同居人シリーズ

第三話B ◆同居人のハイスクール・パニック(後)

 

 「オレの名前がそんなにおかしいかよ!」――

 

 記念すべき高校入学式の当日、ふとしたことで我が家の同居人の一人

――藤島葵は、とんでもない騒動を起こしてしまった。先生が間に入っ

ても事情を話そうとしない葵ちゃんは、今まさに式にすら出席できなく

なりそうな状態にある。また、それを半ば受け入れるつもりの本人を前

に、私、結城りのと、同じく同居人の牧原樹、久遠寺参の3人はどうす

ることもできず、ただ気をもむばかりだったのだ。

 やっぱりここは葵ちゃんに恨まれるのを覚悟で、訳をすべて先生に話

すしかない。

 まだ恐怖が胸をよぎる中、私と樹の二人はいよいよそう決意した。そ

して…!

 「…はっきり教えてやればいいだろ。」

 それは樹が大きく一歩踏み出した瞬間だったので、私はこの勘違いを

正すのにしばらく時間を要した。樹の声ではなかったのだ。びくっと身

を震わせた葵ちゃんが、動揺の面持ちで声の主を探す。

 「許せないことなら今、はっきりさせといた方が良い。」

 落ち着いた低音の声…。深く椅子に腰かけたまま、頭をわずかにこち

らへ向けて話す彼は、私たちのすぐ一つ前の列の人だった。樹があんな

に周囲を巻きこんではしゃいでいたにもかかわらず、眠っていたのか

ずっとうつむいて一度を振り返ることもなかった人。背後で起きたこの

騒ぎに対しても、今まで我関せずというように姿勢を崩さなかった彼が、

ここにきて突然、しかも私たちに助け船を出す形で間に入ってくるなん

て…。

 彼は確かに私たちに……葵ちゃんに話しかけている。

 「ここで引いたら、それこそ笑い者だ。」

 葵ちゃんの表情が強ばるのがはっきりとわかった。私たちがア然とす

る中、彼はやっと椅子の背もたれを支えに立ち上がると、こちらに体を

向けた。そして私たちは第二波の衝撃を受けることとなったのだ!

 「あ、あーっっ! おまえ、あの時のっっ!?」

 この瞬間から、私は頭の中が真っ白になってしまっていた。派手に相

手を指差して叫んだ樹の大声さえ遠くに聞こえるほどに。

 「何だ、知り合いか?」

 先生も、意外な仲裁から話が訳のわからない展開に転がっていき、や

やあっけにとられている様子だ。

 まさか、知り合いと言う程ではない。しかし彼こそ、あの日、私たち

4人の同居生活最初の日、私が彼らのケンカに耐えきれず外に飛び出し、

夢中で走った緑地公園の一本道でぶつかった人…。そして、後を追って

きた3人に私の居所を教えた人なのだ。

 彼は樹のすっとんきょうな声にわずかに息をもらしたが、すぐに気を

取り直し、目と首の小さな動きでゆっくりと私たちを見回し始めた。私

の中の血液が、焦りと恥ずかしさを抑えきれず、急ピッチで上昇してい

く。

 やがて、その視線が私をとらえた時、彼は動きを止め、先ほどのよう

に小さく息をついた。真っ黒な長い前髪の間からのぞく、無表情で何を

考えているのか予測できない細く鋭い瞳……。言葉もなく、ただ見つめ

ている様子は、まったくあの時と同じだった。

 あの時…。

 私が、自分でも見たくない泣いている姿を見られた…あの時――!

 思い返した途端、私の体は大パニックを起こして「顔から火が出る」

思いと「血の気が引く」感覚を、まるで高速の光の点滅のごとく味わっ

ていた。

 (やっぱり、私のコト覚えてる。)

