同居人シリーズ

第三話A ◆同居人のハイスクール・パニック(前)

 

 「あんたたち…どうして!?」

 「おまえ、途中でぶつかったヤツがいたろ? そいつが教えてくれた

んだ。」

 「りのちゃん…やっぱりまだ怒ってる?」

 「……。」

 「戻ってこいよ。男3人で女の子一人追い出したなんて家族に言えな

いだろ?」

 「悪かったと思ってる。」

 私は、3人の顔を交互に眺めた。そして小さく息を一つついてからゆ

っくりと答えた。

 「わかったわ。許してあげる。」

 

 私、結城りの。15才。今年中学を卒業し、晴れて私立の高校へ通う

ことになりました。小学校、中学校とずっと一緒だった親友とは別々に

なってしまったけれど、きっとまた新たな花の高校生活が両手を広げて

私を待っていてくれる…はずだったのよ。

 それがどうしてか突然決まった父親の転勤で、母も幼い妹も一緒に出

張先へ行ってしまい、帰ってくるのは3年後。その間留守を任されたの

はいいけれど、私の知らないうちに親同士が勝手に下宿話を企てて、や

ってきたのは何と3人全員男! しかも一人は不良、一人はネアカなお

調子者、そして最後の一人は栗毛の英日ハーフ、いくら親の信頼してる

友人の息子だといったって…これが娘に対して許される行為なのっ!!

 現に私は同居1日目にして、彼らの度重なる衝突に耐えきれず、家を

飛び出す羽目にもなったのだ。まぁ、彼らもその後反省して、私を連れ

戻しに来てくれたけど。ケンカはしないって約束もした…。

 「あんたたちっ、何度約束破れば気が済むのよっ。」

 叫んだって届きやしない。私は家の中をくまなく繰り広げる男の取っ

組み合いを何とか止めようと必死になっていた。不良、藤島葵(ふじし

まあおい)と牧原樹(まきはらいつき)。迷惑極まる我が家の同居人だ。

 「りのちゃん、放っておいても大丈夫だよ。お腹がすけば自然に終わ

るから。」

 「それまで待っていられないわよ!今何時だと思ってるのっ!」

 もう一人の同居人、久遠寺参(くおんじまいる--本名は参 ミシェ

ル=トネット 久遠寺)は食卓でモーニングブレッドを味わいながら暢

気に傍観している始末で、もう呆れてものが言えない。

 …勝手に一人落ち着き払ってんじゃないわよ、この役立たずっ!!

 「とにかく、早く止めてってば。」

 二人のあの意味もないケンカは、実はあの最初の約束の日の翌日から

すでに始まっていた。それ以後は毎朝で、初めは参くんも私を気遣って

仲裁に入ってくれたけれど、数日たったらとうとう無駄な労力と諦めた

らしく、目の前を走っていく彼らに見向きもしない。

 しかし留守を守る私にしてみれば、成長期まっ盛りの逞しい男二人が

毎朝、準備運動のつもりか知らないけれど、そんな暗黙の了解で家の中

をどたばた騒いでくれた日には、いつ親に自宅半壊を告げねばならない

日がくるかと常に不安で心のゆとりもままならないのだ。責任感からだ

けではない、その問題児二人に挟まれた部屋で毎日毎日、目覚まし時計

の心地よいメロディーを聴く間もなく、それより先に不快な振動と幼稚

な口論に起こされるこの環境は、生物的にも心身ともに不健康かつ不適

切だ。

 まして今日のような特別な日は…。私はイライラが絶頂に達していた。

 「り…りのちゃん?……葵、樹!そろそろ食事にした方が…」

 参くんが私の精神状態を察知して、慌てて二人を止めに入る。

 …遅いわよ、今頃。

 私は取っ組み合いを続ける樹と葵ちゃんのすぐ横に立った。同時に参

くんがため息をつきながらその場を離れる。澄んだブルーの美しい同情

の瞳が見守る中、私は心を決めて胸いっぱいに息を吸いこんだ。

 そして--

 「いいかげんにしろーっっ!!」

 バキッ!!

 

 さてケンカはおさまったけれど、これで私の興奮が冷めるかと言えば

とんでもない。実際忙しいのはこれからなのだ。

 「もう!早く準備して!…みんなさっさと出てってよ! 時間がない

のよっ。」

 せわしい朝食が済むと、今度は着替え身仕度で休む暇もない。私は自

分も作業しながら、しきりに彼らを駆り立てていた。信じられない、今

日は華々しい高校入学式だっていうのに。

 「葵ちゃん、使った後ちゃんと綺麗にしておいてよね。髪の毛。」

 洗面台では葵ちゃんが肩より伸びたその長い黒髪にブラシをかけてい

る。いつもはヘアゴムで一つにまとめているので、ほどいた姿を見られ

るのはこの時だけだ。葵ちゃんは私の言葉に動きを止めて、振り返ると

私をにらみつけた。

 「うるせぇな、わかってるよ。いつもやってるんだから。」

 そう言えば、このところ「葵ちゃん」って呼んでも怒らなくなったわ

ね。私も考えたけれどやっぱりこれが一番呼びやすくて、慣れてくれた

のなら都合が良い。

 私は葵ちゃんの大雑把なブラッシングを後ろから眺めていた。私はず

っとショートヘアだから長い髪って大変だなと思うのだけれど、特に葵

ちゃんはあんな面倒そうにやるくらいならどうして切ってしまわないの

だろうと疑問を抱いてしまう。

 「葵ちゃん。」

 「…何だよ。」

 鏡を通して私が見ているのを知っているせいで、返事がいかにも鬱陶

しげだ。

 「その髪、入学早々絶対目つけられるわよ。」

 「どうしよう…染めてるって言われるかな。」

 「きゃっ!」

 突然背後から首筋に細い腕が伸びてきて、私は焦って飛びのいた。

 「何すんのよっ、変態!」

 「やっぱり、りのちゃんはかわいいな、反応が。」

 久遠寺参、この男をかつてわずか一瞬でも『3人のうちでは一番まと

もかな』などと感じてしまった我が身が許せない。葵ちゃんと樹の乱闘

に隠れて見落としていた彼の本性、それはとてつもないナンパ魔だった

ってこと。ちょっと散歩に出れば誰かに声をかけずにはいられない。し

かも可愛い子なら年下だろうが年上だろうが、果てには男女の壁さえ取

り払ってしまえる末恐ろしい神経の持ち主なのだ。さっきの行動だって

普通じゃないわ。

 ああもう思い出しただけで鳥肌が…!

 「早く、もう仕度しちゃって出てってよっ!」

 一人で取り乱している私に、参くんは冷静に首をかしげて言う。

 「どうして、一緒に行けばいいじゃない? 同じ学校なんだから。」

 「冗談じゃないわよっ。」

 そうなのだ。同じ学校なのだ。そうだからこそ下宿の話がまとまった

のだが、ただでさえ家で存分につき合わされるこいつらの顔を、まさか

学校にいてまで見ることになるなんて…。期待あふれる高校生活も一転

して悪夢だわ。

 「なんでわざわざ登下校まであんたたち引き連れて行かなきゃならな

いのよ! 私は後からできるだけ時間をあけて行くんだから、さっさと

出てってよーっっ!」

 「うる…せーなぁ。」

 私は半分ヒステリー状態だ。葵ちゃんがうんざりした顔をして、髪も

結ばぬまま洗面所から出てきた。

 「落ち着いてできやしねぇ。参、使っていいぞ。」

 「あ、じゃあ甘えて。ありがとう。」

 私の見張りはかなり効果があるらしく、二人はせかせかと場所を入れ

替わる。すれちがいざまに葵ちゃんは、わずかばかり高い参くんの顔を

ちらりと見て笑った。

 「髪はともかく、その耳のヤツがアウトじゃねーか?」

 葵ちゃんに言われて参くんはすかさず右手を耳の辺りへ上げた。指の

間から鮮やかな赤色のイアリングが光って見える。ここへ初めて来た時

にも揺らしていた同じものだ。

 「そうだね、うっかりしてた。忘れずに取るよ。」

 少し間があってから参くんはにっこり笑うと、さらりとそう返した。

だけど付けたのは今朝に違いないのだから、彼には明らかに策略めいた

意志がある。葵ちゃんもそこに気付いたまではいいけれど、横目で悪戯

っぽい笑みを浮かべるだけで、そのまま通り過ぎていってしまった。

 …あんたたち、二人して妙にしたたかよ!?

 「りのーっ!!」

 参くんは洗面所、葵ちゃんも部屋に戻って、そろそろ私も部屋で着替

えをと思った矢先に、ノックとともに樹の悲愴な叫び声が聞こえてきた。

そういえばさっきから姿も見せずおとなしかったけれど、やっぱりずっ

とそういうわけにはいかないのね。私は仕方なしにドアを開けて、樹を

迎えた。服を脱ぐ前でよかったわ。

  「りの。これ見て。」

 目の前に樹が新しい制服姿で立っていて、私は思わず息を呑んでしま

った。樹でも制服を着るとそれなりに立派な高校生に見えるんじゃない

の。男子の制服は紺の詰め襟なのだけれど、上着の前ボタンの部分まで

生地が覆うように重なっており、ボタンを留めると中心で一本のライン

ができるという割と洒落たデザインだ。シンプルかつスマートな印象が

気に入っていて、そんな心理も加わってか、せっかくお世辞抜きで樹の

勇姿を褒めてあげようと思ったのに、当の彼にはそれに対する期待も、

またそれを受け入れる余裕もなさそうだった。ただ両手で上着を掴みな

がら私に訴える瞳を向けるばかりだ。

 「どうしたのよ?」

 「ボタンが取れそうなんだよ。」

 「…は?」

 私はため息が出そうになった。こらえたけれど、樹が手にした上着の

確かに糸がほつれて取れそうになっているボタンが目に入ってしまうと、

とうとう我慢できずに落胆のため息をついた。

 …どうして。どうしてこれしきのことで私よりひとまわりも大きな男

がそんな破滅的な表情でのこのこやってくるわけ!?

