば普遍性、絶対的なもの
として良いと思うのですが・・・。価値観だけでは、理想的なものや、
普遍性をいえないし、絶対的ともいえないのでは、ないでしょうか。

まず、自分のなかにこの、相対的なものだという認識があると、自分の
持っている価値観を点検できるし、事実が新たに判ってくるとそれに合わせて、
価値判断の見直しができるのでは、ないでしょうか・・・

宗教の教理の場合は、普遍的絶対的な価値観という形で、信者に浸透していきます。
それによって間違った大義名分に命まで懸けてしまうことができるように
なります。これは、人間の性、欠陥でもあり、特徴のような気がしています。
マインドコントロールの利用も、この価値観を植え付けられる人間の
性を利用したものだと思いませんか?
[2000年2月14日 2時4分27秒]

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