 反応は本当に小さいもので、すでに彼は私から視線を外し葵ちゃんの

方を向いていたけれど、私にはどうしてもこの確信の思いをぬぐえな

かった。樹たちの心もやがて私一人を取り残して、今の現実へ帰ってい

く。

 「黙ってても、ここにいるヤツらにはもうバレた。」

 「……。」

 「どうせ少なくとも3年間は此処(千尋学園)に居なきゃならないんだ。

はなっからこんなことで自分を印象づけてもつまらんだろ。…なぁ、先

生。」

 「ん…、ん?あ、俺か! まあ、よくわからんが。」

 「まぁ今さら手遅れか。なかったことにはならないな。」

 恥ずかしい過去のせいで、何となく彼から目を離せずにいた私だった

が、いつの間にかそんな多々の事情を抜きに、今の彼を呆然と見つめて

いた。そして、それは私だけでないことにも気付いたのだ。

 「事を荒立てたのは、おまえ自身…」

 「…黙ってりゃ何なんだよ、てめーは!」

 おそらくここにいる全員があわてふためいただろう。彼の重ね重ねの

毒舌は、とうとう葵ちゃんに失望を超えた怒りの火をつけてしまった。

感情の矛先が見事に180度反転、身を翻すようにして猛然と彼の鋭い

瞳のすぐ前まで歩み寄っていく。

 「こら、式の前だぞ!」

 「お…おいっ、やめろってば!!」

 再び騒ぎが大きくなり、樹が懸命に葵ちゃんの後ろへ回りこむ。横で

見ていても葵ちゃんの迫力は十分なのに、その標的になっている彼の方

はまったく平静として堂々たるものだ。

 「確かにあん時は世話になったと思ってるよ。けどな、今日は許せ

ねぇ! どうしてオレのことでおまえにそこまで口出しされなきゃなら

ねーんだっっ。」

 「覚えがないな。オレはおまえに何か世話をしたか。」

 「…っ! じゃ、なおさら黙ってろよ!!」

 「やめろって…葵っっ!」

 「だから名前で呼ぶなっつってんだろ!ふざけんな!」

 その一瞬、私も思わずびくっと身が震えてしまった。とんだとばっち

りで振り返りざまに怒鳴られた樹は訳がわからず目をぱちくりさせてい

る。そして自分を呼んだのが樹だったと今はじめて知った様子の葵ちゃ

んは、いよいよ追い詰められて露骨に狼狽の色を見せた。過敏になって

いることを改めて意識してしまい、もはや高ぶった感情のやり場がない。

周囲はもちろん、樹も参くんもこの状況をどう取りまとめるか判断しか

ねているようだった。

 私も、無関係で…いたいわけだし。

 少しの沈黙があった。そして――。

 動揺する葵ちゃんの姿を至近距離でじっと冷ややかに見つめていた彼

が、ふと肩の力を抜いて息をつくと笑った。

 「…先生、見てたよな? これが発端。」

 笑った、と言っても半分あきれを含んだ皮肉げなものだったけれど。

 とにかく彼はあっけに取られる葵ちゃんの肩に、また何て物怖じしな

い人なのか、手をかけながら、先生に向かいこう言いのけたのだ。

 「こいつなりの自己紹介だったんだ。見逃してもらえないか。」

 驚いた。葵ちゃんの神経をさんざん逆なでした挙げ句、結局これが彼

の狙いだったなんて。

 「う-ん、見逃せと言われてもなぁ。」

 先生も不意の平和交渉に困惑顔だ。もし本当に見逃してもらえるのな

ら、こんなありがたい話はないけれど、さすがに今の先生には少なから

ず同情の気持ちさえ抱いてしまう。

 「…確かに、はた迷惑だったが。」

  一方、彼はそれでもどこか一歩も引かない気丈さをもちながら至っ

て穏やかに先生を見据えた。

 「自分の名前を笑われて怒るのは当たり前だし、笑った方も物珍しさ

が先立ったってことだろう。どちらにしても、そんなケンカに教師が介

入するのは小学生までだと思うんだがな。」

 『小学生』がかすかに強調され、葵ちゃんの声がぐっと詰まる。彼は

さらに続けた。

 「今日のことで、初対面のこいつらがこれから先こじれるのか、逆に

理解を深めて親しくなるのか…今の時点ではわからないわけだ。先生の

深い懐次第だな。」

 そして彼は最後の決定的な台詞で茶化すように笑みを浮かべた。こん

な偉そうで毒舌な口調なのに、先生はずっと真剣に彼の話に耳を傾けて

いた。「先生に向かって何て口を利くのか」と怒り出す先生もきっと少

なくないと思う。でも、この若い男の先生は、彼の意見を素直に参考に

して考えている。ずっとうつむいていた男子生徒も、顔を上げ葵ちゃん

とお互い苦い表情で目を合わせた。仲がこじれるか、はたまた友情が深

まるのか……?

 「藤島葵…。」

 やがて先生がふと葵ちゃんの名前を口にした。葵ちゃんがけげんそう

に渋々返事をすると、先生はようやく納得がいったというすがすがしい

顔になり、高らかに笑った。

 「そうか、おまえが藤島葵か!!なるほど。名簿で見たが、確かに男

には珍しいかもな!」

 ほぼ同時に葵ちゃんの顔は紅潮し、私たちの顔は青くなる。当然のこ

とだ。今まで葵ちゃんはそれを言われるのが苦で怒っていたのだから。

しかし先生の言葉はそれからが他と違っていた。相手の男子生徒を見て、

いや、むしろ授業さながらに周囲の全員を意識して話し始める。

 「いや、おまえら知ってるか?葵の紋章。この紋所が目に入らぬか控

えおろう、ってな。あの徳川の家紋だ。きっと藤島の御両親もその将軍

家徳川の名誉にあやかってつけたに違いないぞ。頼もしいじゃない

か!!」

 「……。」

 葵ちゃんは眉をひそめたけげんな表情のまま、しばらく固まっていた。

すっかり調子づいた先生を、怒りさえ忘れた様子で呆然と見送る。

 「…だから、歴史を知るってことはやっぱり意義があるってことなん

だ! おまえら、ちゃんと時代を勉強しろよ! わかったか、藤島!」

 「え?」

 いつのまにか先生の話は大きく核心をそれていた。そして結局、先生

は歴史学の意義を結論づけて講義を締めくくった後、満足げに立ち去っ

てしまったのだった。しかも最後の最後で、今まで置いてきぼりにして

いたくせに、葵ちゃんの肩を豪快に叩いていき、おかげで葵ちゃんはじ

め全員困惑状態だ。先ほどまで外へ出るの出ないので荒れていたはずの

場が、他でもない先生によってうやむやになったのだから…、ま、平和

解決と言えば言えるのかしら?

 「何だったんだろうな?」

 その場にいたみんなは、迷った末、やがてそれぞれ自分の席へと散っ

ていった。実はケンカ騒動などなかったとでもいうように平穏な空気が

流れている。それは当人の葵ちゃんがすっかり脱力しているせいでも

あっただろう。

 「…葵?」

 椅子に戻って座り込み、すっかり精彩を欠いた葵ちゃんを、樹と参く

んが窺うように見つめていた。前列の冷静な彼もわずかにこちらへ身を

傾ける。

 「だ、大丈夫か?」

 「大丈夫なわけねーだろ…!」

 突然語気を強めた危険物に、樹も私も周囲(前列の彼以外)は思わず

びくっと身を震わせた。やっぱり問題は滞ったままだ…と誰もが感じた

時。

 「あれだけ恥さらして…もう開き直る以外どうしようもねーじゃねー

か。」

 葵ちゃんの言葉は次第に勢いを失って、後の声はほとんどつぶやきの

ようだった。しかし、ほんのわずかだけど葵ちゃんの口元に苦笑いがも

れるのを私は見逃さなかった。説得の中身はともかくとしても、先生の

自信たっぷりの明るさに根負けしたと言った方が近いかも知れない。

 樹はやっと安心したように葵ちゃんの隣の席に腰かけた。そばにいた

参くんも葵ちゃんが落ち着いたことがわかると、微笑み席へ戻っていく。

 「ったく、ホントにびっくりするからさぁ。いきなりキレんのやめて

くれよな。」

 「…悪かったよ。」

 気まずそうに肩をすくめる葵ちゃん。

 確かに彼の件では毎回ひやっとさせられっぱなしだわ。

 「あっ、そうだ! おい!」

 突然、樹が前へ身を乗り出した。まっすぐ向いた視線の先には前列の

あの彼の背中があった。すでに姿勢を正し、マイペースを貫いている。

樹に肩を叩かれて、ようやく彼はこちらを向いた。無表情の細い瞳が、

私の視界にも映って思わず過去の赤面シーンがよみがえる。

 「さっきはありがとな。間に入ってくれて。」

 「いや。結果的に恥の上塗りになったようだし。」

 彼は少し間を置いてから、低音の静かな声で言った。樹ではなく葵

ちゃんの方を見ている。一瞬葵ちゃんの目に鋭い光が走ったような気が

して、私は再び不安に襲われたが、幸い彼は冷静だった。

 「あれは、おまえのせいじゃねーよ。」

 「そう言ってもらえると助かるな。」

 口調は淡々としているけれど、妙にトゲっぽく聞こえないのが不思議

だわ。葵ちゃんが静かに笑うと、彼の方もそれに応えた。やはりほとん

ど表情を変えないけれど、今度は皮肉のない穏やかな笑みだ。彼は少し

の間葵ちゃんと樹を交互に見ながら、不意に隣にいた私の方にも目を

遣った。とてもさりげなくて、でもすべてを見透かすような鋭い視線。

 つい緊張が走る私たち3人をよそに、やがて彼は無言で背を向けかけ

ると、思い出したようにこちらを見て、突然こう告げたのだった。

 「言ってなかったな。…津壁博展だ。」

 前方のスピーカーからマイクの音が高く響いた。樹が「あっ」と短く

叫んで、もう一度彼を呼ぼうとした声は、館内全体で揺れた座席の振動

でかき消された。

 私たちは心の奥底に渦巻く焦りのせいか何となく落ち着かない気持ち

で、少し遅れて起立した。私たちにとって要注意なのは、まぎれもなく

この目の前の沈着冷静な同級生だった。彼は私たちの秘密に一番近づい

ている人……。

 高校生活、最初の記念であるべき入学式。

 おそらく式の間中、たった一人の人間に意識を奪われる羽目になった

のは私だけではなかったかも知れない。

 (何だか厳粛も何もなかったわ…。)

