未熟の天使 〜その後〜

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生活 Life

 俺の名前は武由。ぼろいアパートで女と一緒に暮らしている。
 ちなみに女の名前はみぃと言う。ヘンな名前だが、本人がそう決めたんだから仕方ない。
 本当の名前はSTP-03βだったが、制式から外されてしまったので、みぃはみぃなのだ。

 みぃは、システムガイアの拠点防衛兵器として開発された人造人間だ。ホントだったら今頃、彼女は建設中のシステムガイアの警備活動で、その辺の空をブンブン飛んでいただろう。しかし、みぃは最終テストに合格できず、結果として廃棄処分にされてしまった。指導役だった俺があまりにも大馬鹿野郎だったので、彼女の素晴らしい才能を正当に評価させることが出来なかったのだ。
 あまりにももったいなく、そして、何度も夢に見るくらいに悔しいことだ。

 みぃの兵器としての性能は、実は全く問題なかった。しかし唯一欠点があり、それはエネルギー消費量がバカみたいに大きかったことだ。普段の生活では必要ないのだが、いざ作戦行動になると彼女はでっかいバッテリーを背中に2本も背負っていた。それが致命的な欠陥として評価され、結局みぃはお払い箱にされてしまったのだ。
 みぃの廃棄処分が決まったとき、彼女を冷凍保存するなんてクールなことを言いだした人でなしが居たが、俺はそんなこと決して許せるわけもなく、こうして自分で養う事にした。
 しかし、その時出された条件は、みぃの記憶を消せというものだった。彼女はシステムガイアの最終防衛ラインそのもので、それが敵の手に落ちれば防衛システムの根幹を揺るがすというのがその理由だった。
 俺は、みぃを守れなかった。
 結局みぃは記憶を全部消され、生まれたときに戻されてしまった。けれども俺は、その時極めて楽観的なことを考えていた。例え彼女の記憶が消されても、みぃが生まれたときからの二人の生活を再びやり直せば、ある程度同じ人格に出来上がると思っていたのだ。
 再びみぃが、あの毎日のようにニコニコ元気よく笑っていたみぃが、俺の元に帰ってくるのだと思っていた。
 けれど、現実は違った。そんな甘いモンじゃなかった。
 みぃは喋らなかった。笑いもしなかった。ただ、けだるそうな瞳で、俺を見つめるだけだった。
 以前、みぃのOSを入れ替えたときも似た様なことになった。その時はモニタモードとかいうデバッグ状態になっていたのだが、今回は違う。今の状態でもみぃの脳みそはフル稼働中だ。古い人格を封印し、上から無理矢理新しい人格を載せた副作用だ。
 つまり、人としての感情を表すほどのCPUリソースが足りず、生命維持プロセスを走らせているだけで精一杯なのだ。
 みぃは昔の記憶と共に、人としての機能も殆ど忘れてしまっていたのだ。


 俺は今、日本趣味娯楽研究所とかいう5流のゲーム屋で働いている。違法スレスレのエロゲばっかり作ってる頭と常識のイカれた会社だ。ちなみに前の研究所は辞めた。あんなところで、これ以上働いてなんかいられるかってんだ。
 しかし、関わっていた案件が案件なだけに、退職後の職業選択の自由なんてありゃしなかった。しばらくの間……たぶん一生、俺は研究所の関連企業で監視付きのサラリーマン生活をしなければならないのだ。
 だから研究所の関連企業の中でも、今までの仕事から一番遠いような気のするエロゲ屋を、俺は自分自身の人生に対する皮肉たっぷりに選んでやった。まぁ、仕事はそれ相応に面白いので後悔はしていない。ただし……前の職場が紳士的なヤツしか居なかったのだと思えるほど、底抜けに濃ゆい連中があんなに揃っている点を除けばな………。くっ。

 そんなこんなで、俺は会社からほど近いアパートを借り、そこでみぃと暮らしている。ちなみにみぃとの間柄は、周りにあーだこーだ説明するのがめんどくさいので、潔く嫁さんだと紹介している。とりあえず幼妻だ。まだ役所に届けは出していないけど。
「あ〜らまぁまぁまぁ、可愛いお嫁さんだこと〜! アナタ一体何処でこんな子ゲットしてきたの〜?」
 ちなみに上記のセリフは、アパートの大家さんに挨拶しに行ったときの、奥様から発せられたものである。見た目も行動も『下町のおかん』そのものだ。色々と気の利かない俺をさりげなくフォローしてくれたりと、割と良く面倒見て貰っている。時々ああせいこうせいとやかましいが、親切でしていただいているのでちゃんと返事だけはしている……つもりだ。ちなみにみぃは何を言われてもぼーっとして全然反応しないので、色々ごまかすのが大変だけどな。

 朝。
 俺は朝起きると、まずはみぃをたたき起こすことから始める。ちなみに寝相の悪さは以前と変わっていない気がする。さすがに狭いアパートなのでベッドなんぞは置いていないから、片足だけベッドの上なんて行儀の良い寝相は見ることはない。しかし時々布団からはみ出して、変なところで寝ていたりする。
 そんな彼女を叩き起こしてやると、稀に「ふにー」だかなんだか、ヘンな声を上げて寝ぼけることがあるのだ。みぃの声を聞く、数少ないチャンスの一つであるのだ。
 実は、俺は一つの野望がある。それは、以前のみぃを取り戻すことだ。
 この女はなんだかんだ言いつつ、実にしぶといヤツだった。泥沼に落ちてもOSを取り替えても、人に心配させるだけさせて、結局ケロっとしてやがった。だから今度も、ある日突然うおーとかなんとか、ヘンな声を上げて人をバカにしたような目でニタニタ笑い出すような気がしてならないのだ。
 ……まぁ、あの鹿沼博士が念入りに記憶を潰したそうなので、そう簡単にはいかないのは重々承知している。それに俺もシロウトじゃない。今度ばかりは無理だろう。理性は冷静にそう判断している。だからこそ、この計画は希望などではなく”野望”なのだ。
 俺はみぃを起こした後、以前研究所で暮らしていたときと同じような行動をするようにしている。いつも通りに怒鳴りつけて布団を引っぺがし、顔を洗わせるため洗面所に追い立てる。
 みぃはけだるそうに起き上がると、こちらの顔をちらっと見、そしてモソモソと着替え始める。この着替えも、以前は生まれてから2ヶ月くらいで平気にこなすようになったのだが、今回は半年経っても上手くできやしない。
 さすがにズボンを頭から被るようなことはしやしないが、シャツのボタンを掛け違えたり後ろと前を反対に着ていたりすることは結構多い。
 そんなとき、俺は決まってゲンコツを喰らわせてやっている。もちろん、ホントに痛がるような強さではやらない。ただ、いつか前みたいに「うおー、いてー」と非難囂々な視線でこっちを睨み付けてくれはしないかと、淡い期待を抱いてみるのだ。
 しかし、今の彼女は、何となく不機嫌そうな顔をするだけだった……。
 表情が殆ど消えてしまったみぃは、他人には感情も何もない無表情にしか見えないだろう。しかし俺は、長年の同居生活のおかげで、彼女のほんのわずかな表情の変化をそこそこ見分けられるようになっていた。まぁ本人がこんな調子で喋りやしないので、その見分けが正しいかどうかは実のところは分からない。ただ、変な確信はあったりする。機嫌が悪い顔をしているときにおちょくると、なにやらホントに青筋を立てるときがある。また機嫌が良いような顔をしているときに甘い物をあげると、ほっぺがぴくぴくするときもある。
 確かに以前のみぃとは違ってしまったが、それでも彼女はちゃんと意志の光を瞳にとどめている。