 「取れそうなら付ければいいじゃないの。」

 樹はさらに困った顔をして、肩をすくめる。

 「オレ、やったことなくて。」

 …でしょうね。

 「外で失くしたら困るしさ。…りの。」

 樹の人懐こい大きな瞳がものすごい圧迫感とともに私をとらえて離さ

ない。

 「私も着替えなくちゃいけないし、忙しいのよ。」

 「何してんだ。」

 気まずいところにさらに嵐の元がやってきた。さっき部屋へ戻ったば

かりなのに葵ちゃんはもう制服に着替えてしまっている。とは言っても

まともに着ているのはズボンだけで、シャツと上着はほとんど羽織って

いるだけに近い。女の子がいることを忘れないでほしいわよ。

 「固くて鬱陶しいんだよな…。」

 まだ着心地が良くないらしく不機嫌そうに片手でシャツのボタンを留

めながら、彼は驚くほど早く樹の上着の異変を見定めた。

 「いいだろ、そのままで。全部留めてりゃ落ちやしねーって。」

 軽く言う葵ちゃんを樹が恨めしげににらむ。

 「暑かったら脱ぐかも知れないし、気になるじゃんかよ。」

 「じゃ、付け直せよ。」

 うっと樹が言葉に詰まる。この後の矛先がどう来るか、想像できすぎ

て頭が重いわ。

 しかし今にも樹の訴える視線が私の同情心へと降り注がれようという

時、それを真正面から遮断したのは葵ちゃんだった。

 「ホント頭悪ィな、おまえ。」

 誰に言ったんだか独り言のようにさらっと悪態をついて、葵ちゃんは

樹の近くまで歩み寄る。そして一見丁寧な手つきでボタンの緩みを確認

したかと思うと、ためらうことなくそれを引きちぎってしまったのだ。

 「あ。」

 まさしくあっと言う間に消え失せてしまったボタンを、樹はしばらく

探すように上着に目を落としていたが、当然ながらすぐに葵ちゃんに対

しての怒りを沸き立たせた。

 「何するんだよっ!」

 「こうすりゃ落ちる心配いらねーだろ。」

 ここにあるんだからとボタンを手のひらの上で遊ばせてみせる葵ちゃ

ん。正論だけれど、あまりにやり方が唐突だったからか樹も簡単には引

き下がらない。

 「それ、真ん中のボタンなんだぞ!」

 「だから何だよ。どこのボタンだろうが隠れて見えねーんだからいい

じゃねーか。」

 「けどっ…!」

 樹は抵抗しながらも、内心わけがわからなくなっているらしい。困っ

たように時折私を見る。そんな目で訴えられても私だって困るわよ。

 …やっぱり私がボタン付けることになるのかしら? ムキになってい

る樹の顔を葵ちゃんはまるで不可解な様子で見つめていた。少し間をあ

ってから、ため息まじりに口を開く。

 「そんなにボタン揃ってねーのが嫌なのか?」

 「だって、入学式だぜ。」

 「なんだ、そりゃ?」

 葵ちゃんが眉をひそめた気持ちもわからないでもなかったが、私はそ

れより彼が突然自分の上着を脱ぎ始めたのに気を取られていた。彼の強

引で突拍子ない行動はいつも私の常識を粉々に蹴散らすのだ。

 「じゃ、オレのと替えれば文句ねーだろ。どうせ今日初めて着るモン

だし、サイズが合えばどれも同じだ。」

 言うが早いか葵ちゃんは樹の持っていた上着を奪い、そのまま立ち去

ってしまう。代わりの上着を残された樹はもちろん、私もびっくりした

まま動けなかった。

 「えぇっ?!…おい、葵!」

 「まだ何かあるのかよ、サイズ一緒だろ。」

 「だと思うけどさ…。」

 反論の勢いも削がれ、樹はすっかり戸惑っている。一方の葵ちゃんは

なぜか上機嫌だ。

 「そんな律儀にボタン揃えて着たいと思うのがわかんねーよ。オレは

無きゃ無いで楽だけどな。」

 …あきれた。自分で引きちぎっておいて、それを校則違反の口実にす

るなんて。

 「それにな樹、こんなこと朝いきなり言ったって、こいつも準備があ

るんだ。いちいちおまえの世話なんか焼いてられるかよ。」

 え?

 私は自分の耳を疑った。

 何? 今のは、ひょっとして、私への心遣い?

 まさか、一番そんな言葉と縁のなさそうなこの男が……。

 一方、葵ちゃんに諭された樹は渡された上着を見つめて何か考えてい

たようだが、やがて顔を上げ、吹っ切れた笑顔を向けた。

 「ま、いっか。ごめんな、りの。」

 親の態度を窺いながら、自分の失敗を謝る幼児…、ただでさえ童顔の

樹にまさにそんな無垢な表情をされると、幼い妹がいる身として心が大

きく揺らいでしまう。怒りや困惑、いかなるマイナスをも一掃してしま

う、樹の明るい笑顔。素直な性格なのは結構なことなんだけど、時々ち

ょっと迷惑なのよね。しかし二人とも特に違和感がなかったらしく、上

着を交換したまま元に戻す気配がないので、私の決定的な宣言は喉のす

ぐそこでとどまっていた。

 「名前とか書いてない?」

 「…書いてねーよ。」

 「何? みんな、ずいぶん楽しそうだけど。」

 今や半ば無意味に集まっているだけの私たちを見て「楽しそう」とは

またお気楽な錯覚だこと。参くんが不審に思ったか寄ってきた。元々説

明したくなかったけれど、参くんはそんな手間さえ不要とばかりに恐る

べき直感力で目ざとく葵ちゃんの上着のほつれに気付いた。参くんは予

想通り気品たっぷりの甘い瞳を輝かせてほほ笑む。

 「葵ってば、りのちゃんにほつれを直してもらうの?」

 「え?」

 葵ちゃんが力の抜けた声と同時に私を見て、私は目の前が真っ白にな

る。

 「あのな、参。」

 「いいな、うらやましいな。ぼくの時にもしてくれる? お願い、り

のちゃん。」

 私は参くんに言い寄られて、思わず後ずさった。

 …ちょっと待ってよ。確かにさっきは樹に哀願されて情に流されたと

いうか、つい引き受けそうになったけれど、どうして私が知り合ってか

らそう日もたってない人の身の回りの世話までしなくちゃならないわ

け? ましてや事前に約束を交わす必要がどこにあるの!?

 私はそう思うと、だんだん腹がたってきた。

 「参…。」

 今度は葵ちゃんが私の怒りを感じ取ったようだ。参くんも気が付いた

らしく、ゆっくりと葵ちゃんの側へ避難する。

 「さっさと仕度してって言ってるでしょーっ。」

 夢中で叫んで再び目を開けた時には、もう3人ともいなくなっていた。

樹が部屋のドアを少しだけ開けて顔をのぞかせたが、私と目が合うと笑

ってごまかしてすぐに隠れてしまい、いつの間にやら廊下には私一人だ

け。…ふぅ。

 部屋に入りベッドの上に腰かけると、私はやっと気持ちを落ち着けて、

ハンガーに掛けてある新しい制服を見上げた。

 紺色のセーラー服にプリーツスカート。襟には黒のラインが一本、そ

して薄いクリーム色のリボン。色がおしゃれとかデザインがかわいいと

か、よく話題にされる私立校の制服にしては、お世辞でも上ランクとは

言えないほど地味な印象があるけれど、私自身は気に入っているし、何

よりそうさせているのは、緑地公園が近い学校の豊かな環境と、丘の上

に見える校舎の大らかな雰囲気だ。まぁ、実際に見えているのは同敷地

内にある大学で、これから私たちが通う高校のものではないのだけれど、

大学も含めてその学校自体の評判がいいのは確かで、第一志望だったそ

こへ3年間通える喜びは何者にもかえがたい。勉強の方は、中学よりも

さらにずっと難しくなるだろうことは今はとりあえず目をつぶれるとし

て、これからの新鮮な一日一日が何よりも…。

 私はそこで不意に、同居人という、どうあっても変わらない重大な事

実を思い出した。

 「急がなきゃ。」

 まさか家の中だけでなく、学校生活までも、あいつらにめちゃくちゃ

にされはしないだろうか? 私はそんな途方もない不安をできるだけ心

の奥底に押しのけて、なぜか慎重にセーラー服を取り上げたのだった。

 

 さっきの逆上をまだ気にかけていたのか、参くんがしつこく同行を迫

ることなく一足早く学校へ向かい、私は着替えを済ませると洗面台で髪

の手入れをしていた。ブラッシングは朝から2度目、くせのある多い髪

をヘアピンで留めてまとめる作業は出かける直前でないとできないのだ。

なかなか手間がかかる上、あの一騒動のおかげで時間ももうあまりない。

 ……だけど、入学式で早々に遅刻なんてとんでもないわ。

 「りの。」

 「きゃっ!」

 突然、葵ちゃんが後ろから顔を出したので、私は驚いて声を上げてし

まった。葵ちゃんも相当びっくりしたのか一瞬体を震わせたが、すぐに

立て直し、顔を赤らめて怒鳴り返してきた。

 「髪触ってる程度のことでそんな大げさな悲鳴上げんじゃねーよっ

っ!!」

 何しろ女の子が私一人なので、毎日、特にこういう場所では男の子の

方が気を遣わなければならないのは当たり前のことだ。それにしたって、

別にそんなむきになって怒ることないじゃないの。いくら私だって半ド

アにしたまま着替えたりなんてしないわよ。

 「何よ、葵ちゃん。まだ出かけてなかったの?」

 「今から出るって言いにきたんじゃねーかよ。」

 「あ、そう……。」

 すっかり不機嫌になり、つんと背を向けて行ってしまう。上着のすそ

が大きく後方へなびくのを見た私は、少しためらった後ついに言った。

 「葵ちゃん。ボタン、帰ったら付けてあげるわ。」

 「え、ああ……。」

 不意をつかれたようで、葵ちゃんはわずかに口ごもった。

 「そのかわり、ご近所の目もあるんだから出かける時くらい服装きち

んとしてってよ!」

 しかしそれも、次の私の言葉で一瞬にして強気な表情に戻る。

 「……わかったよっ!」

 ついでにたたきつけるような投げやりな返事。

 あれは絶対わかってない! あきれて鏡に戻ろうとしたが、ふと葵ち

ゃんは静かな口調になって私を呼び止めた。

 「何よ……。」

 「『葵ちゃん』ってのやめろ。」

 玄関のドアが乱暴に閉められるのを背中で聞きながら、私はため息を

ついた。

 ……機嫌が悪いと、そうやって思い出したように言うんだから。もう。

 「さて、と。」

 何とか髪を整えて、とにかく今日一日は崩れないでいてくれることを

祈りながら洗面所を出る。いつの間にか樹も出発していて家にはもう私

一人だった。私は急いで準備を完了すると、荷物も間違いなく持って、

新しい母校へ向かい飛び出した。

 

 今日は祝いの節目にふさわしい、すがすがしい青空だ。まだなじまな

いスカートに、少しだけペダルを踏む足の動きを邪魔されながら、自転

車を走らせていく。緑地公園の中にある、サイクリングロードがこれか

らの通学路。心地よい一本道を越えれば、学園構内へ入る門はもうすぐ

そこだ。同じ制服をぎこちなく着ている人たちがあちこちで見られるよ

うになると、私は自転車を降りて歩き始めた。急な斜面なので、ここを

一息に上っていくのはちょっとつらいかもしれない。だけど、この坂の

上に私たちの学校がある。これから卒業までの間、ずっとお付き合いし

ていく坂なのだ。

 いよいよつぼみもふくらんできた大きな桜の木とともに、私はやっと

高校の門に迎えられた。

 『千尋学園高等部』

 響きのいい校名が門にはっきりと刻まれていて、今、ここをくぐるの

かと思うと、うれしさがこみあげてくる。入学式の立て看板も、自分の

ことになるのは当然だけど3年ぶりだわ。また1年生になるのよね。

 「ここの新入生になるのはうれしいか?」

 不意に私は誰かに声をかけられた。背広をきた若い男の先生(なのか

しら?)が、健康的でたくましい笑顔を向けながら、校舎の方からこち

らへ近付いてきた。

 「みんな、オレ目当てで来るんだなぁ。おまえもか?」

 前の質問にうなずこうとしたところを絶妙なタイミングでとんでもな

いセリフが割って入ってきて、思わず私は困惑してしまった。まさかそ

れが狙いだったのか、その人は私のあわてぶりを見て意味ありげな笑い

を浮かべている。……何なのよ、この人は。でも、あなた先生ですか、

って尋ねるのも変だし。

「ま、新しいってのは誰だって悪くは思わんさ。なぁ?」

 ちょっと慎重に構えていると、この人は再度同じようなことを聞いて

きた。またさっきの手にひっかからないようにうかがいながら小声で

「はい」と答える。すると、今までの私の瞳に映っていた意地悪そうな

イメージはふっと全身を包みこむ優しさに変わった。ほほ笑みながら私

の横まで来ると、あの長い坂道を見下ろす恰好で校門にもたれかかった。

 「早く受付け済ましてくれよ。初日から遅刻者出されたらこっちもか

なわんからな。」

 私の方をふり返って、わざとらしく顔をしかめる。……やっぱりこの

人、ここの先生なんだわ。しかし、そう思うと私はますます笑いがこみ

上げてきて、気付かれないように足早に校舎へ急いだ。

 「おーいっ! 高等部1年、こっちだぞぉ! 無断で飛び級すんなよ

ぉっっ!」

 冗談ぽい調子で、叫ぶ先生の声が後ろから響いてくる。なんておもし

ろい先生なんだろう。緊張が不思議に和らげられて、同時にここに対す

る親愛の情さえわいてくる感じだ。

 ユニークな門番(!?)の声にせきたてられて、次々と駆けてくる同級

生たちと足をそろえながら、私は期待あふれる思いで受付を目指した。

 