 あれほど張り切っていた入学式なのに、度重なる精神的打撃のせいで

集中力も散漫のうちに終わってしまった気がする。高校生活第一歩から

大きくつまずいて、これから3年間、私の青春のアルバムの中身は一体

どうなることだろう。もちろん葵ちゃんたち3人がすべての悩みの元凶

であることには違いない。しかし…。私はあわてて軽く頭を振った。

 そう、これは最初で最大の危機なのだ。

 私は居間でソファーにもたれ、最初のホームルームでもらったクラス

名簿をぼんやりと見つめていた。今でも耳に響く低いトーンが目の前に

ある文字に重なり、憂鬱のため息は止まらない。

 「おまえ、運悪いよな。絶対に目つけられたぜ。」

 「…ホント、シャレになんねーよ。」

 夕飯の買い物から戻ったらしい、樹と葵ちゃんの声が近づいてきた。

樹の楽しげな笑い声が廊下に響いている。…人の気も知らないで。

 話の内容はわかった。入学式の後、新しいクラスに移動してのオリエ

ンテーションの際、颯爽とやってきた担任の先生が、何とあの時の男の

先生だったのだ。葵ちゃんさえ圧倒した歴史の講義からも察する通りの

熱血漢で、黒板に書いた自己紹介の文字も力強くたくましかった。

 「高須亮平」それが先生の名前だった。

 とにかく、おかげで前列の彼には「徳川の印籠には歴史マニアを引き

寄せる力があるらしい」なんて皮肉まで言われて、さすがの葵ちゃんも

頭を抱えたのだ…。

 私は思い出しながらため息をついた。やはり意識は心配事の方に回帰

してしまう。

 「オレたちのこと、クラス中に広まったらどうしような。」

 いつの間にか二人の話題も、私の思いに重なるように移行していた。

どうやら不安な気持ちは同じらしく、彼らはそろって台所から私のいる

居間へ入ってきた。

 「参のヤツ、まだ帰ってきてねーのか?」

 葵ちゃんが露骨に不愉快を顔に出してつぶやく。

 「あいつの周り、女の子達がいっぱい集まってたもんな。」

 「…どういうつもりだ、こんなやばい時によ。」

 何となく予想はしていたけれど、やはりあのルックスのいい外国人留

学生は、女生徒たちの関心を一挙に集めてしまったようだ。入学式が終

わった瞬間から参くんの周囲には常に女の子が集まり、本人も快く応対

しているからあきれて言葉も出ない。興味ない少数派を装って早々に

帰ってきたけれど(ホントはあの変態、怒鳴り散らしてやりたかった

わ。)あの様子だとしばらく帰ってこないかも知れない。参くんだって

彼の存在には気付いているはずなのに、どうしてあんなに暢気にしてい

られるのかしら?