 みぃがやっと服を着た頃、パンが焼き上がった。俺は手早くパンを皿に盛り、それをテーブルに並べていく。ゲームの開発屋は時間との戦いだ。のんびり朝食など作ってられないので、もっぱらパンと何か適当な飲み物、ぶつ切りのハムとかその辺の簡単なおかずを口に押し込むようにして平らげる。
 俺の自慢の女房がちゃんとメシでも作ってくれればいいのだが、如何せんそれは無理な注文だ。記憶を消す前、みぃはちょくちょく料理など作って俺をいろんな意味で驚かせてくれた。しかし今では自分のメシを食うだけでも精一杯だ。基本的に、フォークやスプーンすら満足に使えない。箸なんてもってのほかだ。
 だいたい手づかみが出来て、それに食べるのに苦労しない物でないといけない。アイスなどは手を突っ込むとさすがに冷たいのか、何とか頑張ってスプーンを使っているが、良く口に入れられずに落っことしたりする。そんなときはいきなり口で吸い取りに行くので、間髪入れずゲンコツを喰らわせて止めさせるが、こんなになっても意地汚いヤツである。
 俺はみぃがモソモソパンをかじってる間に食事を済ませ、出勤の身支度を調えた。
「じゃあな、みぃ、行ってくる」
「………。」
 俺は声を掛けるが、みぃは俺の方をじっと見るだけだ。何も言わない。ただ、何となく寂しそうな顔をしているように見える。時々ぽろっとパンを落っことすときもある。あわてて拾うが。
 俺は玄関に鍵を掛け、足早に会社に向かう。
 さあ、今日も邪魔されないうちに仕事を始めて、邪魔されないうちに仕事を終わらそう……。

 その日の夜。というか日付変更線がもうすぐ頭上を遠慮無く通り過ぎていく頃。俺はようやく愛の巣へ帰ってきた。
 我が社の営業兼シナリオ兼音楽兼邪魔係の社長のおかげで、俺はプログラマだというのにCGの色塗りまでやらされた。原因は、その社長が我が社唯一のCG描きマシンにコーヒーをぶっかけて昇天させたという、前世紀も真っ青なベタなオチを披露した所為だ。おかげでCG兼総務兼人事兼副社長はショックのあまり泡を吹いて卒倒し、そのまま病院送りとなった。幸い昨日までのデータはサーバに残ってたので社員一丸首を括るという事態にならずに済んだが、プログラム兼雑用兼新入りの俺まで駆り出され、慣れないタブレットでゴリゴリおねーちゃんのおっぱいの影入れをやることになったというわけさ。
 まぁ、社員が五本の指に入る程度しかいないってのが、何かしら一番間違っているとは思うんだがな……。一人死んだらホント、この会社潰れるぞ?
(ちなみに前任のプログラマは、俺は入社したその日に「後は任せた」と一筆残して行方をくらませた。たぶん今頃警備部の連中にとっつかまって、研究所の営倉にでもぶち込まれているのだろう……)

 玄関のドアを開けると、テレビの前にちょこんと座っていたみぃは、けだるげな視線を俺に向け、またテレビの画面に向き直った。ただ、何となく嬉しそうな顔をしている。
「ただいま」
 俺が倉声を掛けると、みぃはもう一度振り返り、またもや嬉しそうな顔をした。
「………☆」
 なるほど、最近は俺の見分け能力に磨きが掛かったのか、割と彼女の表情がわかりやすくなったような気がする。それに、みぃ自体も表情を作る能力が発達してきているのかも知れない。
 いくら前の彼女とは違うと言っても、別に笑う機能が消えているわけではない。ただ、その機能を使えるまで感情制御サービスが発達していないだけだ。
 だから、今後この新しいみぃが普通に笑う様になることもあるだろう。逆に、俺はそうなるように、彼女を教育していかなくてはならないのだ。元は人類史上最高の人工知能を持っていたのだ。やってやれないことはないだろう。
「早く、お前もいっちょまえに笑えるようにならんとな」
 ぽんぽん
 俺はそう言いながら、みぃの頭を軽く叩く。
「…………。」
 何とも言えない、すねてるような、怒ってるような表情をうっすらさせながら、みぃは俺の顔をじっと見ている。
 俺はみぃの隣に座り、とりあえず大あくびをした。
 そんな折、みぃは俺の腕を抱き寄せ、まるでネコみたいに体をすりつけじゃれついてきた。これは、みぃの「今夜はどう?」の合図だ……と思う。
 実際、俺はみぃと何度も体を重ねている。もちろん、嫌がってるのに無理してどうのなんてコトは一切していない。それだけは断言しておく。
 時々、みぃはこうして身を寄せてくるときがある。そんなときは体を触っても嫌がったりしないし、それにまぁ、なんだ、えっちな顔をして俺を求めてくるのだ。だから俺もそれに応える。最中、みぃは時々声を漏らすことがある。その声は、彼女と初めての時に聞いた切なげな声と同じだった。
 今のみぃには申し訳ないとは重々承知なのだが、そんなとき、俺は無性に昔のみぃに逢いたくなるのだ。
 いくら姿形が同じであっても、昔のみぃと今のみぃは違いすぎる。人格、それを構成する記憶、それらが皆以前の彼女と連鎖の鎖を断ち切られた状態で稼働しているのが、今のみぃなのだ。
 だから、どう考えても彼女は別人なのだ。たぶん、生まれ変わりとかいうヤツよりもたちが悪いであろう。あれは中身が同じで外見が違うのだが、こっちは外見は同じ(つーか本物)で、中身だけが違うからだ。どうしても、その外見で昔の彼女を追い求めてしまう。
 いつもながらに胸の奥がちくちく痛むが、今日もみぃと体を重ねた。俺だってまだまだ若いんだし、それに幼妻からの誘いを断る旦那は男としてイケてない……と思う。いや、単にずっとCGのおねーちゃん見ていて溜まっていたとか、そういうぶっちゃけ話は内緒だぞ?

