お名前:
JUBILOSO URL
てんとうむしさん、こんばんは。
法学部の学生の中にも最初は法曹界を目指して、「法は正義」という理想をもって入学して
後、法学にふれるうちに「何か違うそ。」と思ったり、また法曹界の現実を知って失望し、
他の道に転換する人は結構いますね。(もっとも、日本の法曹界は狭き門ですので、学力が
足りなくてあきらめる法学部生も多いのですが。)
さて、裁判の判決、刑の確定までに何年もかかる問題は確かにゆゆしきものがあります。
特に日本はその傾向が強いです。
麻原彰晃の裁判など、最初に極刑の判決(この判決以外は有り得ないと思います。)
が確定した段階でもうやめて刑を執行してもええんじゃないかと思いますが、判例
を残さないといけないとか、七面倒臭い、しかし法曹界においてはせざるを得ない
手続きを多々ふまねばならないとか、もうそれだけで何十年も年月食いつぶして、
麻原がじーさんになってポックリ大往生でイってしまうのではないかと心配してい
ます。
そんな往生の仕方をされてしまっては、天使が間違えて
天上界に連れていってしまうかも知れないじゃないか。
それはないない。f(^^;
(最近、あっちの掲示板のクセがうつってきたかな?)
[1999年5月19日 23時30分5秒]
お名前:
てんとうむし
>「いかに検察側の論理に対抗し、被告人に不利な裁判にならぬよう話を持っていき、
被告人のの刑を軽くするか。できれば無罪に持ち込めるか。」
*******************
いままでの色々なマスコミにのぼる事件の被告人側の弁護士の記者会見を
みるとこの姿勢で貫かれているので、いつも、そのたびに、気分が悪くなります。
検察側と反対の立場にいてもいいと思うんです。被告人がぬれぎぬをかけられて
いる場合もあることを充分想定していなければならない姿勢を考えなければ
ならない立場ですから。
しかし、反対の姿勢の立場でも、自分は、真実を求めているとか
なにか人間的な倫理的態度をいつも確認したいんです。ところが、それがないこと
がおおい。何を考えているかを、隠していても、よく観察して聞いていると、
演技で対抗していたり、反権力をむき出しにしていたりで、いつも、その態度に
がっかりするわけなんです。
真実を求めていく姿勢を会見で発表したって、検察側となあなあでは、ないん
だということが弁護士側に判っていない感じがいつもしていまいます。
>無論、中には真実を追求し、被告人や原告側の意見の真贋を見抜き、的確な
判断を下せるお方もいらっしゃいますが。
********************
こういう人たちが多いといいのですが、現状は、どうなんでしょうか。
倫理的な接触をすれば、被告人から、辞めさせられる、かえられるということも
多いのでしょうが、自白を促す姿勢なり、人間のあるべき倫理をを殆どの弁護人が
示し、説けば、犯人も裁判の前にやはり、真実を言わねばいけないのだと自覚する
ように思うのですが・・・初公判にもって行くまでの弁護士のあり方がとても
重要な気がするんですが、そこが安易に、とにかく被告側の権利を守るということで
入れ知恵、迎合しているんではないんでしょうか・・・
最近は、大きな事件は、マスコミが細かく報道するので、弁護士の姿勢も
見えたりする感じですが、審議で、戦術としての裁判の時間を伸ばしている
ものや、必要ない冒頭陳述での意義の申し立てなど、常識を逸した、無駄な
真理追究でない、嫌がらせ的な対決姿勢をみると、なんだか、
いやらしくて、情けないなと思うんですね。林の事件も、元検事の方の
話ですと、五年かかるというんですから、まったく、税金の無駄遣いも
弁護士がやっているという・・・・なんか、どこか違う、なんとかならない
のでしょうか。
ここでも、道徳の教育が日本人としてなされていない問題がでてきているの
でしょうか・・・・
[1999年5月19日 8時32分29秒]
お名前:
JUBILOSO URL
てんとうむしさん、こんばんは。
残念ながら、刑事裁判における弁護士の仕事は「真実の解明、探求による公正な解決」では