 何となく間を持て余し、樹と葵ちゃんはそれぞれテーブルを囲んで

座った。

 「こっちがどう出るか試してんだ、あの津壁って野郎。」

 津壁博展(つかべひろのぶ)。葵ちゃんがいらだちを含んで彼の名を口

にした。

 「忘れてるなんてことは絶対にないよなぁ。」

 彼と私たち4人がサイクリングロードで会った時のことだ。しかし彼、

津壁くんは教室に入ってからも私たちには背を向けたままで、その話題

に触れてくる気配は一切なかった。だからこそ逆に彼の真意がわからず、

私たちの緊張の糸は張り詰めるばかり。

 「そんなツラだったかよ。人を小馬鹿にしたような目で見やがっ

て。」

 「そう短気になるなって…。」

 普段脳天気な樹までが警戒心から声をひそめている。最初に彼に声を

かけたのは樹だった。しかし肝心な話をしようとしたところで式の開会

宣言に阻まれ、それから何となく話を持ち出しにくくなってしまったの

だ。

 「悪いヤツじゃないと思うんだよ。オレたちが勘ぐりすぎてるだけか

も知れないしさ?」

 樹は何気なく私にも目を遣った。

 確かにね、そうは思いたいけど。

 私のため息を受けて、葵ちゃんの答えもどこか否定的だった。

 「幼なじみとか、そんなモンに見えるか? オレたちが。」

 「そう見えてもおかしくないんじゃないかな。」

 「…おまえ、バカか。」

 率直な苦言が冷たい眼差しともに樹をねじ伏せる。目をぱちくりする

樹に、葵ちゃんのため息はより深くなった。

 「それじゃ今朝の態度こそ不自然じゃねーか。親しいはずの幼なじみ

が何で人前で赤の他人装う必要があるんだよ。」

 「オレはそんな意識なかったけど。」

 あのねぇ、あんたはこれだから困るのよ。葵ちゃんも落胆の気持ちを

懸命に立て直して、樹を真正面から捉える。

 「それに、おまえ、オレのこと勝手に『ダチ』だって触れ回ってたよ

な。」

 「そーじゃん。『勝手に』ってひでーなぁ。」

 「…そんな話してんじゃねーよ。『中学とか違うけど』って言っただ

ろ。そんな接点のない幼なじみいるか、普通?」

 樹はやっと自分の掘った墓穴に気付き、納得したようだ。

 「あ、そうか。」

 「今さら実家なんか帰りたくないぜ、オレ…。」

 お互い言葉を失って、長い沈黙が流れる。しかし、やはり気が気でな

い思いのせいか、3人とも妙にそわそわして落ち着かない。不意に葵

ちゃんがテレビの上の時計を見て立ち上がった時、ようやく玄関のドア

が開く音がした。参くんが帰ってきたのだ。「ただいま」という声とと

もに品の良い微笑み顔を覗かせる。私たち3人は、まったく同時にため

息をついた。

 「幸せな野郎だな、ったく…。」

 参くんは一度お手洗いに寄ってから、至ってマイペースな足取りで居

間へ入ってくると、妙に弾んだ声色で、

 「色々お話し聞いてきたよ。」

と言った。さすがに私たちも一瞬は彼に気を引かれたが、すぐに興ざめ

し自分の仕事に戻る。参くんはわずかに動揺の色を見せた。

 「…聞かないの?」

 「話があるならさっさと言えよ。オレ、飯の準備があるんだ。おまえ

と違って暇じゃねーんだからな。」

 参くんへの異議は確かにあるけど、私としては葵ちゃんの偉そうな態

度も引っ掛かる。それを言うなら、その『飯の準備』をしょっちゅう放

棄するあんたに代わって仕上げてる私はなおのこと大忙しよ。

 参くんは葵ちゃんに水を差されて肩をすくめる。

 「ほら、彼のこと…津壁くんでしょ?」

 その途端、私たちは気のない態度を一変させた。

 「それとなく女の子たちに聞いてみたんだ。何も知らないよりはいい

かと思って…。」

 「早く言えよ。いいから話せ!」

 ことのほか上機嫌で話を焦らす参くんに、本心では津壁くんにかなり

の敵対心を持っているらしい葵ちゃんの視線が鋭く彼を圧倒する。参く

んは小さく息をついた。

 「津壁博展くん。彼の家、あの公園からそう遠くないみたい。たまた

ま小学校が一緒だった子がいたんでわかったんだけど。」

 「まぁ、名簿に住所が緑ヶ丘だって載ってるから、それはわかるんだ

けど…。」

 それにあの時私が彼に追突して落とした袋は、近所の書店のものだっ

たし。

 「彼、小学校を卒業してから、プレップ…あ。」

 参くんは言葉を止め、あわてて言い直す。

 「えっと、私立学校へ進んだんだって。メイリって言ってたかな?」

 「明里!?」

 私と葵ちゃんの声が思わずハモった。

 私立明里学園。驚いたのは当たり前で、私立校では県内ナンバーワン

の進学、就職率を誇り、中学とはいえ入試をパスするのは至難の業だと

言われる名門なのだ。正しくは「あきさと」と読むのだけど、私たち雲

の下の人間は尊敬の意をこめて「メイリ」と呼んでいる。こちらへ来て

間もない樹と参くんは、私たちの説明を聞いて改めて感心の息を漏らし

た。

 「明里を卒業(で)てるヤツが、どうして千尋に来てんだよ。」

 参くんの話によると、どうも津壁くんはすごくレベルの高い環境にあ

る人らしい。明里の件もそうだけど、そのうえ彼は電機会社の社長息子

だというのだから二重の驚きだ。小学校の頃からすでに落ち着きのある

優等生だったという。

 「僕たちのこと、見て見ぬ振りしてくれてるんじゃないのかな? 案

外いい人かも知れないよ。」

 「おまえもそう思う?オレも! そうでなきゃケンカの仲裁になんか

入ってくれないよ!」

 「冗談だろ、明里のエリートなんて信用できるかよ。」

 参くんと樹が合意する中、それを真っ向から否定したのは葵ちゃん

だった。

 「あいつの目は絶対何か企んでる。オレたちのことがバレるかも知れ

ない時にそんな悠長なこと言ってられねーだろ!?」

 葵ちゃんに厳しく睨まれて、二人がわずかにひるむ。それでも意見は

二対一だ。沈黙の後、彼らはゆっくりと私の方を見た。その目が「これ

からの行動を決定するのはおまえだ」と訴えているのは明らかだった。

すでに崖っぷちに立っているような気がする。体育館で私を見た、あの

時の彼の瞳…。私はもう一度それらを思い起こしながら、激しい葛藤の

末、ついに諦めの結論を出した。

 「…もう一度、津壁くんと話をしてみるわ。」

 二日目。

 初日から一転、気も足も重く私は3階の自分の教室に入った。

 「おはよう。」

 昨日親しくなったクラスメイトの女の子たちと挨拶を交わしながら、

私は心の焦りを隠せず、何となく教室内の様子を窺った。まだみんな緊

張しているからか多少静けさがある。今日も参くんが女生徒に囲まれて

にぎやかに語り合っているくらい…。

 …それはどうでもいいわ。

 自分の席につこうとして、葵ちゃんと目が合った。私の席は男子に両

側から挟まれる形で並んだ列の最後尾で、彼と樹の席は何の陰謀だか、

ちゃっかり私の真横に前後並んで陣取っている。葵ちゃんは話しかけて

はこなかったけれど、その表情はあからさまに呆れ顔だった。思いきり

ガラの悪さを誇示するように脚を組んで座った姿勢のまま、私から視線

を外すと、前方の標的を静かににらみつけている。

 …この筋金入りの不良は、やっぱり間違いなく我が家の同居人なのよ

ね。

 問題の彼は、葵ちゃんのすぐ前の席に悠々と腰かけていた。入学式の

時の並びを思い出せば容易に予想できたので驚きはしなかったけれど、

彼の方もまた私たちのことなど無関心で、意味ありげに振り向いたりす

る素振りさえ見せなかった。今日もその態度は変わっていないようだ。

 私は彼に声をかけるのをためらっていた。泣き顔を見られた弱みも然

り、何より彼の机の周りには数人の男子生徒が取り囲んでいて、参くん

とは別の意味でカリスマの気配を漂わせている。その理由は、どうやら

彼の机の上のものにあるらしかった。

 「おまえ、いつもそんなん持ち歩いてんの?」

 「ゲームないの、ゲーム?」

 男子生徒たちの声は好奇心に満ちている。確かに衝撃的光景だった。

彼、津壁博展は堂々と教室に小型のパソコンを持ちこんでいたのだ。彼

が電機会社の社長息子という情報を事前に得ていなかったら、私はこの

末恐ろしい強敵に立ち向かう力を完全に失ってしまっていたかもしれな

い。彼は周囲の質問の嵐に、至って冷静に答えている。

 「パズルやシミュレーションなら、作った事はある。」

 「へぇーっ、すげーっ!!」

 ……!?

 突然聞き覚えのある声が耳に飛びこんできて、私は愕然とした。ずっ

と姿が見えないと思っていた、葵ちゃんの真後ろの空席の主が、信じら

れないことに、その男子生徒たちの陰からひょこっと姿を現したのであ

る。

 「…何やってんのよ!」

 私の全身が、声にならない声で震えた。実際声に出すわけにいかな

かったので好都合だったとも言えるけど、それにしてもあの無神経は何

とかならないのっっ!