 翌日、眠い目を擦りながら起きた俺は、驚愕の事実を目の前に、自分の人生の運用について深く考えさせられるとても良い経験を得た。
 出社時刻まであと35分。
 死ぬ気で急げばきっと間に合う時間だ。つーか、ひと思いに1時間でも過ぎてればさっさと仮病を使って有給とるものを……!
「みぃとにかく会社行くぞ後は頑張れ!」
 俺はそうまくし立て、急いで服に着替えてそのまま家を飛び出した。
 チャリをかっ漕ぎながらながら思うことはただ一つ。昨日みぃと2回もやって、そのままドロのように寝ちまった自分のバカさ加減を死刑です! みたいな? 昨日はイキがって若いとか言っておきながら、何となくトシを感じさせる今日この頃。このけだるい腰の痛みは、毎日パソコン仕事で疲れているからではなく、年甲斐もなく変な格好でやってしまった報いでしょうか?
 ……などと一人でブツブツ訳の分からん事をつぶやいていると、目の前に毎日楽しくて仕方ない愛すべき我が職場が見えてきた。現在時刻、8:58。あと2分足らずの内に俺は自分の席に座って、パソコンにログインカードを押し込めなければならないのだ。
 まるで乗り捨てるようにチャリを駐め、駐輪場からラストスパートでオフィスに駆け込んでいく。時計を見れば、59分52秒! 間に合う、そう確信した俺は財布からログインカードを抜き……そして、自分のおしりをぱんぱんはたく音と共に、全身から血の気が引く音が、まるでナイアガラ大瀑布が如き7.1chドルビーサラウンド真っ青の大音響で響くのを感じていた。
 財布、忘れたよ………。
「ハハハハハ………。」
 口からだらしない笑いがこぼれる中、職場に壊れかけたチャイムの音が鳴り響く。
 全身汗びっしょり。着の身着のままやってきて、結局カードを忘れて出勤扱いすらさせて貰えない自分が一人、薄汚いオフィスに佇んでいる。
 くそぅ、俺は何かしらそんなに悪いことをしたのだろうか? たしかに昨夜、みぃがなんとなく眠たそうな顔をしていたにも関わらず、俺は一人で気を吐いて、一生懸命やってしまいましたよ。だって、最近実はみぃのおっぱいが少しずつ大きくなって、とってもかわいいんだもんっ♪
 …………。
 スマン、悪かった。俺も今のは人としてどうかと思った。忘れてくれ。今更ハードボイルドを気取る気なんてさらさら無いが、今のはちょっとあまりにも酷かった。反省する。
 帰ろう……。このままここにいても、給料に反映されないのだ。俺は無断欠勤した下衆野郎として、給料明細から1日分の給料が引かれるという名誉を手に入れることになるだろう……。
「武由、さっさと仕事すれ! まだたぶーが出てこない!」
 しかし、朝起きたときから俺の後を付いてくる神の野郎は、今以上の苦難を俺に与えようとしているらしい。ちなみに今声を掛けてきたヤツが、この会社の社長だ。単に一番古株なだけなんだが、そのぶん一通りの作業がこなせる職人だ。ちなみに「たぶー」とは、いつ何時たりともタブレットを離そうとしない我が社のグラフィッカー副社長のことだ。昨日、社長が病院送りに処した。
「いや。あの、今日ログインカード忘れてしまいまして……」
「気にするな、仕事すれ!」
 社長はそう言うと、いきなり俺のPCからログインカードのリーダを引っこ抜いた。
「これで仕事が出来る! 仕事すれ!」
 なんとPCはさっさとログイン処理を始めてしまい、極めて残念なことに俺の仕事環境がディスプレイの上に滞りなく表示されてしまった。
 ………セキュリティーの意味が全く感じられん………………。
 退路を奪われた俺は渋々席に着き、社長に向かって大切なことを切り出した
「あの、そういうことなんで、とりあえず出勤処理を……」
「カードがないから出来ないだろう? 仕事すれ!」
 社長は自分の席から、さも当然だとばかりにそんなことを仰る。やたらシヴい湯飲み(つーか、アレは抹茶の茶碗だと思うんだけどなぁ……)に、お茶を急須からドボドボ注ぎ、湯気をモウモウと噴いているのにも関わらず一気に飲み干した。
「くぅっ、この一杯のために生きてる!」
 死ぬって、そんな熱いの飲んでたら!
「あの、だから、出勤処理できないんだったら今日はもう家に帰って良いですか?」
 出勤処理が出来ないという事は、当たり前のことだが今日の給料は払われないという事を意味している。それは許せないだろう労働者として! ただでさえ、うちにはメシを食う機能しかないマイハニー(死語)がいるのだ、金はいくらあっても足りやしない。敢えて言うと、余っていればそれで良し。
 だから会社で仕事しているのに給料が払われないなんて理不尽な事、これは労働者として絶対に看過できないことなのだ。
「あの、そういうことで、今日はもう帰って有給にして貰って良いっすか?」
「何を言ってるんだ、会社にいるんだから仕事すれ!」
 あー、もう、何でわかんねーかなー!
「あの、だから、始末書でも何でも書くから出勤扱いにして下さいって言ってるんですけど!」
 俺は最後のカードを切ったつもりだった。始末書なんて、前の職場でいやという程書かされたので、あんなモンもう二度と見たくもなかったのだが……
「構わんが、始末書1枚に付き無給労働1日が課せられる。仕事すれ!」
「嘘だろ!? じゃあ俺もう今日帰る!」
「敵前逃亡には無休労働2日が課せられる。仕事すれ!」
 くっ……! なんて優しさのない職場なんだ……! ここは俺を苦しめるだけに存在するステキなマジカルワールドかなんかの類か!?
「今日は徹夜だ、仕事すれ!」
 冗談じゃねえ!! ただ働きさせられる上に徹夜だ!? 昔は頑固者のたけちんとか言われたクソまじめな勤労青年だったが、俺はとうの昔にそんな腐った称号は捨てたのだ。
 俺は今、愛する女房のために金を稼ぐマシーンに成り代わったんだ、今の俺を誰も止められない!!
「止まらんでいいから仕事すれ!」
「俺は帰るんだー!!!」
 結局、あれこれ一生懸命頑張ったのに、ついに俺は出勤扱いにして貰えなかった。このあまりにもやるせない事態を少しでも回復すべく、俺は通常比150%の出力で仕事をこなし、日付変更線が無遠慮に俺をまたぐ前に今日のノルマを終わらせたのだった。
「はぁ、やっと終わった………。」
 俺は確かプログラマとしてこの会社に雇われていたのだと自問自答が必要なくらい、おねーちゃんのおっぱいとか(ぴー)に影を入れ、そしてついでにからみ部分のシナリオまで書かされた。
 結局昼飯すら満足に食わせて貰えず突貫作業。当然のことながら腹が減る。
 そこまで考えて、俺はもう一度ナイアガラ大瀑布の大音響が頭の中を一杯にするのを感じていた。今度はTHXサラウンドくらいの迫力があったな。
 そうだ、俺はみぃのメシをすっかり忘れていたのだ………!!
 普段なら、朝飯と一緒に昼飯を作っておいたり、それこそ電子レンジに放り込むだけでグルメなみぃに舌鼓を打たせる美味しい弁当を買い込んであるのだが、今日に限って昼飯どころか朝飯すら作っていなかった。なおタイミングが悪いことに、弁当も在庫切れである。
 あわてて時計を見ると、既に11時過ぎ。俺の頭の上を日付変更線が無遠慮にまたいではいなかったのがせめてもの救いだが、こんな遅くなるまで一食も食べさせなかったことなど一度たりとも無かった。
「うわ、やばっ!」
 俺はあわてて席を立ち、ディスプレイの電源だけ落とすと出口に向かって速攻ダッシュを決め込んだ……のだが。
「武由、追加! 仕事すれ!」
 一体キサマは何の悪鬼の類だ? もちろんそんな声は聞こえなかったことにして、俺はオフィスから逃げ出しチャリをつかんで一目散に家に帰った。もちろん、途中でコンビニで弁当を買うのも忘れずに……ていうか、だから財布忘れてるんだよ!
 仕方ないので、俺は通常比210%の出力でチャリをかっ漕ぎ、腹の虫をdts位の迫力で響かせているであろうマイハニー(死語)の元に急いで駆けつけたのだった。