 無事に受付を済ませ、私は人だかりのある掲示板までやってきた。こ

こでいよいよ、自分の新しいクラスを確認するのだ。みんなまだ知り合

いも少ないので、確認してしまうとすぐに式会場である体育館へまっす

ぐ向かっていく。その中で、仲間のいる人たちが周囲にあちこち固まっ

て話していて、見渡すと、葵ちゃんたちも何とちゃっかり3人そろって

立っていた。

 何よ、別行動かと思ったら、結局集まってるんじゃないの。特に親し

いわけでもないのに。

 ふと樹が私に気付いたらしくこっちを見た。私は思いきり他人のふり

を装っていたが、一体何のつもりか、3人は前から相談でもしていたか

のように私の方へ向かってやってきたので、どうしようもなく私はいつ

ものように3人を怒鳴りつけるはめになった。

 「……どうして来るのよっ!?」

 「おまえ、まだ掲示見てねーの?」

 私が怒ることを承知して、それでも敢えてやってきたらしい彼らはさ

えない顔を三つ並べて、じれったく意味深な感情を無理矢理に押し殺し

ている。樹がまるで彼らの代表者のように、おずおずと口を開いた。た

だその答えも私の態度からもううすうす感じ取っているようで、困惑の

表情は変わらない。

 「これから行くのよ、どいて。」

 「おい、りの!」

 歩き出そうとしても、またしても3人の大きなバリケードに阻まれる。

うんざりしてにらみつける私の頭上で、彼らは深刻顔で相談を始めた。

 「いっそ、見せちまった方が話は早いけどな。」

 「その分、こっちにとばっちり来るって、絶対。」

 ……何なのよ、一体。

 「やっぱり、一度クッションを置いた方がいいんじゃないかな。だっ

て、ほら『百聞は一見に如かず』って言うでしょ? 聞くショックは見

て知る方の100分の1のはずだよね。」

 「なるほど!」

 「……おまえ、ことわざよく知ってんな。」

 一応の結論が出たところで3人がほぼ同時に私を見る。実はその頃に

はすでに私の心は暗雲に覆われ始めていたのだ。ただ、完全に暗闇にな

らなかったのは、まだその不安を否定していられる希望を何とか残して

いただけのこと……。やがてすぐ彼らが、一体誰が説明するのかともめ

だした時点で、希望も何もかも消え失せた。私は落胆の思いを引きずり

ながら、彼らの口論に割って入った。

 「……よほど、確認が簡単だったんでしょうね。」

 3人は一瞬で静かになって、ゆっくりと私の方に顔を向けた。おそら

く気持ちは私から5歩くらい後ずさっていそうな、そんな印象がうかが

える。仕方なく私はてっとり早い手段を選び、彼らに尋ねた。

 「で、何組だったの?」--

 

 --これは夢よ。

 私立千尋学園高等部入学式の今日。1年5組の生徒という新たな環境

に置いた中、私の心は複雑で、冴えない表情を隠せなかった。ざわめい

た体育館。私は自分の座席に腰かけて、一人小声でつぶやいていた。

 「絶対に悪い夢を見てるんだわ……。」

 そうよ。だからいつか目を覚ませば、部屋のベッドの上にいて、お父

さんにお母さん、そして妹の真子が食卓を囲んで私を待っているのよ。

みんなに励まされながら新しい学園の門をくぐると、そこには優しい先

生にかけがえのない友人、未来の素敵な恋人だっているはずだわ。自由

で充実した高校生活……それが私の目指した現実なんだから!

 「りの、どうした、眠いのか?」

 ……うつむいている私の頭上で、不快な雑音が響いた。それが、私の

望む世界へ導いてくれる目覚まし時計の音だったならば、きっと喜んで

応えたことでしょうけれど、非情な事実、そうではない。せめてもう少

し希望の楽園をと思い、敢えて無視したこの訴えも、やはり声の主には

届かず、再度襲ってきた騒音に私はついに目を覚まさざるを得なくなっ

た。そこは目指す道を踏み外した現実。

 「うるさいわね……。」

 私は思いっきり正直な感想を述べる。葵ちゃんは一瞬絶句して、すぐ

に口調にいらだちを含ませた。

 「……そんな返事があるかよ、失礼だぞ。」

 「あんたに礼儀語れる?」

 彼の顔も見ず、前を向いたまま全身に刺のバリアーを張りめぐらして

いる私。自分でもちょっと驚いてしまっているくらいの迫力で、葵ちゃ

んも冷酷にはじき出され言葉を失っていたようだった。

 「居心地悪ィなぁ。」

 「何? やっぱ機嫌最悪?」

 葵ちゃんに続いて、樹の声。状況お構いなしの脳天気なトーンがます

ます私の気分を荒だてる。二人の会話は止まず、私の視界の隅で彼らの

影が動く。

 「式の間中これじゃやってられねーよ。」

 「だってオレたちのせいじゃないんだからさ。いい加減あきらめてほ

しいよな。」

 「ばかっ! 火に油注ぐんじゃねーって!」

 私の身が震えたのを葵ちゃんは敏感に感じ取ったらしい。ただ、制止

されたにもかかわらず、樹の方は筋金入りの鈍感男だ。

 「これからの連絡とか考えたら、オレはこの方が都合いいと思うけど。

だろ、葵?」

 「……あ、まぁ。」

 絶えず感じる二人の視線に私はとうとう爆発寸前に陥っていた。

 ……何なのよ、さっきからおとなしく聞いてれば。

 あんたたちのせいじゃないって……?

 あきらめろ……?

 この方が都合がいい、ですって!?

 ……冗談じゃないわよっ!!

 私は我慢も限界を超え、怒りに任せて真横の二人をにらみつけた。

 「なんで、あんたたちがここにいるのよっっ。」

 「なんで……って言われても。」

 あきれ顔の葵ちゃんが椅子の背に大きくもたれかかり、その一つ向こ

うから不思議そうに目をぱちくりさせた樹が顔をのぞかせる。

 「クラス一緒なんだ。こればっかりはマジで仕方ねーだろうが。」

 「そうだよ、なぁ。見事に4人同じって、すげー偶然!」

 「『一緒』とか『同じ』とか口にしないでちょうだい!!」

 私の不条理な言い分に樹と葵ちゃんは顔を見合わせる。とにかく今は

考えたくないの、認めたくないのよ。だいたい偶然なわけないじゃない

のよ。この同居のことだって親から学校に連絡は入ってるんだから。つ

まり見張りやすくさせられたの、だから一直線の結論であんたたちのせ

いなのよっっ!!

 「けど、クラスはともかくまさか席まで並ぶとは、オレも思わなかっ

たな。」

 葵ちゃんのため息に樹が同調してうなずく。……そうなの。クラスが

一緒なのは涙を飲んで許すとしても、どうして男女3人ずつの6列席に、

私たち4人中3人がきれいに一列並んじゃうわけ?

 「『藤島』『牧原』、オレと葵は名字近いから無理ないけど。」

 「女が少なかったこと恨むしかねーよな。」

 私は今までの興奮も消滅して、はるか地深く落胆した。3人そろって

無言になり、わずかな間精神的空白が生じたが、すぐに樹が私たちの前

に身を乗り出して楽しそうに話を切り出した。

 「これでもし、参が『久遠寺』じゃなくて、本名で『参・ミシェール

……』って並んでたら、オレたちの間に入って面白かったのになっ。」

 自分と葵ちゃんとの架空の隙間を指差して、上機嫌に笑顔をふりまく

樹。

 ……それが今、私の前で笑い話になると思ったら大きな間違いよ、こ

の無神経っっ!!

 硬直している私を隣で察知した葵ちゃんが、深いため息をもらして小

声で「バカ……」とつぶやいた。

 「参のヤツ、今頃前の列で悠長にナンパでもしてんだろうな。」

 そっちこそ悠長に前の方をのぞき見してみたりして、元気なのは樹だ

け。立場を同じくしてるとは思いたくないけれど、私の横で葵ちゃんも

すっかり気を落としていた。うんざりした様子が露骨に伝わってくる。

 「やっぱり! あいつ近くの席の女の子に声かけてるよ!」

 意味もなく目を輝かせながら樹のアップテンポの声が響いて、私の耳

に容赦なく飛びこんできた。彼は明らかに私の反応を待っているけれど

……。

 ……確かめたくもないわよ、そんなこと。

 

 体育館内は、しだいに人が増えて騒がしくなってきていた。舞台の上

ではマイクの準備などが着々と進んでいる。式の始まる時間までもうす

ぐだ。

 さて、この春から我が家で下宿することになった3人の問題ある同級

生。--前列で女の子たちと楽しく語り合っているらしい英日ハーフの

留学生、久遠寺参はともかくとして、この私の真隣に座る長髪の不良、

藤島葵とその横、牧原樹。私は彼らを横目で見て、今日でもう何度目か

のため息をついた。葵ちゃんは式が始まる前からすでに面倒そうで今も

足を組み寝入っている。それに対して樹は落ち着きがなく、隣の人、前、

後列、ついには別のクラスの人たちまで手当たり次第に巻きこんで積極

的な交流を図っている真っ最中だ。

 これでは気になって、新鮮さも味わえない。

 (……気楽でいいわね、あんたたちは。)

 これから1年間、彼ら二人とは集会のたびに列をそろえることになる

のだろう。教室でもしばらくはそうなるに違いない。まったく、こんな

ことになるなんて考えもしなかった。クラスが一緒になることだけでも

口惜しいことなのに……。

 私は後方の保護者側を見回した。もちろん出張中の両親は来られない。

妹の真子の転校の手続きや何やらで忙しいのだろう。私はそれよりも、

何となく葵ちゃんたちの親が来ていないだろうかと探していたのだ。参

くんの家は外国だから到底無理だし、葵ちゃんのところも彼がやはり念

入りに拒んでいるようだからわからないけれど、樹のところなら一人息

子の晴れの舞台だ。ひょっとしたら来ているんじゃないだろうか。

 探してどうということもなかった。しかし頭の中で私は彼らの御両親

に助けを求めるシーンを展開していた。これから3年間も同じ屋根の下

で生活していくことになる下宿人たちが、私にとってどれほど悩める存

在になるのかを訴えたかったのかも知れない。

 やはりそれらしい姿は見当たらず、私はあきらめると前を向き直った。

その時、前の列の女の子たちが、私の方を振り向き声をかけてきてくれ

た。

 「そこの席、一人になっちゃうんだ? 何かいやだねー。」

 彼女たちの笑顔を見て、今までずっと陰っていた気持ちがふと和んだ

ような気がした。

 そうだ、忘れてた。私はこういう場ではいつもなら積極的に話しかけ

ていくタイプなのに、今日は隣の二人に気を奪われすぎて、自分らしい

行動をとることを忘れていた。

 (私が離れればよかったんだわ!)