 いわば私たちの名誉にも関わる大問題に直面しているにも関わらず、

天下のお調子者、牧原樹は自分の興味本位で実に軽々しく敵地に取り

入っているのだ。今すぐにでも飛んでいって引きずり出したいという衝

動を必死にこらえる私の目の前で、樹は彼への友好的態度をまざまざと

見せつけ、逆なでする。

 葵ちゃんがとうとう堪忍袋の緒が切れたとばかりに重い腰を上げた。

その彼の冷酷な瞳を見て、私の興奮は一瞬忘れるように消えてしまった。

思わず鳥肌が立つほどだった。葵ちゃんは机に手につきながら、狭い道

を前に向かい進んでいく。

 たった一つ前の席を通過するまで、どれほど時間がかかって感じられ

ただろうか。彼が男子生徒たちの陰に隠れて消えた瞬間、先ほどまで御

機嫌だった樹の表情が変わった。

 「いてっ!!」

 前かがみだった姿勢をさらに倒して、その原因を探す樹。そして振り

返りもせずに通り過ぎる葵ちゃんに気付くと、表情を強張らせた。

 「何すんだよ、葵!」

 「…ッるせーな、ちょっと当たっただけだろうが!」

 教室内がしんとなった。葵ちゃんの迫力は皆が昨日十分に味わってい

る。彼はクラスきっての問題児というレッテルを自ら全員に植えつけた

のだ。樹も対抗することなく、葵ちゃんが教室を出ていくのを見送るだ

けだった。彼がいなくなって再びざわめきが始まる。聞こえてくるのは

彼の噂ばかりだ。

 「あいつ、ホントにヤンキーだな。」

 「蹴られたんだろ、牧原。大丈夫?」

 「あいつとつるむのマジでやめた方がいいよ。やべぇんじゃねー

の?」

 痛そうに足元をさする樹に、周囲の同級生が心配して声をかける。樹

は笑ってその場は答えながらも、ふと怒りと疑問が混ざったような複雑

な表情で、葵ちゃんの出ていった廊下の方を眺め見ていた。

 「おまえも、前の席なんだから気をつけろよ。」

 一人の男子生徒が津壁くんにも声を掛けて忠告した。近くにいた一人

も賛同する。

 「パソコンとか持ってきてさ、目立って絡まれたら面倒だぜ。」

 彼はじっと黙って考えていた。私は、ここで彼が葵ちゃんへの関わり

を恐れて、過去の一件を胸の奥へ消してくれればと願ったりもしたが、

一方でなぜか感じる心の抵抗も隠せなかった。どうするだろうと見守っ

ていると、やがて彼は平然とこう返したのだった。

 「そう言うほどのヤツでもないと思うんだが…。」

 津壁くん、一体何の根拠であんなことを言ったのかしら?