 我が愛の巣ボロアパートに着いた俺は、部屋の電気が付いていないことに気がついた。普段だったら電気は付いたままで、みぃはぼーっとテレビを見ているはずなのだ。
 嫌な予感一杯で部屋に入り、照明のスイッチに手を伸ばす。いい加減くたびれたスイッチを押し込み、あかりを取り戻した照明に照らされたその場の惨状を見せつけられた俺は、そのあまりにも残酷な光景に絶句したのだった。
 しきっぱなしの布団、脱ぎっぱなしの服、そして、テレビの前でひっくり返っているみぃの死体……!
「み、みぃ………!」
 俺は布団を蹴散らし、みぃの元に跪くと、その痛々しい亡骸を抱きかかえる。
「みぃ、たった一日飯を抜いたくらいで……!」
「ZZzzz………」
 ……寝てるよ、極めて気持ちよさそうにぐっすり寝てやがる。
 俺はやるせない脱力感と共に、我が腕に抱かれた幼妻をじっと見る。
 なんだかよだれ垂らしながら、口をむにゅむにゅさせている。着ている服は薄手のTシャツなので、なんだか胸の形がはっきり見えていた。
 うーむ、ホント、最近少し大きくなったよなぁ……
 俺は感慨と共に、彼女の背中に回ると、後ろからその可憐な柔肉をふにふに揉んでみた。
「う、これは結構いいかも……」
「むにむにむにむに」
 しばらくその柔らかさを楽しんでいると、
「………!!!」
 みぃはびくっと痙攣し、あわてて手をバタバタさせ始めた。
 その時の目をまん丸に開いたみぃの顔は、なんだか昔を思い出させる、とても人間くさい表情だった。
「………(怒)」
 ひとしきり暴れ、いたずらしているのが俺だと分かると、みぃはなんだかむすっとした顔でこちらの顔を睨み付ける。
「わはははは、びっくりしたか?」
「…………。」
 みぃは微妙に怒っているような、それでいて嬉しそうな変な顔をした後、いつもメシを食っているちゃぶ台にフラフラ歩いていって、ちょこんと座った。
「あ、そうか! メシがまだだったな!」
 俺はメシを食っていないことと、そもそも家に食い物がないことを思い出し、財布をつかんであわてて近くのコンビニにメシを買いに走った。