 そう考えて少し気が楽になった私は、すぐに背もたれから身を乗り出

し、初めて出会う級友たちと話をした。家や出身中学などの自己紹介か

ら始まって、ここへ来た印象なんかの話題で盛り上がる。

 「あの坂、上ってくるの疲れない?」

 「そうそう。遅刻したときなんてキツそうだよね!」

 そして、丘の上にあるこの校舎までの長い坂は共感し合える第一歩だ

った。千尋学園の、おそらく名物の一つでもあろう桜並木の美しいあの

坂は、忙しい朝の登校時には確かに大きなバリケードだけれども、毎年

こうやって新入生たちの友情の芽生えに一役買っているに違いない。私

たちはお互いに話をして友好を深めていくことで、ゆっくりと緊張をほ

ぐしていった。私はそれに加えて束縛感からも解放されつつあり、隣は

隣で和やかにやっている男同士の会話が耳に入ってきても前ほどに意識

することがなくなっていた。

 「あ、こいつ、オレのダチなの! 葵っっ、起きろって!!」

 私を気遣って上体だけ後ろにひねった体勢のまま話してくれている彼

女たちに相づちを打つひとときは、私にとってしばらくぶりの心の休息

だった。まさに彼女たちのおかげで、無事に樹たちとの間に境界線を引

くことができたのだから、感謝しなくてはならない。

 「ううん、中学とかは全然違うんだけどさ。ちょっと意気投合しちゃ

ったんだ!」

 まだお互いに共通の価値観を探り合っている状態の周囲の中で、奇特

なほど人なつこい樹は注目の的になっていた。高い好感度で得をして、

やがて目の前の彼女たちも樹を見てくすくすと笑いだす。葵ちゃんが巻

きこまれる形になって迷惑そうにしているが、樹本人がその大勢に視線

に気がついていないのだから仕方ない。とうとう私も前列の彼女に「お

もしろいヤツだね」なんてふられてしまい、ただひたすら愛想笑いで他

人を通していた。

 「こいつね、藤島葵っていうんだ! 性格はひねてるけど悪いヤツじ

ゃないぜ。」

 彼女たちの関心もすっかりこのお調子者に向いている。……樹ったら、

わざわざ人の紹介まで買って出ることないでしょうに。

 しかし次の瞬間、今までの明るい雰囲気が激しく椅子の倒れる音で壊

れた。

 「……お、おいっ!」

 「おまえ、何がおかしいんだ!」

 横からの衝撃と、一転した空気にあわてて顔を上げて見ると、何と表

情を強ばらせた葵ちゃんが、立ち上がって後ろの席の男子生徒につかみ

かかるところだったのだ。

 「オレの名前がそんなにおかしいかよ。」

 「おい、よせってば、葵。」

 どうやら葵ちゃんのコンプレックスに触れてしまったらしい。出会っ

た当初に、その彼の逆上を十分経験している樹が懸命に止めに入ろうと

する。

 「ちょっと、あ……!」

 『葵ちゃん』と呼びかけて、私はギリギリ思いとどまった。まったく

の他人を演じるためもあるが、今はそれでなくても抑えた方がいいだろ

う。

 「やめなさいってば! 今日は入学式なのよっ!」

 私たちの声も届かない。葵ちゃんににらまれた男子生徒は座席に座っ

たまま絶句している。葵ちゃんが本気で怒った時の目は鋭くて冷酷だか

ら、標的にされた方はたまらないだろう。会場右隅で起こった騒動は、

全体とまではいかなくても、気付いた周囲に余計な緊張を与えてしまっ

た。中には「ぶん殴れー!」「やり返せーっ!」というような物騒なこ

とを言う人もいたけれど、みんなが一方的な威嚇ともとれるケンカの動

向を見守っていた。

 ……葵ちゃん、今はつかまえたまま動かないけど、まさか本当に殴っ

たりしないわよね。

 しかし少したって、怒りに震えていた葵ちゃんの様子が変わってきた。

先ほどまでの敵意のある攻撃的な瞳の色が消えて、わずかに穏やかさが

戻ってきたのだ。ア然としている相手の顔をじっと見ながら、ふと切な

げに表情を曇らせると、葵ちゃんはとうとう相手の襟首をつかむ手を力

なく離した。

 「……悪い。」

 「おい、どうしたっ!? 何があった!」

 葵ちゃんが静かにそうつぶやいて背を向きかけた時、ようやく男の人

の声がして、野次馬の中を割って入ってきた。それはあの、門に立って

いたおもしろい先生だった。私たちとしてはもう解決したことにしたい

けれど、やはり騒動になってしまった以上、先生たちの介入は免れない

だろうか。

 葵ちゃん、入学早々指導受けることになっちゃうの!? しかし、私が

そう思うと同時に樹が先生の前に出ていった。

 「あの、ちょっとだけケンカになりかけたんだけど、もうおさまった

ん……です。」

 「おいおい、どいつが原因だ。」

 先生は案の定厳しい顔になって辺りを見回した。集まっていた学生が

徐々に散っていく。

 「もう、式も始まる。名乗り出ないんなら関係者は全員外へ出る

か?」

 「……オレだよ。」

 葵ちゃんが先生と目をまっすぐに合わせて低い口調で言った。切なげ

だった表情がもう堂々としており、教師を相手にしてもまるで物怖じし

ていない様子だ。その態度は先生が歩み寄ってきた時にもほとんど変わ

らなかったが、横に並んで、束ねた長い黒髪を引っ張られると、さすが

に顔をしかめた。

 「暑苦しそうだなぁ。切っちまえよ。」

 先生の言葉に、葵ちゃんが激しくにらみつけて抵抗する。

 私は先生を見ながら正直信じられない思いだった。門前にいた時はと

ても優しくてユニークだったのに、こんな怖い面もあったなんて……。

 「相手は誰だ。おまえか?」

 周囲の視線に教えられて、先生は葵ちゃんと相手の男子生徒の間に立

つと二人を見て言った。

 「原因を教えてもらおうじゃないか。」

 二人とも黙っていた。気まずいのか、どちらからも口を開こうとしな

い。葵ちゃんの方が相手の生徒をけん制しているようにも思える。その

まま沈黙が少し続いて、とうとう樹が一歩前に出た。

 「実は……。」

 「原因なんてねーよ!」

 全員が息を飲んだ。……私も含めて。先生がいぶかしそうに首をかし

げる。「余計な口をはさむな」と言わんばかりに樹をにらみつけていた

葵ちゃんが、やがて視線を戻したその先には再び厳しい先生の顔があっ

た。

 「じゃあ、何か? おまえは原因もなしに人を殴ったりするのか? 

いや、殴ってないにしても、おまえは今これだけの人間に嫌な思いをさ

せているんだからな。わかってるよな?」

 前列にいた参くんもいつからか気がついて近くへ来ていた。事情は知

らないのだろう。樹の横で心配そうにじっと葵ちゃんを見つめている。

一方、騒動の一部始終を知る人たちの目は、私が感じる限りそれぞれ違

っていた。同情や反感、中には嘲笑するような瞳……。そんな冷たい空

気にさらされた葵ちゃんの表情には今やわずかに自尊心と後悔の間で揺

れる苦悶みたいなものが見て取れる。葵ちゃんを怒らせた当の男子生徒

は、椅子に座りこんでうつむいたまま顔を上げようともしない。先生は

とうとう息をつくと葵ちゃんの肩を叩いた。

 「仕方ない。外へ出てゆっくりと話するか?」

 ……そんな、大切な入学式なのに! 葵ちゃんは無言のまま先生の顔

を見る。反抗するでもない、むしろ逆に自分からすすんで退出してしま

いそうな静かな眼だった。

 「葵……!」

 どうしてこんなことになっちゃうのよ。確かに私、葵ちゃんたちと座

席まで隣り合った現実をさっきまで否定していたけど、こんな形で夢が

叶っても困るわ。後味悪いじゃないの!!

 私、そして樹、参くん……、少なくとも3人はこの不条理な現状を何

とか打破したいと感じていた。たとえ、後々葵ちゃんに恨まれたとして

も、ここですべて先生に真実を話してしまおうか、目があった樹と暗黙

にそんなやりとりを交わしたくらいだったのだ。

 

 「オレの名前がそんなにおかしいかよ!」???

 

 記念すべき高校入学式の当日、ふとしたことで我が家の同居人の一

人??藤島葵は、とんでもない騒動を起こしてしまった。先生が間に入っ

ても事情を話そうとしない葵ちゃんは、今まさに式にすら出席できなく

なりそうな状態にある。また、それを半ば受け入れるつもりの本人を前

に、私、結城りのと、同じく同居人の牧原樹、久遠寺参の3人はどうす

ることもできず、ただ気をもむばかりだったのだ。

 やっぱりここは葵ちゃんに恨まれるのを覚悟で、訳をすべて先生に話

すしかない。

 まだ恐怖が胸をよぎる中、私と樹の二人はいよいよそう決意した。そ

して……!

 「……はっきり教えてやればいいじゃないか。」

 それは樹が大きく一歩踏み出した瞬間だったので、私はこの勘違いを

正すのにしばらく時間を要した。樹の声ではなかったのだ。びくっと身

を震わせた葵ちゃんが、動揺の面持ちで声の主を探す。

 「許せないことなんだろう。今ここではっきりさせとけよ。」

 落ち着いた低音の声……。深く椅子に腰かけたまま、頭をわずかにこ

ちらへ向けて話す彼は、私たちのすぐ一つ前の列の人だった。樹があん

なに周囲を巻きこんではしゃいでいたにもかかわらず、眠っていたのか

ずっとうつむいて一度を振り返ることもなかった人。背後で起きたこの

騒ぎに対しても、今まで我関せずというように姿勢を崩さなかった彼が、

ここにきて突然、しかも私たちに助け船を出す形で間に入ってくるなん

て……。

 彼は確かに私たちに……葵ちゃんに話しかけている。

 「ここで引いたら、それこそ笑い者だぞ。」

 葵ちゃんの表情が強ばるのがはっきりとわかった。私たちがア然とす

る中、彼はやっと椅子の背もたれを支えに立ち上がると、こちらに体を

向けた。そして私たちは第二波の衝撃を受けることとなったのだ!

 「あ、あーっっ! おまえ、あの時のっっ!?」

 この瞬間から、私は頭の中が真っ白になってしまっていた。派手に相

手を指差して叫んだ樹の大声さえ遠くに聞こえるほどに。

 「何だ、知り合いか?」

 先生も、意外な仲裁から話が訳のわからない展開に転がっていき、や

やあっけにとられている様子だ。

 まさか、知り合いと言う程ではない。しかし彼こそ、あの日、私たち

4人の同居生活最初の日、私が彼らのケンカに耐えきれず外に飛び出し、

夢中で走った緑地公園の一本道でぶつかった人……。そして、後を追っ

てきた3人に私の居所を教えた人なのだ。

 彼は樹のすっとんきょうな声にわずかに息をもらしたが、すぐに気を

取り直し、目と首の小さな動きでゆっくりと私たちを見回し始めた。私

の中の血液が、焦りと恥ずかしさを抑えきれず、急ピッチで上昇してい

く。

 やがて、その視線が私をとらえた時、彼は動きを止め、先ほどのよう

に小さく息をついた。真っ黒な長い前髪の間からのぞく、無表情で何を

考えているのか予測できない細く鋭い瞳……。言葉もなく、ただ見つめ

ている様子は、まったくあの時と同じだった。

 あの時……。

 私が、自分でも見たくない泣いている姿を見られた……あの時??!

 思い返した途端、私の体は大パニックを起こして「顔から火が出る」

思いと「血の気が引く」感覚を、まるで高速の光の点滅のごとく味わっ

ていた。

 (やっぱり、私のコト覚えてる。)