 問い正すタイミングなどあるはずもなく、考えていても疑問ばかりが

膨らむだけなので、とりあえずは目の前のLTに集中することにした。

今日は、来週行われる校外合宿に向けてのオリエンテーションだった。

この合宿は集団生活におけるルールを学び、新しい仲間、先生方たちと

の協調を育むことが主な目的となっている。入学したばかりなのでハイ

キングなどのグループは担任の高須先生の独断によって名簿から振り分

けられた。その結果、津壁くんが私と同じ班になってしまったのは少々

問題だけれど、他の問題児たちとは何とかバラバラになり、私としては

この編成が吉と出ることを切に願っている。なぜなら我が一学年の最初

の二泊三日が無事に過ぎるかどうか、それはすべて彼らの言動一つにか

かっていると言っても過言ではないからだ。現に、葵ちゃんと班を同じ

くした人たちは今から顔色を変えているし(そこは同じ班の参くんがた

ぶんフォローしてくれるはず)、樹との「一蓮托生」班は必要以上のハ

イテンションぶりに戸惑いの表情を隠せないでいる。

 …とにかくあんたたちは、せめてそこでおとなしくしていてちょうだ

い。

 午前のオリエンテーションの後、昼休みになると私は教室で友達に

なった女の子たちと席を隣り合わせた。みんなそれぞれパンを買ってき

たり、お弁当を持ってきたりして昼食を食べている。中学生の時は給食

があったけれど、これからは自分で食事を用意しなくてはならない。私

は自分でお弁当を作るけれど、まさか4人分を仕度する羽目になるとは

思わなかった。実は朝食時のどさくさに紛れて、彼らに強制的に作らさ

れてしまったのだ。少しくらい協力してくれてもよさそうなものなのに

揃って勝手なんだから。特に葵ちゃんは調理係のくせに職務怠慢もいい

ところだ。そうかと言って私までが放棄すれば、彼らが栄養バランスも

いいかげんな食生活を始めるのは目に見えている。

 結局、これが弱みにつけこまれる私の敗因なのよね…。

 私はこっそりと、隣にいる樹と葵ちゃんを睨みつけてやった。二人は

それぞれ自分の机で弁当を広げている。実際は一人で教室を出ていこう

としていた葵ちゃんを樹が引き止めたのだ。

 「あれほどキレるなって言ったじゃないかよ。」

 目の前の友達と話をしながらも、彼らの会話は自然と耳に入ってくる。

 「オレは冷静だ。おまえよりな。」

 口数は少ないものの、苛立ちは一応収まっている様子だ。

 「だって…いいだろ?クラスメイトなんだからさ。それにパソコン面

白そうだったし。」

 私の視界にふと黒い影が差した。何気なく目線を向けると、樹が顔を

上げて影の主を見つめていた。

 「ここは特等席だな。」

 津壁くんだった。私はかろうじて直視をこらえ、聴覚だけを隣へ集中

する。

 「? 何で?」

 「静かで快適そうだ。」

 わかるようなわからないような微妙な答えだ。確かに言われてみれば

私たち以外、見事に二人の周りを避けるように誰もいなかったのだから。

津壁くんはすぐに立ち去ろうとしたが、樹に突然思い出したように呼び

止められると、足を止めた。

 「なあ、おまえ、明里ってトコ、卒業(で)てるんだって?」

 表情を見ていない分、私はだいぶ口調からわずかな感情の動きを読み

取ることに慣れ始めていた。この直後の津壁くんの返事に顕れたのは、

明らかな焦りだった。

 「どうして、それを…。」

 樹は素直だけど、逆にそれが出過ぎて人の気持ちに鈍感な行動を起こ

しがちだ。私の実体験からも何となくそれを心配していたのだが案の定、

彼は悪気なく笑顔で話し続ける。

 「すげー有名な学校らしいね。オレ、おまえに宿題助けてもらおうか

な。」

 「そう言って真っ白で持ってくるんじゃないだろうな。」 

 私の思い過ごしだったのだろうか。すでに津壁くんは平静を取り戻し

ていた。樹の言葉に冗談交じりの台詞で返した後、彼の気配が背後を移

動していく。私たちは廊下をそっと覗いて、重そうなパソコンを抱えて

歩く彼の背中を見送った。

 何とか一日が過ぎ、私たちは最後の大仕事を迎えるため、計画を開始

した。葵ちゃん、樹、参くんがそれぞれ教室を出ていく。みんなが帰っ

ていくのを見計らって、私はついに決心すると、慎重にパソコンを片付

けている彼に近づいた。

 「ちょっと用があるんだけど、時間空いてるかしら?」

 緊張したけれど何とかそれだけ言いきった。津壁くんは細い鋭い瞳で

私を見つめた後、ふぅと軽く息をついて頷いた。

 津壁くんはただ黙々と私の後についてきている。とても無表情で、私

との間も一定距離を保っているから一緒に学校を出ても周囲にまったく

怪しまれない。見知っている道でもあるせいか彼は終始無言だった。…

まるですべて見透かされているようで不気味だわ。

 私が案内したのは、彼と初めて出会った緑地公園のサイクリングロー

ドだった。舗装された道を外れ人気のない湖の方まで降りていくと、打

ち合わせ通り、葵ちゃん、樹、参くんの3人が揃って私と津壁くんを迎

えていた。

 「いやに深刻だな。」

 津壁くんは茶化すように一人ごち、重そうなかばんを持ち直した。余

裕の表情をまるで崩さないのが私たちにとっては脅威だ。

 「話したいことがあるのよ…。」

 私は率直に本題へ入った。4人にいっそうの緊張が高まる。そしてこ

の時、はじめて不敵な彼の表情にわずかながら困惑の色が浮かんだ。

きっと今までとぼけていた分、どう受け応えてよいか決めあぐねている

のだ。しかし、すぐに吹っ切ったように息をついて「ああ」と言った。

 「聞かせてもらえるのか? オレも興味がなかったわけじゃないから

な。」

 「興味ってな…こっちはふざけてんじゃねーんだぞ!」

 「葵っ!」

 いきり立つ葵ちゃんを、樹と参くんがなだめる。落ち着いたのを見計

らって、私はゆっくりと話し始めた。

 「あの時のこと、覚えてるでしょ?」

 「ずいぶん遠回しだな。」

 津壁くんは笑った。

 「あんな広い道でいきなりタックル食らったんだ。忘れないな。」

 毒々しい言葉がストレートに私の胸に突き刺さる。な、なんて容赦の

ない人なのっ!