雨の日 A day in the rain

 ボチボチ夏の盛りも過ぎ、バカみたいな熱さから解放されつつある今日この頃。
 俺が毎日の大半を過ごすオフィスでは、社員一同パソコンに向かって悲鳴を上げる暇すら無く、エロゲ作りに勤しんでいた。新作のマスターアップが近いらしく、我が愛する職場もご多分に漏れず修羅場を迎えているのだ。
 そんな中、俺は昨夜5日ぶりに帰宅を許され、疲れているにもかかわらずみぃと情熱の夜を過ごしたのだった。
 おかげで体中の関節がミシミシ痛い。なに? いつもどんなプレイをしているのかだって? 普通だ普通。全身でみぃをぎゅっと抱きしめ、そして俺の愛を注入しているのさっ!
 ………。
 すまん、今のも俺が悪かった。反省してる。ちょっとイキがってたよ……。
 しかし今日はいつぞやの日みたく寝坊をこいたりせずに、割合早く目が覚めた。空を見れば、会社に行くのがアホらしく思えるくらいに、実に気持ちよく晴れている。
「よし、布団を干そう!」
 俺はそう宣言すると、未だすぴょすぴょ寝息を立てているみぃから布団をはぎ取った。
「……!?!?!?」
 勢い余って床を何回転か転がり、むくっと上半身を起こすみぃ。初めは何事かと寝呆けたハムスターの如く首をコキコキひねっていた彼女であったが、やがて自分の旦那にヒドい起こされ方をされたのだと気がつき、非難囂々な視線を俺にぶつけてくる。
 そんな彼女の熱い視線を受けつつ、俺は窓を開けるとテラスに布団を掛けていく。最後の仕上げに、布団ばさみできっちり留めたら終了だ。
 後はいつも通りにメシを作って二人で喰い、俺は意気揚々と会社に出かけていった。
 ちなみに布団を干した日は、必ず昼休みに一旦家に帰ることにしている。みぃは食べる専用の妻なので、布団を取り込む機能がない。このため、俺が布団を取り込む為に戻らなければならないのだ、
 我が職場では、ヒドいときには全員昼飯抜きで仕事をしているのだが、それにかまけて夜まで布団を出しっぱなしにしておくと、お日様の光と共に湿気までステキなくらいに吸ってしまい、干さない方が良かったと思えるくらいに悲惨な寝床が出来上がる。だから俺は社員全員が文句をブーブー言うのも構わず家に戻り、布団を取り込むとまっしぐらに職場にトンボ帰るのだ。
 今日もご多分に漏れず、全社員が労働中の昼休みの時間に会社を抜け出て、一旦家に戻った。
 家で待っていたみぃは俺が今日帰るのを分かっていたらしく、ぼ〜っとテレビを見ていたその視線を俺にちらりと向けると、なんだかあからさまに不満そうな顔で元に向き直った。
 む、俺は何かそんなみぃを怒らすようなことをしたのだろうか。確かに昨日、もううんざりって顔をしていたみぃをほったらかして一人気を吐いていた俺は、たしか3ラウンド目に突入したんだっけか……。ん、俺も若い。
 今日、もしも会社がこれで終わりだったら、ずっとみぃの隣にでもいてやって、いつも寂しい思いをしている罪滅ぼしでも出来るのだろうが、残念ながらまだ仕事は終わらないのだ。
 布団をさっさと取り込んだ俺は、なんだか後ろ髪をぐいぐい引っ張られる感じで、再び会社に戻っていった。
 玄関を出るとき、みぃはこちらを見てくれもしなかった。
 そんな愛妻との憂鬱な別れをした俺は、出来ることならさっさと家に帰って、みぃを構ってやりたかった。しかし仕事は増えるだけ増えて一向に終わらず、結局また3日も会社に泊まる羽目になってしまった。

 そして3徹目の夜。
 日付変更線が頭上を無遠慮またいでいった頃、俺はようやく仕事から解放された……と言うより、緊急避難的に会社を抜け出したのだった。
 人間、やって良い無茶とやっちゃいけない無理は、明確に区別しなければならないのだ。つまり、これ以上無理に仕事を続けていると、まず間違いなく脳死する。脳死しなくても精神が折れる。日頃の慢性睡眠不足に加え、このところの極端な激務で元々少ない睡眠時間がさらに減っていた。だからだろうか、なんだか脳みその中心がじんじん痺れているし、それに自分の体が自分の物でないような、みょうちくりんな感覚までするのだ。そしてこれらの体の異常は突然死の兆候であると勝手に納得した俺は、命あっての物種だとばかりに、イカれた職場から命からがらバッくれたというわけだ。
 しかし人間とはなんて現金な生き物なのだろうか。帰り道、チャリをかっ漕ぐ俺は極めてエネルギッシュな男だった。気分爽快、意気揚々。何となく人生バラ色な気分だった。
 ………。
 わかってるさ。言われなくても。
 俺の至極冷静な理性は、テンパって脳内麻薬出まくりでナチュラルハイになってるだけなのだと、極めて冷めた解答を告げていた。ついでに、今日だけはとりあえず夫婦の義務をほったらかして、とにかく寝られるだけ寝ろとも。
 そして付け焼き刃的なハイはあっという間に通り過ぎ、息切れした体と溶解寸前の脳みそを引きずりながら、俺はやっとの思いで家に戻ってきた。
 ふらふらしながら玄関を開け、みぃを捜すために部屋を見渡した俺は、台所や食卓がとんでもないことになっているのを目の当たりにして、絶句していた。
 みぃが食い散らかした弁当のガラがあちこちに積まれている。もちろんみぃは食べる専用の妻なので、後片付けなんかできないのは極めて十二分に分かっているつもりなのだが、所詮つもり程度の理解しか持ってない狭量の俺は自然に頭に来ていた。
「ったく、こんなに散らかしやがって………」
 それでも一人愚痴を垂れる程度まで我慢した俺は、疲れて痺れる頭に気合いを入れつつ、汚れた弁当ガラをゴミ袋に詰め、台所やちゃぶ台を適当に拭き清めた。
 その間、みぃは俺の方をぼーっと見ているだけで、身動き一つしやしない。いい加減少しくらい手伝ってくれないかとイライラし始めたい俺は、もう適当なところで掃除をやめてみぃの対面にどかっと腰を下ろした。
 そしたら、みぃはフラフラと立ち上がり、俺の横に座ると俺の体にべたべたまとわりついてきた。
 おいおい、もういい加減にしてくれよ……お前は何だ、亭主にさんざ働かせるばかりで夜の勤めまでやれって言うのか?
「今日は疲れてるんだよ、今度にしてくれよ……!」
 最低の下衆野郎である俺は、絡めてくるみぃの腕を乱暴に振り払った。心の奥底では、みぃにそんな事言ってはダメだとずっと警鐘を鳴らしていたのだが、しかし脳が疲れ切っている俺は自分自身を抑えることが出来なくなっていたのだ。
「………。」
 一瞬悲しそうな顔をしたみぃは、俺の顔に優しく手を添えると、自ら唇を俺のそれに触れさせた。その時、みぃが何を思ってキスしてきたのか、俺にはさっぱり理解できなかったし、それに理解できるだけのゆとりも知能も脳みそも無かったのだろう。
「しつこいな!! そんなにやりたきゃ一人でやれよ!」
 彼女の胸をどんと突き飛ばし、俺はその場で立ち上がった。みぃはフラフラとよろけると、そのまま壁に頭を思いっきりぶつけてしまった。
「………。」
 みぃは頭をさすることもなく、無表情にじっと俺を見ている。
「何だよ……」
 しかし、脳みそが膿んでウジが湧いていた俺でも、それだけは分かった。
 みぃの目から涙が一筋、流れ落ちていたのだ。
 俺はそのみぃの顔から、しばらく目を離すことが出来なくなっていた。寝不足の頭のしびれなんて、とうの昔に吹き飛んでいた。
「みぃ、すまん……!!」
 俺はあわててしゃがみ込み、彼女をぎゅっと抱きしめた。
 感情の起伏すらほとんど無いみぃが、涙を流したのだ。俺の先ほどの無思慮な行いが、どれほど彼女にとって辛いことだったのか……。自分勝手で浅慮な俺には、そのみぃの深い悲しみを想像出来ない。せめて声でも上げて俺をなじってくれたり、ぶーぶー文句を言ってくれたらどれほど気が楽だったろうか。
 みぃは無表情のまま、指先一つ動かすことなく、じっと俺に抱かれたままだった。
 そんな彼女を見ていて、俺はつくづく実感したのだった。人生、思い通りになんてなりゃしない、もう一度初めからやり直せばいいなんて言った俺の浅はかな考えは、単なる甘えだったのだ。みぃが今のような状態になることは、よく考えていれば想像出来たことだった。けれども俺は敢えてその思考を放棄し、みぃが前と同じように笑ってくれるもんだと思い込んで、いや、決めつけていた。そうでもしていないと、いい加減気が狂いそうだったからだ。
 しかし現実は、表情すら消えたみぃがぽつんと居るだけ。殆ど人形のような物だ。
 彼女の笑顔を守ることの出来なかった末路はあまりにも残酷だ。
 俺は、自分が全部悪いのを棚に上げて、今もこうしてみぃに辛く当たっているのだ。
「ごめんな……ごめんな……」
 俺はみぃの頭を何度も何度も撫でながら、ずっと詫び続けていた。