 反応は本当に小さいもので、すでに彼は私から視線を外し葵ちゃんの

方を向いていたけれど、私にはどうしてもこの確信の思いをぬぐえなか

った。樹たちの心もやがて私一人を取り残して、今の現実へ帰っていく。

 「黙ってても、ここにいるヤツらにはもうバレてるんだぞ。」

 「…………。」       ここ

 「どうせ少なくとも3年間は千尋学園に居なきゃならないんだ。はな

っからこんなことで自分を印象づけてもつまらんだろ、なぁ、先生。」

 「ん? まあ、よくわからんが。」

 「ま、今頃言っても手遅れだけどな。なかったことにはならない

ぜ。」

 恥ずかしい過去のせいで、何となく彼から目を離せずにいた私だった

が、いつの間にかそんな多々の事情を抜きに、今の彼を呆然と見つめて

いた。そして、それは私だけでないことにも気付いたのだ。

 「事を荒立てたのは、おまえ自身だろう。」

 「……黙ってりゃ何なんだよ、てめーは!」

 おそらくここにいる全員があわてふためいただろう。彼の重ね重ねの

毒舌は、とうとう葵ちゃんに失望を超えた怒りの火をつけてしまった。

感情の矛先が見事に180度反転、身を翻すようにして猛然と彼の鋭い

瞳のすぐ前まで歩み寄っていく。

 「こら、式の前だぞ!」

 「お……おいっ、やめろってば!!」

 再び騒ぎが大きくなり、樹が懸命に葵ちゃんの後ろへ回りこむ。横で

見ていても葵ちゃんの迫力は十分なのに、その標的になっている彼の方

はまったく平静として堂々たるものだ。

 「確かにあん時は世話になったと思ってるよ。けどな、今日は許せね

ぇ! どうしてオレのことでおまえにそこまで口出しされなきゃなら

ねーんだっっ。」

 「オレはおまえを世話した覚えはないがな……。」

 「……っ! じゃ、なおさらだ!!」

 「あ……葵っっ!」

 「その名前で呼ぶなっ!」

 その一瞬、私も思わずびくっと身が震えてしまった。とんだとばっち

りで振り返りざまに怒鳴られた樹は、訳がわからず目をぱちくりさせて

いる。そして自分を呼んだのが樹だったと今はじめて知った様子の葵ち

ゃんは、いよいよ追い詰められて露骨に狼狽の色を見せた。過敏になっ

ていることを改めて意識してしまい、もはや高ぶった感情のやり場がな

い。周囲はもちろん、樹も参くんもこの状況をどう取りまとめるか判断

しかねているようだった。

 私も、無関係で……いたいわけだし。

 少しの沈黙があった。そして??。

 動揺する葵ちゃんの姿を至近距離でじっと冷ややかに見つめていた彼

が、ふと肩の力を抜いて息をつくと笑った。

 「……これがすべての発端ってわけで、先生。」

 笑った、と言っても半分あきれを含んだ皮肉げなものだったけれど。

 とにかく彼はあっけに取られる葵ちゃんの肩に、また何て物怖じしな

い人なのか、手をかけながら、先生に向かいこう言いのけたのだ。

 「こいつなりの自己紹介だったんだ。見逃してもらえないか。」

 驚いた。葵ちゃんの神経をさんざん逆なでした挙げ句、結局これが彼

の狙いだったなんて。

 「見逃せと言われてもなぁ。」

 「確かに人騒がせではあったが……。」

 先生も不意の平和交渉に困惑顔だ。もし本当に見逃してもらえるのな

ら、こんなありがたい話はないけれど、さすがに今の先生には少なから

ず同情の気持ちさえ抱いてしまう。一方、彼の方は至って穏やかに、し

かしどこかで一歩も引かない気丈さをもって先生を見据える。

 「自分の名前を笑われて怒るのは不自然な事じゃないし、笑った方も

物珍しさがつい先立ったってこともあるだろう。どちらにしても、そん

なケンカに教師が介入するのは小学生までだと思うんだがな。」

 『小学生』がかすかに強調され、葵ちゃんの声がぐっと詰まる。彼は

さらに続けた。

 「今日のことで、初対面のこいつらがこれから先こじれていくのか、

逆に理解を深めて親しくなっていくのか……今の時点ではわからないわ

けだ。先生の深い懐次第で。」

 そして彼は最後の決定的な台詞で茶化すように笑みを浮かべた。こん

な偉そうで毒舌な口調なのに、先生はずっと真剣に彼の話に耳を傾けて

いた。「先生に向かって何て口を利くのか」と怒り出す先生もきっと少

なくないと思う。でも、この若い男の先生は、彼の意見を素直に参考に

して考えている。ずっとうつむいていた男子生徒も、顔を上げ葵ちゃん

とお互い苦い表情で目を合わせた。仲がこじれるか、はたまた友情が深

まるのか……?

 「藤島葵……。」

 やがて先生がふと葵ちゃんの名前を口にした。葵ちゃんがけげんそう

に渋々返事をすると、先生はようやく納得がいったというすがすがしい

顔になり、高らかに笑った。

 「そうか、おまえが藤島葵か!!なるほど。名簿で見たが、確かに男

には珍しいかもな!」

 ほぼ同時に葵ちゃんの顔は紅潮し、私たちの顔は青くなる。当然のこ

とだ。今まで葵ちゃんはそれを言われるのが苦で怒っていたのだから。

しかし、先生の言葉はそれからが他と違っていた。相手の男子生徒を見

て、いや、むしろ授業さながらに周囲の全員を意識して話し始める。

 「だがな、おまえら、知ってるか? 葵って植物は、あの徳川の家紋

にもなってるんだ。きっと藤島の御両親もその将軍家徳川の名誉にあや

かってつけたに違いないぞ。頼もしいじゃないか!!」

 「…………。」

 葵ちゃんは眉をひそめたけげんな表情のまま、しばらく固まっていた。

すっかり調子づいた先生を、怒りさえ忘れた様子で呆然と見送る。

 「……だから、歴史を知るってことはやっぱり意義があるってことな

んだ! おまえら、ちゃんと時代を勉強しろよ! わかったか、藤

島!」

 「え?」

 いつのまにか先生の話は大きく核心をそれていた。そして結局、先生

は歴史学の意義を結論づけて講義を締めくくった後、満足げに立ち去っ

てしまったのだった。しかも最後の最後で、今まで置いてきぼりにして

いたくせに、葵ちゃんの肩を豪快に叩いていき、おかげで葵ちゃんはじ

め全員困惑状態だ。先ほどまで外へ出るの出ないので荒れていたはずの

場が、他でもない先生によってうやむやになったのだから……、ま、平

和解決と言えば言えるのかしら?

 「何だったんだろうな?」

 その場にいたみんなは、迷った末、やがてそれぞれ自分の席へと散っ

ていった。実はケンカ騒動などなかったとでもいうように平穏な空気が

流れている。それは当人の葵ちゃんがすっかり脱力しているせいでもあ

っただろう。

 「……葵?」

 隣に座る、精彩を欠いた葵ちゃんを、樹と参くんがうかがうように見

つめていた。前列の冷静な彼もわずかにこちらへ身を傾ける。

 「だ、大丈夫か?」

 「大丈夫なわけねーだろ…!」

 突然語気を強めた危険物に、樹も私も周囲(前列の彼以外)は思わず

びくっと身を震わせた。

やっぱり問題は滞ったままだ……と誰もが感じた時。

 「あれだけ恥さらして……もう開き直る以外どうしようもねーじゃ

ねーか。」

 葵ちゃんの言葉は次第に勢いを失って、後の声はほとんどつぶやきの

ようだった。しかし、ほんのわずかだけど葵ちゃんの口元に苦笑いがも

れるのを私は見逃さなかった。説得の中身はともかくとしても、先生の

自信たっぷりの明るさに根負けしたと言った方が近いかも知れない。

 樹はやっと安心したように葵ちゃんの隣の席に腰かけた。そばにいた

参くんも葵ちゃんが落ち着いたことがわかると、笑って席へ戻っていく。

 「ったく、ホントにびっくりするからさぁ。いきなりキレんのやめて

くれよな。」

 「……悪かったよ。」

 気まずそうに肩をすくめる葵ちゃん。

 確かに彼の件では毎回ひやっとさせられっぱなしだわ。

 「あっ、そうだ! おい!」

 突然、樹が前へ身を乗り出した。まっすぐ向いた視線の先には前列の

あの彼の背中があった。すでに姿勢を正し、マイペースを貫いている。

樹に肩を叩かれて、ようやく彼はこちらを向いた。無表情の細い瞳が、

私の視界にも映って思わず過去の赤面シーンがよみがえる。

 「さっきはありがとな。間に入ってくれて。」

 「いや。結果的に恥の上塗りになったようだしな。」

 彼は少し間を置いてから、低音の静かな声で言った。樹ではなく、葵

ちゃんの方を見ている。一瞬葵ちゃんの目に鋭い光が走ったような気が

して、私は再び不安に襲われたが、幸い彼は冷静だった。

 「あれは、おまえのせいじゃねーよ。」

 「そう言ってもらえると、オレも気が楽になる。」

 口調は淡々としているけれど、妙にトゲっぽく聞こえないのが不思議

だわ。葵ちゃんが静かに笑うと、彼の方もそれに応えた。やはりほとん

ど表情を変えないけれど、今度は皮肉のない穏やかな笑みだ。彼は少し

の間葵ちゃんと樹を交互に見ながら、不意に隣にいた私の方にも目を遣

った。とてもさりげなくて、でもすべてを見透かすような鋭い視線。

 つい緊張が走る私たち3人をよそに、やがて彼は無言で背を向けかけ

ると、思い出したようにこちらを見て、突然こう告げたのだった。

 「言ってなかったな。……津壁博展だ。」

 前方のスピーカーからマイクの音が高く響いた。樹が「あっ」と短く

叫んで、もう一度彼を呼ぼうとした声は、館内全体で揺れた座席の振動

でかき消された。

 私たちは心の奥底に渦巻く焦りのせいか何となく落ち着かない気持ち

で、少し遅れて起立した。私たちにとって要注意なのは、まぎれもなく

この目の前の沈着冷静な同級生だった。彼は私たちの秘密に一番近づい

ている人……。

 高校生活、最初の記念であるべき入学式。

 おそらく式の間中、たった一人の人間に意識を奪われる羽目になった

のは私だけではなかったかも知れない。

 

 (何だか厳粛も何もなかったわ……。)

 あれほど張り切っていた入学式なのに、度重なる精神的打撃のせいで

集中力も散漫のうちに終わってしまった気がする。高校生活第一歩から

大きくつまずいて、これから3年間、私の青春のアルバムの中身は一体

どうなることだろう。もちろん葵ちゃんたち3人がすべての悩みの元凶

であることには違いない。しかし……。私はあわてて軽く頭を振った。

 そう、これは最初で最大の危機なのだ。

 私は居間でソファーにもたれ、最初のホームルームでもらったクラス

名簿をぼんやりと見つめていた。今でも耳に響く低いトーンが目の前に

ある文字に重なり、憂鬱のため息は止まらない。

 「おまえ、運悪いよな。絶対に目つけられたぜ。」

 「……ホント、シャレになんねーよ。」

 夕飯の買い物から戻ったらしい、樹と葵ちゃんの声が近づいてきた。

樹の楽しげな笑い声が廊下に響いている。……人の気も知らないで。

 話の内容はわかった。入学式の後、新しいクラスに移動してのオリエ

ンテーションの際、颯爽とやってきた担任の先生が、何とあの時の男の

先生だったのだ。葵ちゃんさえ圧倒した歴史の講義からも察する通りの

熱血漢で、黒板に書いた自己紹介の文字も力強くたくましかった。

 「高須亮平」それが先生の名前だった。

 とにかく、おかげで前列の彼には「徳川の印籠には、歴史マニアを引

き寄せる力があるらしい」なんて皮肉まで言われて、さすがの葵ちゃん

も頭を抱えたのだ……。

 私は思い出しながらため息をついた。やはり意識は心配事の方に回帰

してしまう。

 「オレたちのこと、クラス中に広まったらどうしような。」

 いつの間にか二人の話題も、私の思いに重なるように移行していた。

どうやら不安な気持ちは同じらしく、彼らはそろって台所から私のいる

居間へ入ってきた。

 「参のヤツ、まだ帰ってきてねーのか?」

 葵ちゃんが露骨に不愉快を顔に出してつぶやく。

 「女の子達かなり集まってたもんな。」

 「…どういうつもりだ、こんなやばい時によ。」

 何となく予想はしていたけれど、やはりあのルックスのいい外国人留

学生は、女生徒たちの関心を一挙に集めてしまったようだ。入学式が終

わった瞬間から、参くんの周囲には常に女の子が集まり、本人も快く応

対しているからあきれて言葉も出ない。興味ない少数派を装って(ホン

トはあの変態、怒鳴り散らしてやりたかったわ)早々に帰ってきたけれ

ど、あの様子だとしばらく帰ってこないかも知れない。参くんだって彼

の存在には気付いているはずなのに、どうしてあんなにのんきにしてい

られるのかしら?