 「すると、そんな彼女を追いかけてきた3人の男っていうのは、なお

のこと印象的だったに違いないね。」

 絶句する私に代わって話を続けてくれたのは参くんだった。冷静さな

らきっと引けを取らないはずだ。流暢な日本語で気品を保ちながらも、

ゆっくりと津壁くんの心に詰め寄る。

 「おまえらな…。」

 彼から微笑が消えた。口調からもうんざりした様子が窺える。

 「犯罪でもやってるのか。オレを湖に沈めるつもりとかで無ければ、

はっきり言ってもらいたいんだが。」

 「そんな…!!」

 恐ろしいことをよくもずけずけと…。しかもあの冷めきった細い瞳を

まともに向けられて、私たちはすっかりたじろいでしまった。不良と恐

れられる葵ちゃんでさえ気迫負けしている状態で、とても彼には太刀打

ちできそうもない。そしてその時、大波乱は起こった。

 「おまえ達、一緒に住んでるのか。」

 彼は、私たちが驚く間もなく、あっさりと言った。

 「おまえ…っ!」

 「何で!?」

 津壁くんは再びかばんを持ち直し、帰る準備さえ始めている。

 「どうして、知ってるの…?!」

 「なんだ、そうなのか。」

 「……!」

 はじめて納得したように息を吐く。からかうような言い草に、葵ちゃ

んが抵抗する気力を取り戻した。

 「おまえ、嵌めたな!?」

 「そう言ってるようなものだったぞ。」

 彼は親指で、私たちのかばんを軽く指し示しながら笑った。

 「バレて困るなら、もう少し弁当の中身を考えた方が良い。」

 私たちは呆然と立ち尽くしていた。

 お弁当…。まさかこんなところを見られていたなんて。

 「りの! おまえの怠慢じゃねーか!」

 「勝手なこと言わないでよっ! あんたが自分の仕事しないからいけ

ないんでしょっ!!」

 「ちょっと、おまえらなぁ…!」

 どうせ知られてしまったのだし、私も半ばヤケになっている。内輪話

丸だしで責任押しつけ合いのケンカを繰り広げる今の私に肝心なことを

考える余裕はなかった。

 「あ、ちょっと待って!」

 津壁くんがいつの間にか背を向け歩き出していたことに、いち早く気

付いた参くんがあわてて彼を呼び止めた。

 「お願いがあるんだ。ぼくたちが同居していること、内緒にしておい

てもらえるかな?」

 そうだった。もともとバレることは覚悟していたのだから、本当の目

的は彼にこの事実を口外しない約束をしてもらうためなのだ。私たちは

これからの運命を託す思いで彼を見つめる。津壁くんは一瞬ア然として、

すぐにあきれたように笑った。

 「安心しろ。オレは得にならないことは頼まれてもしない主義だ。」

 「まだ何かあるか」と言わんばかりに私たちの顔を見回す。彼が無口

だということは一緒に歩いてきて十分よくわかったけれど…。ここで彼

の言葉に不信を示したのは葵ちゃんだ。

 「…言いふらすのが有益、なんてことにならない保証はあんのか?」

 「なるほど。確かに説得力はない、か。」

 津壁くんの冴えた瞳がはっきりと葵ちゃんを認める。しかしその後、

彼は葛藤の表情になっていた。やがて目を伏せ仕方なさそうにため息を

つくと、樹を見る。

 「おまえ、昼休みの時、明里の話持ち出しただろう。」

 「え、そうだっけ?」

 「覚えてないのか。オレがどれだけ焦ったと思ってるんだ。」

 葵ちゃんに肘で突かれて、樹はやっと自分で声をかけたことを思い出

す。あの時は冗談で済ませていたけれど、やっぱり動揺してたのね。少

し間があった。彼はもう一度深い息をついた。

 「あの高等部の試験は悪夢だった。」

 不意の一言で、私たちは言い表せない衝撃を受けた。津壁くんはあく

まで穏やかな口調を崩さないが、抑揚のない一言一言がその重みを訴え

ている。

 「千尋は二次を受けて通ったんだ。家から近いし、この重い機械を持

ち歩くのも前よりずっと楽になった。そう思って吹っ切ったつもりでは

いるが、それでも人に知られるのは結構痛い。」

 「津壁くん…。」

 言葉など出なかった。突然彼に胸の内を明かされて、私たちは完全に

困惑していたのだ。

 「そういうわけだから、もしオレが万一おまえたちのことを他のヤツ

に話した時は、おまえたちも今のを人に話せばいい。」

 「…えっ?」

 急に口ぶりが一変し、私たちはその平静強気の顔を前に呆然となった。

彼は今まで以上に鋭く威圧的な瞳で私たちを真正面から見据える。

 「これでリスクは対等だ。」

 こうして私たちは、足早にもとの道を帰っていく彼を、ただ言葉もな

く見送った。

 彼と私たちとの固い約束は結ばれたのである。

 翌日、私はやはり津壁くんが気になっていた。彼は、私たちの秘密を

絶対に口外はしないと暗に約束してくれた。ただ、その代償の大きさに

私は胸を痛めていた。確かにあの時の堂々とした不敵の態度にはあきれ

たけれど、それでも彼の心を傷つけてしまった自責の念はどうしても消

えなかったのだ。どうもそれは葵ちゃんたちも同じだったようで、気の

ないふりをしながらもどこか表情に曇りが見え隠れしていた。

 そして今日の帰り、もう一度彼と話をしようと決めた矢先、私は高須

先生に呼ばれたのだった。我がクラスの熱血担任高須先生は、解散と同

時にさりげなくこちらへ向かってきた。

 「結城。」

 近くにいた友達だけでなく、樹と葵ちゃんも立ち話をやめて視線を移

す。そんな彼らにもわずかに目を遣りながら、先生は後ろの開いたドア

から顔だけ覗かせる格好で私に話しかける。

 「ちょっと職員室に寄ってくれるか。」

 話の内容は決まっているので驚くこともない。こちらも私にとっては

大事な用件だ。しかし先ほどの決心もあって、私は少しためらった

 「おまえ、何かやったのか?」

 わかってるくせに葵ちゃんがいたずらな笑みを向ける。が、すぐに彼

の目が「任せろ」と言っているのに気がついて、私は先生との面談を承

諾した。

 …でも、葵ちゃん、傍からだとホントに感じ悪く見えるわよ。

 樹たちが津壁くんに声をかけるのを見届けて、私はすぐに職員室へ向

かった。高須先生は場所を変えるからと私を別の一室へと案内した。プ

レートには「生徒指導室」と書かれてあった。葵ちゃんならともかく、

真っ先に私が生徒指導室に連れてこられるなんて皮肉な話よね。

 「そう心配そうな顔するな。責めるわけじゃないんだ。」

 私の暗い表情の意味を勘違いされたみたいだ。向かい合って座ると、

高須先生はそう言って明るく笑った。

 「話は、おまえたちの同居のことだ。わかってるとは思うが、一人ず

つ呼んだ方が指導上いいと思ってな。」

 「お心遣いを、どうも…。」

 高須先生は机の上に4通の調査票を広げて置いて、それらを何度も熟

読している。

 「しかし、結城と藤島と牧原、面白いぐらいに席が並んだな。あれは

予想してなかった。」

 「面白くなんかありません。」

 「うん、まぁ、そうだな。…あいつらはどうだ、その、ちゃんとして

いるのか?」

 つい無意識に口調が険しくなってしまった。高須先生も私の思いを察

したか態度を改めて、本題に入る。

 「もちろん親御さんの了承があってのことだし、あいつらも考えてく

れてると信じているんだが、念のためにな。」

 私ははっきり答えるべきか迷った。ここで彼らの今までの言動を訴え

れば、男3人との同居生活なんて非日常から解放されるだろう。しか

し…。

 「…何とか、平和にやってます。」

 正反対のことを言ってしまった。…これはお母さんたちの名誉を考え

てのことよ。

 高須先生は私の目をじっと見ていたが、ふと力を抜き、一つ息をつい

た。

 「とにかくな、学校側の心配は変わらんのだ。節操を守って頼むぞ。

それと何か問題が起こったら必ず相談するようにな。」

 「わかってます。」

 彼ら自身が全員もれなく問題児です。私はこの言葉を飲みこんだ。高

須先生はそんなことなど当然気付く様子もなく、独り言のように話し始

める。

 「どうもオレのクラスには毎年変わったヤツが集まるんだ。お笑い志

望で自習になるたび勝手にコント始めるヤツもいたな。おまえたちの3

年上で今はもう卒業して普通の会社員やってる。それから女子で占星術

マニアのヤツとかな。よく当たるって評判だった。あいつ、どうしてる

んだろうなぁ。」

 「はぁ…。」

 先生は最終的にこの話をどこへ持っていくつもりなのかしら…。私は

半ば放心して、ひたすら相づちを繰り返していた。そして案の定、高須

先生の輝いた目はまっすぐに私を向いた。

 「今年はおまえたち4人だろ。あぁ、あいつ! 津壁も、あれは特殊

だな。」

 「え? 津壁…くん?」

 意外なところで津壁くんの名前が出てきて、私は一気に目が覚めたよ

うに身を乗り出す。

 「式の前に藤島と向井の喧嘩を収めたヤツだ。覚えてるだろう?」