 翌朝。
 目が覚めた俺は、朝から元気に布団から飛び上がった。目覚まし時計をセットするのを完全に忘れていて、しかもなんだかじっくり寝てしまった実感がとても心地よかったからだ。
 しかし時計を見てみれば、いつもよりも早いくらいの時間。これから寝直すのには短すぎるし、それに外を見れば今日も天気が良い。
 俺はひとまず安心し、もう一回のびをすると、布団を外に干した。そして久々に朝飯の準備をし、みぃと一緒に卓を囲んだ。
「あー、まだ時間が少しあるのか……」
 いつもの習慣とは恐ろしいものだ。時間ギリギリに慣れた体はわずか数分で朝飯を平らげてしまう。会社に行くまで、まだ30分くらいのゆとりがあった。もちろん品行方正、しかも勤勉な俺は、可能な限り早めに出社し、仕事に打ち込むなんてするわきゃない。誰がそこまで会社に魂を売るか!
 俺は昨日辛く当たってしまったみぃに対するせめてもの罪滅ぼしとして、未だモソモソパンをかじっているみぃの背中に回ると、パンを咥えたままの彼女を抱き上げ、あぐらをかいた自分の足に載せてやる。
「……………。」
 みぃは何も言わずメシを食い続けているが、なんだか少しは嬉しそうだった。俺はみぃのミルクのような甘ったるい匂いをかぎながら、彼女の優しい温かさを全身で感じていた。

 不意に、腕の中で何かが震えた。
「………ん?」
 はっと気が付き辺りを見渡せば、そこは自分の汚い部屋。腕の中では、愛しのマイハニー(死語)がすぴょすぴょ寝息を立てている。さっきのびくっと来たのは、寝ぼけたみぃの身じろぎだ。
「ん??」
 さて、俺は何故このような極楽の如き優雅な時間を過ごしているのだろうか。つーか、俺今寝てたか!?
 そこまで来て、ようやく脳みそが回転しだした俺は、時計を見るだけの知恵を獲得したのだった。現在時刻、8:32。ガット! 始業時間まであと28分じゃないか!
 一瞬、もう間に合わないから脳が捻挫したとかなんとか適当な理由を付けて、有休を取ろうかと考えた。しかし今日を休めば明日そのぶんだけしっかり死ねるという厳然たる事実に気がつき、俺はみぃを跳ね飛ばしてテーブルに置いてあったチャリのキーと財布をつかんだ。
「みぃ、幸運を祈る!」
「………(とっても怒)」
 跳ね飛ばされた衝撃で床に甘い口づけを敢行してしまった我が幼妻は、無表情のくせに青筋立ててそうなくらいに不機嫌そうな顔だ。まぁ、そりゃ誰だって怒るよな。
 俺は謝罪(?)の言葉と共にドアから飛びだし、チャリに飛び乗りペダルを蹴りこんだ。そしてスクランブル発進でアフターバーナーを噴かすジェット戦闘機の如く急加速し、わずか2秒で巡航速度を突破、そのままミリタリーパワー(当社比320%)でチャリをかっ漕ぎ、愛しの職場を目指して突撃を敢行した。
 結果、8:59:58でPCのログインカードをねじ込み、俺は戦いに勝ったのだった………!