 何となく間を持て余し、樹と葵ちゃんはそれぞれテーブルを囲んで座

った。

 「こっちがどう出るか試してんだ、あの津壁って野郎。」

 葵ちゃんがいらだちを含んで彼の名を口にした。津壁博展……。

 「忘れてるなんてことは絶対にないよなぁ。」

 私たち4人が、以前彼とサイクリングロードで会った時のことだ。し

かし彼、津壁くんは教室に入ってからも私たちには背を向けたままで、

その話題に触れてくる気配は一切なかった。だからこそ逆に彼の真意が

わからず、私たちの緊張の糸は張り詰めるばかり。

 「そんなツラだったかよ。人を小馬鹿にしたような目で見やがっ

て。」

 「そう短気になるなって……。」

 普段脳天気な樹までが警戒心から声をひそめている。最初にあの彼に

声をかけたのは樹だった。しかし肝心な話をしようとしたところで式の

開会宣言に阻まれ、それから何となく話を持ち出しにくくなってしまっ

たのだ。

 「悪いヤツじゃないと思うんだよ。オレたちが勘ぐりすぎてるだけか

も知れないしさ?」

 樹は何気なく私にも目を遣った。

 確かにね、そうは思いたいけど。

 私のため息を受けて、葵ちゃんの答えもどこか否定的だった。

 「幼なじみとか、そんなモンに見えるか? オレたちが。」

 「そう見えてもおかしくないんじゃないかな。」

 「……おまえ、バカか。」

 率直な苦言が冷たい眼差しともに樹をねじ伏せる。目をぱちくりする

樹に、葵ちゃんのため息はより深くなった。

 「それじゃ今朝の態度こそ不自然じゃねーか。親しいはずの幼なじみ

が何で人前で赤の他人装う必要があるんだよ。」

 「オレはそんな意識なかったけど。」

 あのねぇ、あんたはこれだから困るのよ。葵ちゃんも落胆の気持ちを

懸命に立て直して、樹を真正面から捉える。

 「それに、おまえ、オレのこと勝手に『ダチ』だって触れ回ってたよ

な。」

 「そーじゃん。『勝手に』ってひでーなぁ。」

 「……そんな話してんじゃねーよ。『中学とか違うけど』って言った

だろ。そんな接点のない幼なじみいるか、普通?」

 樹はやっと自分の掘った墓穴に気付き、納得したようだ。

 「あ、そうか。」

 「今さら実家なんか帰りたくないぜ、オレ……。」

 お互い言葉を失って、長い沈黙が流れる。しかし、やはり気が気でな

い思いのせいか、3人とも妙にそわそわして落ち着かない。不意に葵ち

ゃんがテレビの上の時計を見て立ち上がった時、ようやく玄関のドアが

開く音がした。参くんが帰ってきたのだ。「ただいま」という声ととも

に、のんきな顔をのぞかせる。私たち3人は、まったく同時にためいき

をついた。

 「幸せな野郎だな、ったく……。」

 参くんは一度お手洗いに寄ってから、至ってマイペースな足取りで居

間へ入ってくると、妙に気品たっぷりの笑顔を浮かべ、

 「情報仕入れてきたよ。」

と言った。さすがに私たちも一瞬は彼に気を引かれたが、すぐに興ざめ

し自分の仕事に戻る。参くんはわずかに動揺の色を見せた。

 「……聞かないのかい?」

 「話があるならさっさと言えよ。オレ、飯の準備があるんだ。おまえ

と違って暇じゃねーんだからな。」

 ま、偉そうに……。それじゃ、その『飯の準備』をしょっちゅう放棄

するあんたに代わって仕上げてる私はなおのこと大忙しよ。

 参くんは葵ちゃんに水を差されて肩をすくめる。

 「ほら、今朝の彼のこと……津壁くんだったかな?」

 その途端、私たちは気のない態度を一変させた。

 「それとなく女の子たちに聞いてみたんだ。何も知らないよりはいい

かと思って……。」

 「いいから話せ!」

 ことのほか上機嫌で話をじらす参くんに、本心では津壁くんにかなり

の敵対心を持っているらしい葵ちゃんの視線が鋭く彼を圧倒する。参く

んは小さく息をついた。

 「津壁博展くん。彼の家、あの公園からそう遠くないみたい。たまた

ま小学校が一緒だった子がいたんでわかったんだけど。」

 「まぁ、名簿に住所が緑ヶ丘だって載ってるから、それはわかるんだ

けど……。」

 それにあの時私が彼に追突して落とした袋は、近所の書店のものだっ

たし。

 「彼、小学校を卒業してから、プレップ……あ。」

 参くんは言葉を止め、あわてて言い直す。

 「えっと、私立学校へ進んだんだって。メイリって言ってたかな?」

 「明里!?」

 私と葵ちゃんの声が思わずハモった。

 私立明里学園。驚いたのは当たり前で、私立校では県内ナンバーワン

の進学、就職率を誇り、中学とはいえ入試をパスするのは至難の業だと

言われる名門なのだ。正しくは「あきさと」と読むのだけど、私たち雲

の下の人間は尊敬の意をこめて「メイリ」と呼んでいる。こちらへ来て

間もない樹と参くんは、私たちの説明を聞いて改めて感心の息をもらし

た。

 「明里のヤツが、どうして千尋に来てんだよ。」

 参くんの話によると、どうも津壁くんはすごくレベルの高い環境にあ

る人らしい。明里の件もそうだけど、彼はその上電機会社の社長息子だ

というのだから二重の驚きだ。小学校の頃からすでに落ち着きのある優

等生だったという。

 「ぼくたちのこと、見てみぬふりしてくれてるんじゃないのかな? 

彼、案外いい人かも知れないよ。」

 「おまえもそう思う!? オレも! そうでなきゃケンカの仲裁になん

か入ってくれないよ!」

 「冗談言うな、明里のエリートなんて信用できるかよ!!」

 参くんと樹が合意する中、それを真っ向から否定したのは葵ちゃんだ

った。

 「あいつの目は絶対何か企んでんだ! いつオレたちのことが広まる

かわからねーんだぞ。そんな悠長なこと言ってられねーだろ!?」

 葵ちゃんに厳しくにらまれて、二人がわずかにひるむ。それでも意見

は二対一だ。沈黙の後、彼らはゆっくりと私の方を見た。その目が「こ

れからの行動を決定するのはおまえだ」と訴えているのは明らかだった。

すでに崖っぷちに立っているような気がする。体育館で私を見た、あの

時の彼の瞳……。私はもう一度それらを思い起こしながら、激しい葛藤

の末、ついにあきらめの結論を出した。

 「もう一度……津壁くんと話をしてみるわ。」

 二日目。

 初日から一転、気も足も重く私は3階の自分の教室に入った。

 「おはよう。」

 昨日親しくなったクラスメイトの女の子たちと挨拶を交わしながら、

私は心の焦りを隠せず、何となく教室内の様子をうかがった。まだみん

な緊張しているからか多少静けさがある。今日も参くんが女生徒に囲ま

れてにぎやかに語り合っているくらい……。

 ……それはどうでもいいわ。

 自分の席につこうとして、葵ちゃんと目が合った。私の席は、男子の

列に両側から挟まれる形で並んだ列の最後尾で、彼と樹の席は、何の陰

謀だか、ちゃっかり私の真横に前後並んで陣取っている。葵ちゃんは話

しかけてはこなかったけれど、その表情はあからさまにあきれ顔だった。

思いきりガラの悪さを誇示するように脚を組んで座った姿勢のまま、私

から視線を外すと、前方の標的を静かににらみつけている。

 ……この筋金入りの不良、やっぱりウチの同居人なのかしら。

 問題の彼は、葵ちゃんのすぐ前の席に悠々と腰かけていた。入学式の

時の並びを思い出せば容易に予想できたので驚きはしなかったけれど、

彼の方もまた私たちのことなど無関心で、意味ありげに振り向いたりす

る素振りさえ見せなかった。今日もその態度は変わっていないようだ。

 私は彼に声をかけるのをためらっていた。泣き顔を見られた弱みも然

り、何より彼の机の周りには、参くんではないけれど、数人の男子生徒

が取り囲んでいたのだ。

 その理由は、どうやら彼の机の上のものにあるらしかった。

 「おまえ、いつもそんなん持ち歩いてんの?」

 「ゲームないの、ゲーム?」

 男子生徒たちの声は好奇心に満ちている。確かに衝撃的光景だった。

彼、津壁博展は堂々と教室に小型のパソコンを持ちこんでいたのだ。も

し事前に、彼が電機会社の社長息子という情報を得ていなかったら、私

は、この末恐ろしい強敵に立ち向かう力を完全に失ってしまっていたか

もしれない。彼は周囲の質問の嵐に、至って冷静に答えている。

 「そのテのは結構難しいんだ。やり始めたら3日は徹夜になる。」

 「へぇーっ、すげーっ!!」

 ………………!?

 突然聞き覚えのある声が耳に飛びこんできて、私は愕然とした。ずっ

と姿が見えないと思っていた、葵ちゃんの後ろの空席の主が、信じられ

ないことに、その男子生徒たちの陰からひょこっと姿を現したのである。

 「……何やってんのよ!」

 私の全身が、声にならない声で震えた。実際声に出すわけにいかなか

ったので、ある意味好都合だったとも言えるけど、それにしてもあの無

神経は何とかならないのっっ!

 いわば私たちの名誉にも関わる大問題に直面しているにも関わらず、

天下のお調子者、牧原樹は自分の興味本位で、実に軽々しく敵地に取り

入っているのだ。今すぐにでも飛んでいって引きずり出したいという衝

動を必死にこらえる私の目の前で、樹は彼への友好的態度をまざまざと

見せつけ、逆なでする。

 葵ちゃんが、ついに堪忍袋の緒が切れたとばかりに重い腰を上げた。

その彼の冷酷な瞳を見て、私の興奮は一瞬忘れるように消えてしまった。

思わず鳥肌が立つほどだった。葵ちゃんは机に手につきながら、狭い道

を前に向かい進んでいく。

 たった一つ前の席を通過するまで、どれほど時間がかかって感じられ

ただろうか。彼が男子生徒たちの陰に隠れて消えた瞬間、先ほどまで御

機嫌だった樹の表情が変わった。

 「いてっ!!」

 前かがみだった姿勢をさらに倒して、その原因を探す樹。やがて、ふ

り返りもせず通り過ぎる葵ちゃんに気付くと、表情を強ばらせた。

 「何すんだよっ、葵!!」

 「うるせーな、ちょっと当たっただけだろーが……っ!」

 教室内がしんとなった。葵ちゃんの迫力は、みんな昨日十分に味わっ

ている。彼はクラスきっての問題児というレッテルを自ら全員に植えつ

けたのだ。樹も対抗することなく、葵ちゃんが教室を出ていくのを見送

るだけだった。彼がいなくなって再びざわめきが始まる。聞こえてくる

のは彼の噂ばかりだ。

 「あいつ、ホントにヤンキーだな。」

 「蹴られたんだろ、牧原。大丈夫?」

 「あいつとつるむのマジでやめた方がいいよ。やべぇんじゃねー

の?」

 痛そうに足元をさする樹に、周囲の同級生が心配して声をかける。樹

は笑ってその場は答えながらも、ふと怒りと疑問が混ざったような複雑

な表情で、葵ちゃんの出ていった廊下の方を眺め見ていた。

 「おまえも、前の席なんだから気をつけろよ。」

 一人の男子生徒が津壁くんにも忠告して言った。近くにいた一人も賛

同する。

 「パソコンとか持ってきててさ、絡まれたら面倒だぜ。」

 彼はじっと黙って考えていた。私は、ここで彼が葵ちゃんへの関わり

を恐れて、過去の一件を胸の奥へ消してくれればと願ったりもしたが、

一方でなぜか感じる心の抵抗も隠せなかった。どうするだろうと見守っ

ていると、やがて彼は平然とこう返したのだった。

 「そう言うほどのヤツでもないと思うんだが……。」

 

 津壁くん、一体何の根拠であんなことを言ったのかしら?