なく「いかに検察側の論理に対抗し、被告人に不利な裁判にならぬよう話を持っていき、被
告人のの刑を軽くするか。できれば無罪に持ち込めるか。」ということにウエイトが置かれ
ています。
そのためならいくらでも被告人に入れ知恵しますし、頭の中には刑を少しでも軽くするため
のシナリオと損得勘定があるのです。
こう書くと汚いように聞こえますが、よしにつけ悪しきにつけ、また程度の差こそあれ裁判
の世界ではこれが常識になってます。
「それで食ってるんだ。」と言われればそれまでの現実があるのが、見ていて辛いですね。
無論、中には真実を追求し、被告人や原告側の意見の真贋を見抜き、的確な判断を下せるお方
もいらっしゃいますが。
[1999年5月19日 0時31分23秒]
お名前:
てんとうむし
JUBILOSOさん
法曹界においても教育ですね。
林満須美の初公判が開かれましたが、色々な報道を見ていて、ちょっと気になった
事がありました。それは、弁護士のあり方です。
種々の報道の中でちょっと伝えていたのですが、
林満須美氏は、弁護士に会う前日には、警察の取り調べですっかり、気分が変わり、
全て話をするような心理状況になっていたときがあったそうです。
ところが、弁護士に会ったとたんその態度ががらっと変わったらしい。
これを聞き、ちょっと弁護士のあり方が違うんでは、ないかと思いました。
まず、その容疑者の権利を守るよりも先に、犯罪を本当に犯したのか
犯さなかったのかを問い、裁判でそれを審議するよりも前に、人間としての
道義をまず弁護士が容疑者に説いてみるべきではないかと。
その時点で容疑者が真実を語るチャンスは、結構多いのではないかと
思う。そして、自白すれば、弁護士は、できるだけその容疑者の罪を
良い形で減刑してやる弁護をするのが本筋では、ないのか。
ところが、一連の動きをみると、対立姿勢が目立つように思えます。
裁判としては、確かに検察側との対立点から勧めていくのが正統な
やり方なのかもしれませんが、林満須美氏の心変わりは、弁護士の
なにやら、宜しくない接し方が見えてくるようでやりきれなくなります。
日弁連など、昔から、左翼との関係が問われたりしていますが、
権力に対する抵抗という潜在的なものがせっかくの供述のチャンスを
失わせたのでは、ないかと思います。
[1999年5月18日 8時51分48秒]
お名前:
JUBILOSO URL
てんとうむしさん、こんばんは。
月刊「JI」誌4月号がついて早速読んでますが、法曹界においても左傾化はゆゆしき
問題だとして話題に挙げられてましたね。
法曹界のエリートをつくるのも結局は教育です。
教育がおかしくなると法曹界もおかしくなります。
教育を制するものは国家をも制しますね。
[1999年5月18日 2時12分54秒]
お名前:
てんとうむし
最近、考えていることなのですが・・・
世界の国々では、道徳を宗教が担当してきた、そして、今もそれは、変わっていない
ような気がする。
日本は、そういう宗教が道徳的役割をしてきたことがあっただろうか・・・
戦後アメリカが日本の教育から、「修身」を取り除いたが、「修身」のなかには、
海外のような宗教教育は、なかったのではないか。
世界の民族紛争をみていると、裏に宗教観の違いがあると思うのだが、
道徳と宗教の教理の分離があれば、そういういざこざは、変わるのでは、ないかと
ときどき、思う。
日本の場合は、せっかく、宗教と分離していた、「修身」が
一部の軍部エリートがまちがった神道の解釈で一緒にしてしまったため、
戦後、アメリカの勘違いの政策では、「修身」が国体をつくっていると
思いこみ徹底して抜いてしまった。日本人は、敗戦の自暴自棄で
「修身」が実は、道徳を身につけるものであったことを気づかないまま
今日まで来てしまった。そのつけが、今の子供たちにあらわれている・・・
また、大人達の節操のない行いも戦後の「修身」欠落の教育を受けた者が
増えてきているからでは、ないか・・・
[1999年5月17日 8時40分38秒]
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