 ……などと、朝のうちはいい気になっていた俺だったが、人として生きていくために大切なありとあらゆるリミッタを解除し、設計値を大幅に越える急加速急発進急ハンドル急ブレーキ急機動を幾度となく繰り返した後に残る物はといえば、もはや仕事をするだけのエネルギーなど完全に使い尽くした、屍みたいな自分の哀れな末路だけだった。一言で言うと、爆発的に眠い。キーをポコポコ押していても気が遠くなる。俺を睨み付ける社長の顔を見ていても気が遠くなる。終いには、マイハニー(死語)のおっぱいを思い出しても気が遠くなる。もう、俺はこのまま死ぬかも知れない……。
 しかし神は俺を楽に黄泉路へ送りだそうなどとは考えていないらしく、なんだかんだ言いつつ昼休みを迎えることに成功したのだった。生きているってのは素晴らしいよな、ホント。
「ぐはっ……!」
 昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に、魂すらこぼれ出てしまいそうな重々しい溜息をつき、俺はそのまま机に突っ伏した。本来なら、他の社員全員に蹴られようともスリッパを投げつけられようとも、このまま腕を枕にグゥグゥ寝るはずだった。しかし今日は確か布団を干したような気がしなくもない。なんだかもう、記憶に混乱すら見られる。つーか俺、ホントに布団干したんだっけか?
 眠い目を擦りつつ、俺はのそのそ起き上がる。万が一にでも布団を干していようものなら、それこそ夜帰ってから悲惨な寝床を目の当たりにし、ひとしきりの絶望を味合わなければならないのだ。そして湿気をたらふく吸ったブヨブヨな布団を愛でつつ、不快指数1500程度の睡眠を敢行しなくてはならない。
 俺はもつれる足、よろける体、そして永眠すら望んでいるのではないかと思うほどに停止寸前の脳みそに猛烈なる気合いを急速チャージし、ヨタヨタ家に帰っていった。
 家に着くと、マイハニー(死語)は床の上で大の字になって寝てやがった。うらやましいやら腹立たしいやら。何となく頭に来たので、布団を取り込んで押し入れにぶち込むと、みぃのケツを軽く蹴飛ばしておいた。
「きゃうん!」
 なんだか変な声を上げて、むくりと起き上がったみぃは、青筋を立てて俺をにらんできやがる。
 その面構えがなんか生意気だったので、俺は彼女に覆い被さると、薄いTシャツでうっすらと透けるおっぱいを精一杯もみほぐしてやった。ブーブー言いながら手足をバタバタさせている彼女の格好がなかなか面白かったが、そんなことをしているゆとりなんて全く無いことを改めて思い出したのだった。そうだ、俺はたしか短い昼休みを利用して会社から抜け出してきていたのだった。
 俺は愛しの幼妻とそのおっぱいにしばしの別れを告げ、後ろ髪をミシミシ引かれる思いを存分に味わいつつ、ステキな職場に戻っていった。そして会社に着くなり、俺は反射的に机に突っ伏すと、飯も喰わずに眠り込んでしまっていた。エサなど数日食わなくても生きていけるが、これ以上の睡眠不足はレッドゾーンを2周ほど越えている俺にとっては自殺行為そのものだったのだ……………。

「起きれ武由! あと3秒以内に起きない場合には、本日の出勤を無効とする!」
「うわっ!!」
 イイ感じにすぴょすぴょ寝ていたであろう俺は、地獄の赤鬼すら逃げ出しそうなくらいに壮絶な笑みを浮かべた社長の口から漏れ出た全てのサラリーマンにとっての滅びの言葉に脊椎反射で飛び起き、脳みその再起動を瞬間的に完了していた。
 時間は……13時00分18秒。まぁ、なんて時間に正確な社長さん♪ 優しさどころか、1分のゆとりもねーのかこの職場にはよー………。
「全く、突っ伏したとたんピクリともせずに休み中ずっと寝コケおってからに! キサマには昼休みにも働く同僚に対する優しさはないのか!」
 ねーよ、そんなもん!! だいたい昼休みは法律で保証された休み時間だし、突っ伏して動かなくなるほど過重労働させてる元凶は誰だ!
「いや、まぁ……」
 心の中ではかっこよく吠えているものの、やはり社会人たるもの本音を語るのはベッドの中でマイハニー(死語)に囁く愛の言葉だけだと相場は決まっているのだ。とりあえず適当な相づちでお茶を濁し、そそくさと仕事の続きを始めたのだった。
 ところで、飯食ってないので腹がぐるぐる言うのは理解できるのだが、微妙にすっきりしたこの頭は何とすべきか。なんだか随分長く寝ていた気がするのだが……。
 俺は席を立ち、給湯室に設置してある自販機からパンを2個買ってきた。せっかく久しぶりに脳がすっきりしているのだから、ちょっと甘めのパンでもかじって糖分を頭に補給するのだ。そうすれば仕事の効率が当社比120%位に上がって、そのぶん早く家に帰れるだろう。

 俺は黙々とPCに向かい、溜まった仕事を片付けていた。今日の最重要ミッションはパッケージ(外箱)のデザインだ。俺は自分がここに雇われたのは、プログラマとしてなんだと何度も確認しているのだが、おかしな事に現実はいつも違う仕事ばかりやらされる。つーかさ、せめてこういうデザインの基本設計とかは、グラフィッカー屋さんがやってくれよな。文字とか配置はいくらでもするからさ……。俺にはこんなことするセンスはねーんだよ。
「扇子も団扇も無問題! 仕事すれ!」
 してるだろうが!! 何だ、貴様の目は5インチフロッピーに開いたスピンドルの穴かなんかか!
 俺はイライラしつつも、慣れないデザインソフトで下着のはだけたおねーちゃんの絵をこねくり回していた。たぶんこんなモンでいいだろう。自分で言うのも何だが、このヒロインのおねーちゃんはなんだかみぃに似てるので、配置が少々ずれていても間違いなく売れる。完璧だ。
 俺は腕を組みながら、一人「うむ」と合点していると、
「んー、黄金比がちゃんと取れてないねー。やりなおし〜」
 いきなり背後から、そんなのぼーっとした声が聞こえてきた。こいつの名前は『たぶー』。我が社のグラフィッカー兼副社長だ。ご多分に漏れず、強烈にアキバ系(死語)な顔をしているくせに、そのゴツゴツした短い指からは、信じられないほど清純かつ可憐なお嬢さんの(ぴー)な絵がいくらでも湧いて出てくるのだ。世界の七不思議に登録しても良いんじゃないのか?
「おーごんひ? なんすかそれ?」
 いきなり飛び出たワケの分からん言葉に、
「美しさの原点だねー。女のコのカラダは全て黄金比が成り立つんだぞぉ、ハァハァ」
「はぁ……。」
 何か良く分からんが、きっと破廉恥な言葉なんだろうなぁ。なんせおしっこのことを黄金水とかいうらしいし。
 俺は再びモニタに向かい、他のソフトのパッケージを参考にしながら黙々と作業をこなしていた。こうしてみると、どの箱もだいたい同じようなバランスでキャラクターの絵が描かれているモンなんだなぁ……