 問い正すタイミングなどあるはずもなく、考えていても疑問ばかりが

ふくらむだけなので、とりあえずは目の前のLTに集中することにした。

今日は、来週行われる校外合宿に向けてのオリエンテーションだった。

この合宿は新しい仲間、先生方たちとの親睦が主な目的になっている。

まだ最初なのでハイキングなどのグループは担任の高須先生の独断によ

って名簿から振り分けられた。その結果、津壁くんが私と同じ班になっ

てしまったのは少々問題だけれど、他の問題児たちとは何とかバラバラ

になり、私としてはこの編成が吉と出ることを切に願っている。なぜな

ら我が一学年の最初の二泊三日が無事に過ぎるかどうか、それはすべて

彼らの言動一つにかかっていると言っても過言ではないからだ。現に、

葵ちゃんと班を同じくした人たちは今から顔色を変えているし(そこは

同じ班の参くんがたぶんフォローしてくれるだろう)、樹との「一蓮托

生」班は必要以上のハイテンションぶりに戸惑いの表情を隠せないでい

る。

 ……とにかくあんたたちは、せめてそこでおとなしくしていてちょう

だい。

 午前のオリエンテーションの後、昼休みになり、私は教室で友達にな

った女の子たちと席を隣り合わせた。みんなそれぞれパンを買ってきた

り、お弁当を持ってきたりして昼食を食べている。中学生の時は給食が

あったけれど、これからは自分で食事を用意しなくてはならない。私は

自分でお弁当を作るけれど、まさか4人分を仕度する羽目になるとは思

わなかった。実は朝食時のどさくさにまぎれて、彼らに強制的に作らさ

れてしまったのだ。少しくらい協力してくれてもよさそうなものなのに、

そろって勝手なんだから。特に葵ちゃんは調理係のくせに職務怠慢もい

いところよ、もう。しかし、かといって私まで放棄すれば、彼らが栄養

バランスもいいかげんな食生活を始めるのは目に見えている。

 結局、これが弱みにつけこまれる私の敗因なのよね……。

 私はこっそりと、隣にいる樹と葵ちゃんをにらみつけてやった。二人

はそれぞれ自分の机で弁当を広げている。本当は葵ちゃんの方が一人で

教室を出ていこうとしていたのだが、樹に引き止められたのだ。彼は口

数は少ないものの、多少落ち着きを取り戻している様子だった。

 「あれほどキレるなって言ったじゃないかよ。」

 目の前の友達と話をしながらも、彼らの会話は自然と耳に入ってくる。

 「オレは冷静だったよ。おまえがしてたことよりかはな。」

 「だって…いいだろ?クラスメイトなんだから…。それにコンピュー

タ面白そうだったし。」

 私の視界にふと黒い影が差した。何気なく目線を向けると、樹が顔を

上げて影の主を見つめていた。

 「ここは特等席だな。」

 津壁くんだった。私はかろうじて直視をこらえ、聴覚だけを隣へ集中

する。

 「何で?」

 「オレは静かな場所のが性に合っててな。」

 わかるようなわからないような微妙な答えだ。確かに二人の周りには

私たち以外、見事に人が集まっていなかったのだから。彼はすぐに立ち

去ろうとしていたようだったが、樹に突然思い出したように呼び止めら

れると、足を止めた。

 「な、おまえ、明里ってトコ、卒業てんだって?」

 表情を見ていない分、私はだいぶ口調からわずかな感情の動きを読み

取ることに慣れ始めていた。この直後の津壁くんの返事に顕れたのは、

明らかな焦りだった。

 「どうして、それを……。」

 樹は素直だけど、逆にそれが出過ぎて人の気持ちに鈍感な行動を起こ

しがちだ。私の実体験からも何となくそれを心配していたのだが、案の

定、彼は悪気なく笑顔で話し続ける。

 「すげー有名な学校らしいね。オレ、おまえに宿題助けてもらおうか

な。」

 「そう言って、真っ白で持って来るんじゃないだろうな。」

 私の思い過ごしだったのだろうか。すでに津壁くんは平静を取り戻し

ていた。樹の言葉に冗談交じりの台詞で返した後、彼の気配が背後を移

動していく。私たちは廊下をそっとのぞいて、重そうなパソコンを抱え

て歩いていく彼の背中を見送った。

 

 何とか一日が過ぎ、私たちは最後の大仕事を迎えるため、計画を開始

した。葵ちゃん、樹、参くんがそれぞれ教室を出ていく。みんなが帰っ

ていくのを見計らって、私はついに決心すると、慎重にパソコンを片付

けている彼に近づいた。

 「ちょっと用があるんだけど、時間空いてるかしら?」

 緊張したけれど何とかそれだけ言いきった。津壁くんは細い鋭い瞳で

私を見つめた後、ふぅと軽く息をついてうなずいた。

 津壁くんはただ黙々と私の後について歩いていた。とても無表情で、

私との間も一定距離を保っているから、一緒に学校を出ても周囲にまっ

たく怪しまれない。見知っている道でもあるせいか彼は終始無言だった。

でも、それが何だか、すべて見透かされているようで不気味だわ。

 私が案内したのは、彼と初めて出会った緑地公園のサイクリングロー

ドだった。

 舗装された道を外れ人気のない湖の方まで降りていくと、打ち合わせ

通り、葵ちゃん、樹、参くんの3人がそろって私と津壁くんを迎えてい

た。

 「いやに深刻だな。」

 津壁くんは茶化すようにつぶやきながら、重そうなかばんを持ち直し

た。余裕の表情をまるで崩さない。それが私たちにとっては脅威だ。

 「話したいことがあるのよ……。」

 私は率直に本題へ入った。4人にいっそうの緊張が高まる。そしてこ

の時、はじめて不敵な彼の表情にわずかながら困惑の色が浮かんだ。き

っと今までとぼけていた分、どう受け応えてよいか決めあぐねているの

だ。しかし、すぐに吹っ切ったように息をついて「ああ」と言った。

 「聞かせてもらえるのか? オレも興味がなかったわけじゃないから

な。」

 「興味ってな…こっちはふざけてんじゃねーんだぞ!」

 「葵っ!」

 いきり立つ葵ちゃんを、樹と参くんがなだめる。落ち着いたのを見計

らって、私はゆっくりと話し始めた。

 「あの時のこと、覚えてるでしょ?」

 「ずいぶん遠回しだな。」

 津壁くんは笑った。

 「あんな広い道でいきなり追突されて、忘れてる馬鹿がどこにいるん

だ。」

 毒々しい言葉がストレートに私の胸に突き刺さる。な、なんて容赦の

ない人なのっっ!

 「すると、そんな彼女を追いかけてきた3人の男っていうのは、なお

のこと印象的だったに違いないね。」

 絶句する私に代わって、話を続けてくれたのは参くんだった。冷静さ

なら、きっと引けを取らないはずだ。流暢な日本語で気品を保ちながら

も、ゆっくりと津壁くんの心に詰め寄る。

 「おまえらな……。」

 彼から微笑が消えた。口調からもうんざりした様子がうかがえる。

 「犯罪でもやってるのか。オレを湖に沈めるつもりだとかいうんじゃ

ないなら、はっきり言ったらどうだ。」

 「そんな……!!」

 恐ろしいことをよくもずけずけと……。しかもあの冷めきった細い瞳

をまともに向けられて、私たちはすっかりたじろいでしまった。不良を

自認する葵ちゃんでさえ完全に気迫負けしている状態で、とても彼には

太刀打ちできそうもない。そしてその時、大波乱は起こった。

 「おまえ達、一緒に住んでるのか。」

 彼は、私たちが驚く間もなく、あっさりと言った。

 「おまえ……っ!」

 「何で!?」

 津壁くんは再びかばんを持ち直し、帰る準備さえ始めている。

 「どうして…知ってるの…?!」

 「なんだ、そうなのか。」

 「…………!」

 はじめて納得したように息をつく。からかうような言い草に、葵ちゃ

んが抵抗する気力を取り戻した。

 「おまえ、はめたなっ!」

 「そう言ってるようなものだったぞ。」

 彼は親指で、私たちのかばんを軽く指し示しながら笑った。

 「バレて困るのなら、もう少し弁当の中身を考えた方が良い。」

 私たちは呆然と立ち尽くしていた。

 お弁当……。まさかこんなところを見られていたなんて。

 「りのっ! おまえの怠慢じゃねーか!」

 「勝手なこと言わないでよっ! あんたが自分の仕事しないからいけ

ないんでしょっ!!」

 「ちょっと、おまえらなぁ……!」

 どうせ知られてしまったのだし、私も半ばヤケになっている。内輪話

丸だしで責任押しつけ合いのケンカを繰り広げる今の私に肝心なことを

考える余裕はなかった。

 「あ、ちょっと待って!」

 津壁くんがいつの間にか背を向け歩き出していたことに、いち早く気

付いた参くんがあわてて彼を呼び止めた。

 「お願いがあるんだ。ぼくたちが同居していること、内緒にしておい

てもらえるかな?」

 そうだった。もともとバレることは覚悟していたのだから、本当の目

的は彼にこの事実を口外しない約束をしてもらうためなのだ。私たちは

これからの運命を託す思いで彼を見つめる。津壁くんは一瞬ア然として、

すぐにあきれたように笑った。

 「安心しろ。オレは得にならないことは頼まれてもしない主義だ。」

 「まだ何かあるか」と言わんばかりに私たちの顔を見回す。彼が無口

だということは一緒に歩いてきて十分よくわかったけれど…。ここで彼

の言葉に不信を示したのは葵ちゃんだ。

 「…言いふらすのが有益、なんてことにならない保証はあんのか?」

 「なるほど。確かに説得力はない、か。」

 津壁くんの冴えた瞳がはっきりと葵ちゃんを認める。しかしその後、

彼は葛藤の表情になっていた。やがて目を伏せ仕方なさそうにため息を

つくと、樹を見る。

 「おまえ、昼休みの時、明里の話持ち出しただろう。」

 「え、そうだっけ?」

 「覚えてないのか。オレがどれだけ焦ったと思ってるんだ。」

 葵ちゃんに肘で突かれて、樹はやっと自分で声をかけたことを思い出

す。あの時は冗談で済ませていたけれど、やっぱり動揺してたのね。少

し間があった。彼はもう一度深い息をついた。

 「あの高等部の試験は悪夢だった。」

 不意の一言で、私たちは言い表せない衝撃を受けた。津壁くんはあく

まで穏やかな口調を崩さないが、抑揚のない一言一言がその重みを訴え

ている。

 「千尋は二次を受けて通ったんだ。家から近いし、この重い機械を持

ち歩くのも前よりずっと楽になった。そう思ってふっきったつもりでは

いるが、それでも人に知られるのは結構痛い。」

 「津壁くん……。」

 言葉など出なかった。突然彼に胸の内を明かされて、私たちは完全に

困惑していたのだ。

 「そういうわけだから、もしオレが万一おまえたちのことを他のヤツ

に話した時は、おまえたちも今のを人に話せばいい。」

 「……えっ?」

 急に口ぶりが一変し、私たちはその平静強気の顔を前に呆然となった。

彼は、今まで以上に鋭く威圧的な瞳で私たちを真正面から見据える。

 「これでリスクは対等だ。」

 こうして私たちは、足早にもとの道を帰っていく彼を、ただ言葉もな

く見送った。

 彼と私たちとの固い約束は結ばれたのである。

 