 「ええ、まぁ。」

 入学式の直前、私たちの後ろの席に居て、葵ちゃんの名前を不用意に

笑ってしまったばかりに不運な目に遭ったのは「向井」という男子生徒

だった。葵ちゃんの一方的脅迫だった、あの騒ぎを喧嘩と呼ぶのは向井

くんの名誉を傷つける気がして私は抵抗があるのだけれど、とにかく確

かにあの時は津壁くんに救われたと言えるだろう。

 「やたら馬鹿でかいバッグを抱えて来てただろ。何を持ちこんでるか

と思えば…。」

 いつも机に広げているパソコンのことだ。高須先生は困惑というか複

雑な表情を浮かべて、しばらく考えこんだ後でこう言った。

 「本来は没収なんだが、口達者で授業ノートだと言って譲らない。」

 やっぱり職員室でも問題になっているのね…。教師にも動じず、言い

包める津壁くんの姿が目に浮かぶ。

 「俺は頭ごなしに禁止するのももったいないような気もしていてな。

アレに関しては津壁はかなりの専門知識を持ってるだろう。他のヤツら

が興味持って集まってたな。突出した才能のあるヤツと一緒に過ごせ

るってのは幸運なんだ。視野が広がる機会になる。」

 話を聞きながら、私は何となく高須先生を好きになった。初日の門番

の印象が深いせいもあると思うけれど、生徒に対して柔軟な考えで見

守ってくれる、その姿勢が嬉しかったのだ。もちろん時には厳しい面も

あるけれど、今の自分が置かれている立場を考えても、私は高須先生が

担任でよかったと心から感じた。ただ津壁くんとの出会いは、私たちに

とっては幸運なのかしらねぇ? …疑わしいわ。

 「さて、他の3人は多分さっさと帰っちまってるな。明日は…久遠寺

だな。悪いが声をかけておいてくれるか。」

 面談が終わると、先生は笑顔でそう言った。

 参くんはいつでも女の子たちと楽しい談話中だ。最近は別のクラスに

まで足を延ばして、どこへ行ってるんだかわかりゃしない。声をかけ

たって、その時に覚えているか疑わしいものだ。

 「一応、言いますけど…彼なら、放送で呼んだ方が確実だと思いま

す。」

 私はきっぱりと答えていた。

 教室にいないのを確認して外へ出ると、何と突然校舎の影から突然怒

鳴り声が聞こえてきて、びっくりしてしまった。私には悲しくも声の主

がはっきりとわかり、憔悴しきった足取りで駆けつける。

 「おまえ、その態度、何とかならねーのかっ!?」

 そこには「任せろ」と言った(と思っていた)葵ちゃんがすっかり頭

に血を昇らせて、平静そのものの津壁くんに対し一方的にまくしたてて

いる真っ最中だった。樹と参くんは止めようとするどころか、後ろであ

きれ顔の傍観者に徹している。

 やっぱりあいつらを頼りにするんじゃなかった…。

 「あ、りのちゃん。」

 「何やってるのよ! 不良が絡んでるようにしか見えないわよっ!」

 参くんのマイペースな声に、腹立たしささえ弱まる。葵ちゃんは私を

見てそっぽを向くと、さっさと歩き出してしまった。

 「とにかく、ここを出ましょ。」

 仕方なく彼について学校を出る。津壁くんは完全に呆れ果てたあ様子

で、私と目が合うと、ほんのわずかに肩をすくめた。…まぁ、葵ちゃん

が怒る理由もわかる気はする。少なからず私たちは彼に対し引け目を感

じているわけだから、当の彼にこんなにしれっとあしらわれては、困惑

も通り越すだろう。

 結局、昨日と同じサイクリングロードまで足を運んでいた。私たちの

いつもの通学路でもある場所なのだが、ここの入り口まで来て津壁くん

は急に足を止めた。

 「オレは方向が違うんで。また後日だな。」

 一方的に告げて容赦なく背を向けてしまう。昨日はその毅然とした態

度に呑まれて、つい見送ってしまったけれど、今日はそうはならなかっ

た。

 「いいから、来い!」

 くすぶった炎が一気に燃え上がるように、葵ちゃんは攻撃心もあらわ

にして彼の肩を捕まえた。乱暴に身を返されて津壁くんは一瞬バランス

を崩したものの、すぐに建て直し目の前のライバルを厳しい瞳でとらえ

る。

 「人が気ぃ遣ってれば、調子にのりやがって!」

 「…何の話だ。」

 ようやく樹が止めに入り、葵ちゃんの手が津壁くんの襟元から外れる。

津壁くんはさすがに驚いたらしく鋭い目をぱちくりさせた。

 「おまえ、勘違いしてないか。あれは条件を同じにするために、あく

まで取引上、話をしたまでだ。同情してもらう必要はない。」

 「……!!」

 津壁くんの目はじっと葵ちゃんを見ていた。樹になだめられて少しず

つ熱が冷めてきている彼の姿を追いながら、ふとその口元に笑みがもれ

た。

 「千尋は悪くない。な、結城。」

 「え?」

 突然声をかけられて慌ててしまった。それでも彼は、私が気を落ち着

かせて頷くまで待ってくれた。

 「確かに途中の坂はきついし、あの校長の長い演説もうんざりだが、

坂は通学時間を考えれば大したリスクでもない。演説も寝てればいつか

は終わる。」

 「寝てれば…!?」

 意外な発言に全員が絶句した。彼はまったく気にせず、悪びれた目を

輝かせる。私たちの中で大きく彼のイメージがぐらついた。…エリート

で優等生だと思っていた葵ちゃんには特に衝撃だっただろう。

 「パソコンの持ち込みがお咎めなしだったのも驚いたが…。」

 そう言って、津壁くんは意味ありげに私たちを見て笑った。

 「『画面の文字が動いた』って無邪気にはしゃぐヤツを見たのは初め

てだ。」

 「え? そうなの?」

 樹が目をぱちくりする。

 「入学早々クラスの女子に片っ端から声かけてるヤツも明里にはいな

かったな。まして式の当日に暴力沙汰を起こすような面白いヤツは問題

外だ。」

 参くんと葵ちゃんが、お互い気まずそうに顔を見合わせる。

 「…極め付けは、そんなヤツらを3人もまとめて世話してる鋼の女子

だ。末恐ろしいよな千尋学園。退屈しなさそうだ。」

 「Iron lady…」

 参くんが大げさに吹き出す。私はつい参くんの方を思いきり睨みつけ

ていたが、すぐに相手違いに気付き津壁くんに視線を移す。妙に楽しそ

うな彼の表情には、どんな抵抗も肩すかしをくらいそうなほど、嫌みが

なかった。…不運が転じて福となる。彼を味方につけたのは、ひょっと

すると私たちにとって幸運なことなのかも知れない。

 結局、私たちはそう認めざるをえない完璧な敗北を喫したのだ。

 「帰ろうぜ。」

 安心とは違うと思うけれど、何だか心の重荷が取れて、どっと疲れが

出てしまった。すっかり脱力して歩く私たちを穏やかな太陽が照らして

いた。厳しい寒さの中、ほんの温もりを感じる光だ。私は今日のこんな

上天気に初めて気がついて、空を見上げた。

 「そうだ、忘れてたわ。葵ちゃん、服…。」

 「えっ、ああ…!」

 ボタンのほつれた樹の制服を交換してから、葵ちゃんにいつか直す約

束をしていたのだが、確かそのままだったはずだ。思い出して声をかけ

ると、葵ちゃんはなぜか一瞬狼狽した。妙だと思った私の疑問にまたし

てもタイミングよく解答を打ち出したのは、彼だった。

 「そういえば、葵。」

 津壁くんは後ろから葵ちゃんの横にぴったりつくと、その耳元に問い

かけるように言った。

 「式の後にあわてて上着のボタン引きちぎってたのは、何の意味が

あったんだ。」

 「津壁、おまえっっ!」

 小声でも澄んだ低音の声はよく通る。全員の視線を受けて露骨に取り

乱す葵ちゃん。私は思いきり目を細め、疑いたっぷりの視線で詰め寄る。

 「…引きちぎったってどういうことよ?」

 「そんなんじゃねーよ、こいつの見間違いだ!」

 しかし右手は無意識にしっかりと上着の真ん中辺りを押さえている。

どうやら葵ちゃんは嘘のつけない性格らしい。また一つ知ることができ

た。…わかりやすくて助かるわ。

 「何で取れてたボタンを『引きちぎれる』んだよ?」

 樹も、当たり前の論理に気付いたようだ。

 「そういえば、葵って料理以外でも結構いろんなこと知ってるよ

ねぇ。」

 「へぇ、おまえ、見かけによらず家庭派なのか。」

 ここで参くんが王手をかけると、津壁くんがとどめとばかりに皮肉る。

3人がかりの追求にとうとう葵ちゃんはその場を逃げだした。

 「何でもねーって言ってるだろ! いい加減にしろっっ!」

 しかし最後には往来の真ん中で樹と二人、大乱闘を繰り広げることに

なってしまった。そして楽しげに傍観する参くんと津壁くん。私はしば

らくそのしっかりと構築されてしまった図式を遠くから眺めていた。今

や胸の内は、関わり合いになる問題児が一人増えたというあきらめの境

地だ。こうなったら3人も4人も違いはないわ…。

 千尋学園高等部新一年生。来週は二泊三日のオリエンテーション合宿

だ。無事に済むといいけど…どうなっちゃうのかしら。

おわり