 翌日、私はやはり津壁くんが気になっていた。彼は、私たちの秘密を

絶対に口外はしないと暗に約束してくれた。ただ、その代償の大きさに

私は胸を痛めていた。確かにあの時の堂々とした不敵の態度にはあきれ

たけれど、それでも彼の心を傷つけてしまった自責の念はどうしても消

えなかったのだ。どうもそれは葵ちゃんたちも同じだったようで、気の

ないふりをしながらもどこか表情に曇りが見え隠れしていた。

 そして今日の帰り、もう一度彼と話をしようと決めた矢先、私は高須

先生に呼ばれたのだった。我がクラスの熱血担任高須先生は、解散と同

時にさりげなくこちらへ向かってきた。

 「結城。」

 近くにいた友達だけでなく、樹と葵ちゃんも立ち話をやめて視線を移

す。そんな彼らにもわずかに目を遣りながら、先生は後ろの開いたドア

から顔だけのぞかせる格好で私に話しかける。

 「ちょっと職員室に寄ってくれるか。」

 話の内容は決まっているので驚くこともない。こちらも私にとっては

大事な用件だ。しかし先ほどの決心もあって、私は少しためらった

 「おまえ、何かやったのか?」

 わかってるくせに葵ちゃんがいたずらな笑みを向ける。が、すぐに彼

の目が「任せろ」と言っているのに気がついて、私は先生との面談を承

諾した。

 …でも、あんた、外から見たらホントに感じ悪く見えるわよ。

 樹たちが津壁くんに声をかけるのを見届けて、私はすぐに職員室へ向

かった。高須先生は場所を替えるからと私を別の一室へと案内した。プ

レートには「生徒指導室」と書かれてあった。葵ちゃんならともかく、

真っ先に私が生徒指導室に連れてこられるなんて皮肉な話よね。

 「そう心配そうな顔するな。責めるわけじゃないんだ。」

 私の暗い表情の意味を勘違いされたみたいだ。向かい合って座ると、

高須先生はそう言って明るく笑った。

 「話は、おまえたちの同居のことだ。わかってるとは思うが、一人ず

つ呼んだ方が指導上いいと思ってな。」

 「お心遣いを、どうも……。」

 高須先生は机の上に4枚の履歴書を広げて置いて、しきりにそれらを

見つめている。

 「しかし、おまえと藤島と牧原、おもしろいぐらいに並んだな。あれ

はこっちも予想してなかった。」

 「おもしろくなんかありません。」

 「うん、まぁ、そうだな。……あいつらはどうだ、その、ちゃんとし

ているのか?」

 つい無意識に口調が厳しくなってしまった。高須先生も私の思いを察

したか態度を改めて、本題に入る。

 「もちろん親御さんの了承があってのことだし、あいつらも考えてく

れてると信じているんだが、念のためにな。」

 私ははっきり答えてよいかどうか迷った。ここで彼らの今までの言動

を訴えれば、男3人との同居生活なんて非日常な日常から解放されるだ

ろう。しかし……。

 「……何とか、平和にやってます。」

 正反対のことを言ってしまった。……これはお母さんたちの名誉を考

えてのことよ。

 高須先生は私の目をじっと見ていたが、ふと力を抜き、一つ息をつい

た。

 「とにかくな、学校側の心配は変わらんのだ。節操を守って頼むぞ。

それと何か問題が起こったら必ず相談するようにな。」

 「わかってます。」

 問題…、きっとそれは彼ら自身だわ。私はこの言葉を飲みこんだ。高

須先生はそんなことなど当然気付く様子もなく、独り言のように話し始

める。

 「どうもオレのクラスには毎年変わったヤツが集まるんだ。お笑い志

望で自習になるたび勝手にコント始めるヤツもいたな。おまえたちの3

年上で今はもう卒業して普通の会社員やってる。それから女子で占星術

マニアのヤツとかな。よく当たるって評判だった。あいつ、どうしてる

んだろうな?」

 「はぁ。」

 先生は最終的にこの話をどこへ持っていくつもりなのかしら……。私

は半ばあきらめた気持ちで、ひたすら相づちをくり返していた。そして

案の定、高須先生の輝いた目はまっすぐに私を向いた。

 「今年はおまえたち4人だろ。あぁ、あいつ! 津壁も、あれは特殊

だな。」

 「え? 津壁…くん?」

 意外なところで津壁くんの名前が出てきて、私は一気に目が覚めたよ

うに身を乗り出す。

 「式の前に藤島と向井のケンカを収めたヤツだ。覚えてるだろう?」

 「ええ、まぁ。」

 入学式の時、不用意に葵ちゃんの名を笑ってしまったばかりに不運な

目に遭った後部座席の男の子は「向井」という名前だった。葵ちゃんの

一方的脅迫だった、あれをケンカと呼ぶのは向井くんの名誉を傷つける

ことになるような気がして私は抵抗があるのだけれど、とにかく確かに

あの時は津壁くんに救われたと言えるだろう。

 「やたらばかでかいバッグを抱えて来てただろ。何を持ちこんでるか

と思えば…。」

 今日、机で広げていたパソコンのことだ。高須先生は困惑というか複

雑な表情を浮かべて、しばらく考えこんだ後でこう言った。

 「とは言え、頭ごなしに禁止するのももったいないような気もしてな。

アレに関しては津壁はかなりの専門知識を持ってるだろう。他のヤツら

が興味持って集まってたんじゃないか? 才能のあるヤツと一緒にいら

れるってのは幸運なんだ。それだけ視野が広がる。」

 話を聞きながら、私は何となく高須先生を好きになった。初日の門番

の印象が深いせいもあると思うけれど、生徒に対して柔軟な考えで見守

ってくれる、その姿勢がうれしかったのだ。もちろん時には厳しい面も

あるけれど、私は、今の自分の置かれている立場を考えても、高須先生

が担任でよかったと心から感じた。ただ津壁くんに関してだけは、私た

ちは幸運なのかしらねぇ? …疑わしいわ。

 「あいつら多分さっさと帰っちまってるな。明日は、久遠寺か。悪い

が、声をかけておいてくれるか。」

 面談が終わると、先生は笑顔でそう言った。

 参くんはいつでも女の子たちと楽しい談話中だ。最近は別のクラスに

まで足を延ばして、どこへ行ってるんだかわかりゃしない。声をかけた

って、その時に覚えているか疑わしいものだ。

 「一応、言いますけど……彼なら、放送で呼んだ方が確実だと思いま

す。」

 私はきっぱりと答えていた。

 

 教室にいないのを確認して、外へ出ると、何と突然校舎の影から突然

怒鳴り声が聞こえてきて、びっくりしてしまった。私には悲しくも声の

主がはっきりとわかり、憔悴しきった足取りで駆けつける。

 「おまえ、その態度、何とかならねーのかっ!?」

 そこには「任せろ」と言った(と思っていた)葵ちゃんがすっかり頭

に血を昇らせて、平静そのものの津壁くんに対し一方的にまくしたてて

いる真っ最中だった。樹と参くんは止めようとするどころか、後ろであ

きれ顔の傍観者に徹している。

 やっぱりあいつらを頼りにするんじゃなかった…。

 「あ、りのちゃん。」

 「何やってるのよ! どう見ても絡んでるようにしか見えないわよっ

っ!」

 参くんのマイペースな声に、腹立たしささえ弱まる。葵ちゃんは私を

見てそっぽを向くと、さっさと歩き出してしまった。

 「とにかく、ここを出ましょ。」

 仕方なく彼について学校を出る。津壁くんは完全にあきれはてた様子

で、私と目が合うと、ほんのわずかに肩をすくめた。…まぁ、葵ちゃん

が怒る理由もわかる気はする。少なからず私たちは彼に対し引け目を感

じているわけだから、当の彼にこんなにしれっとあしらわれては、困惑

も通り越すだろう。

 結局、昨日と同じサイクリングロードまで足を運んでいた。私たちの

いつもの通学路でもある場所なのだが、ここの入り口まで来て津壁くん

は急に足を止めた。

 「オレは方向が違うんで。また後日だな。」

 小さく頭を下げると容赦なく背を向けてしまう。昨日はその毅然とし

た態度にのまれて、つい見送ってしまったけれど、今日はそうはならな

かった。

 「いいから、来い!」

 くすぶった炎が一気に燃え上がるように、葵ちゃんは攻撃心もあらわ

に彼のもとへ向かっていくと乱暴に肩をつかまえた。無理やり身を返さ

れ、津壁くんは一瞬バランスを崩したものの、すぐに建て直し目の前の

ライバルを厳しい瞳でとらえる。

 「人が気ぃ遣ってれば、調子にのりやがって!」

 「……何の話だ。」

 ようやく樹が止めに入り、葵ちゃんの手が津壁くんの襟元から外れる。

津壁くんはさすがに驚いたらしく鋭い目をぱちくりさせた。

 「おまえ、勘違いしてないか。あれは条件を同じにするために、あく

まで取引上、話をしたまでだ。同情してもらう必要はない。」

 「…………!!」

 津壁くんの目はじっと葵ちゃんを見ていた。樹になだめられて少しず

つ熱が冷めてきている彼の姿を追いながら、ふとその口元に笑みがもれ

た。

 「千尋は悪くないぜ。な、結城。」

 「え?」

 突然声をかけられて、あわててしまった。それでも彼は、私が気を落

ち着かせてうなずくまで、時間をかけて待っていた。

 「確かに途中の坂はきついし、あの校長の長い演説もうんざりだが、

坂は通学時間を考えれば大したリスクでもない。演説だって寝てればい

つかは終わる。」

 「寝てれば……!?」

 意外な発言に全員が絶句した。彼はまったく気にせず、いたずらな目

を輝かせる。私たちの中で大きく彼のイメージがぐらついた。……特に

葵ちゃんには衝撃だっただろう。

 「それにパソコンの持ち込みがお咎めなしだったのにも驚いたんだが

……。」

 そう言って、津壁くんは意味ありげに私たちを見て笑った。

 「『画面の文字が動いた』って無邪気にはしゃぐヤツを見たのは初め

てだ。」

 「え? そうなの?」

 樹が目をぱちくりする。

 「入学早々クラスの女子に片っ端から声かけてるヤツも明里にはいな

かったな。まして式の当日に暴力沙汰を起こすような面白いヤツは問題

外だ。」

 参くんと葵ちゃんが、お互い気まずそうに顔を見合わせる。

 「だが、そういうヤツらを3人もまとめて世話してる末恐ろしいアイ

アンレディは、他のどこを探しても千尋にしかいないだろ。」

 「Iron lady……!?」

 参くんが大げさに吹き出す。私はつい参くんの方を思いきりにらみつ

けていたが、すぐに相手違いに気付き津壁くんに視線を移す。妙に楽し

そうな彼の表情には、どんな抵抗も肩すかしをくらいそうなほど、嫌み

がなかった。……不運が転じて福となる。彼を味方につけたのは、ひょ

っとすると私たちにとって幸運なことなのかも知れない。

 結局、私たちはそう認めざるをえない完璧な敗北を喫したのだ。

 「帰ろうぜ。」

 安心とは違うと思うけれど、何だか心の重荷が取れて、どっと疲れが

出てしまった。すっかり脱力して歩く私たちを穏やかな太陽が照らして

いた。厳しい寒さの中、ほんの温もりを感じる光だ。私は今日のこんな

上天気に初めて気がついて、空を見上げた。

 「そうだ、忘れてたわ。葵ちゃん、服……。」

 「えっ、ああ……!」

 ボタンのほつれた樹の制服を交換してから、葵ちゃんにいつか直す約

束をしていたのだが、確かそのままだったはずだ。思い出して声をかけ

ると、葵ちゃんはなぜか一瞬狼狽した。妙だと思った私の疑問にまたし

てもタイミングよく解答を打ち出したのは、彼だった。

 「そういえば、葵。」

 津壁くんは後ろから葵ちゃんの横にぴったりつくと、その耳元に問い

かけるように言った。

 「式の後にあわてて上着のボタン引きちぎってたのは、何の意味があ

ったんだ。」

 「津壁、おまえっっ!」

 小声でも澄んだ低音の声はよく通る。全員の視線を受けて露骨に取り

乱す葵ちゃん。私は思いきり目を細め、疑いたっぷりの視線で詰め寄る。

 「……引きちぎったってどういうことよ?」

 「そんなんじゃねーよ、こいつの見間違いだ!」

 しかし右手は無意識にしっかりと上着の真ん中辺りを押さえている。

どうやら葵ちゃんは嘘のつけない性格らしい。また一つ知ることができ

た。…わかりやすくて助かるわ。

 「何で取れてたボタンを『引きちぎれる』んだよ?」

 樹も、当たり前の論理に気付いたようだ。

 「そういえば、葵って料理以外でも結構いろんなこと知ってるよね

ぇ。」

 「へぇ、おまえ、見かけによらず家庭派なのか。」

 ここで参くんが王手をかけると、津壁くんがとどめとばかりに皮肉る。

3人がかりの追求にとうとう葵ちゃんはその場を逃げだした。

 「何でもねーって言ってるだろ! いい加減にしろっっ!」

 しかし最後には往来の真ん中で樹と二人、大乱闘を繰り広げることに

なってしまった。そして楽しげに傍観する参くんと津壁くん。私はしば

らくそのしっかりと構築されてしまった図式を遠くから眺めていた。今

や胸の内は、関わり合いになる問題児が一人増えたというあきらめの境

地だ。こうなったら3人も4人も違いはないわ……。

 千尋学園高等部新一年生。来週は二泊三日のオリエンテーション合宿

だ。無事に済むといいけど……どうなっちゃうのかしら。

つづく