 何時しか、オフィスの中は人の話し声が聞こえることも無くなっていて、ただただマウスのクリック音と滝のように打ちまくるキーボードの音だけが部屋を満たしていた。
 作業に一段落付いた俺はモニタから目を離し、首をコキコキ鳴らして盛大にのびをしていた。何というか、こう静かなオフィスは良いもんだ。昔の職場を思い出す。嫌な思い出も多かったけど、楽しい思い出もちゃんとあったよなぁ……
 ちなみに普段一番うるさいシナリオ書きの社長は、眉間にしわを寄せてスクリプトの打ち込みに専念している。つーか、こんなマスターアップ直前にそんな工程で良いのか!? いい加減社員総出でデバッグしまくる季節だと思うのだが……。
 まぁ、ゲームが落ちても俺の知ったこっちゃ無い。ただまた転職するだけさ。さて、次は何処で働こうかね。
 微妙に集中力の無くなった俺は、なんと無しに部屋を見渡していた。各人それぞれ自分の仕事を黙々とこなしているだけだ。しかし……なんだかこう、部屋が暗いな。何というか、部屋の明るさが蛍光灯だけで保っている感じと言えば分かって貰えるだろうか。ちなみに今の時間は午後3時過ぎ。普通ならお日様ギンギンで明るい時間だぞ?
 俺は改めて窓から外を見る。するとなにやら、外は6時過ぎの明るさしか無いじゃないか。よくよく耳を澄ませば、雨の音がざーざー響いている。
 何だ、外は雨か……。夏も盛りを過ぎた頃だ。夕立が頻繁に来るようになっているのだ。
 俺は再びモニタに向かい、パッケージの宣伝文句をポコポコ打ち始めたのだが、いきなり頭の中でモーゼが海を断ち割ったかのような大音響が、ドルビーTrueHD顔負けのど迫力で響き渡った。
 俺、布団入れたんだっけ!?
 確か昼休みに一旦家に帰ったような感じもするのだが、正直言って全く実感がない。そもそも、今日布団干したんだっけ?????
 連日の睡眠不足と過労が溜まりに溜まった結果だろうか、どうも最近記憶力が落ちているようだ。もはや健忘症の域にあるのかも知れない。
 もし布団を干していなければそれでイイのだが、万が一ちゃんと干していて、しかも昼に取り込んでいなければ被害は甚大である。こんな雨に降られたら、布団はビチャビチャだ。復活も危うい。
 とりあえず俺は隣に座っているシナリオ兼庶務兼広報兼企画の専務に、
「あの、俺って今日昼休みに外に出てましたっけ?」
 などと、ちょっとアヴナイ人かと勘違いされそうな微妙な質問を浴びせかけてみた。
「……………」
 しかし専務はピクリとも反応することなく、まるで攻殻機動隊のオペレーターアンドロイドのような機械的な動きでキーボードをダカダカ叩いている。
 あのー、ほんと瞳の動きまでロボットチックなんですが、アナタ何時電脳化手術受けたんデスカ?
 ……などと微妙に現実逃避しても仕方ない。
 よくよくオフィスを見渡してみれば、ほぼ全員が同じような雰囲気だ。というか、まるで禅寺の修行僧が三日三晩座禅を組んだあげくに悟りの境地に達してしまったかのような、神々しいお顔でエロゲーを作っておられる! まぶしい、まるで後光が差しているようだ!!
 その菩薩の如きアルカイックスマイルの瞳に映るディスプレイには、おねーちゃんのあられもない姿やああんだのいくーだの、到底ここでは書けないような卑猥な文字列で埋め尽くされているというのに……!
「そうか、ここは悟りの極地と煩悩の極地という全く正反対のエネルギーが渾然一体となって形成された、魔窟の類か!」
「うるさい、仕事すれ!!」
「うひゃっ!」
 いきなり響いた社長の怒鳴り声に、俺は間抜けな声を上げていた。

 結局俺は、その後取説作りやディスクの盤面のデザインまでやらされ、布団が心配だというのに定時になっても帰らせて貰えなかった。
 あー、なんだか布団干した気がするなぁ、やっぱ……。
 何度も言うが我が愛妻は食べる専門の女房なので、布団を取り込む機能はない。つーか、もう少しみぃの脳みそのパワーがあったら布団くらい適当に干しておけるんだがなぁ……。
 認めたくはなかったが、俺もいい加減疲れているんだと思う。もう笑わないみぃ。喋ることはないみぃ。俺を「博士ぇ」と呼んでくれないみぃ。
 理性じゃそんな思考は今すぐ止めちまえと言っているが、俺は昔から自分の制御がヘタな人間だった。やはり、失望は隠せそうもない。
 もちろん俺だってバカなガキじゃない。完璧を望むようなことはしないし、自分の思い通りにならないと我慢できないなんて、戯れ言をほざく気も毛頭無い。
 ただ、俺はむかしのみぃに戻って欲しいだけなのだ。記憶を消す前のみぃの事が、今になって思えば俺は大好きだった。
 基本的に言うこと聞かないし平気で嘘はつくし、廊下で酔っぱらって寝ていた事もあった。あの頃の俺は、みぃを中心にして回っていた。踊らされていたと言っても過言ではないだろう。本気で頭来ることも多かったが、しかし、それ以上にみぃの笑顔を見ることが、嬉しくて嬉しくて仕方なかったのだ。
 だが、今家で俺を待つあいつはもう、あの笑顔を無くしてしまった。外見が似ているだけの、無愛想な別人だ。
 せめて人並みに笑ってくれりゃなあ……!!
 俺は胸にどす黒く渦巻き始めた怒りを感じ、あわてて思考を切り替えた。
 だめだだめだ、これ以上は考えちゃいけない。これ以上感情の赴くままに思考を走らせたなら、きっと俺は取り返しがつかないことをみぃにしてしまう。冷や汗をかきながら、未だドクドク脈打つ心臓の鼓動に耳を澄ませ、俺は努めて冷静を装う。そうだ、今は仕事中さ。家で待つマイハニー(死語)のために、さっさと切り上げてこんなところからバッくれよう。
 白々しいくらいに心を湧き踊らせながら、俺は賢明に自分をごまかしていた。ここ数ヶ月、こんな見苦しい嘘をつく回数がじわりじわりと増えていた。

 その日の夜。まんまと自分を騙し仰せた俺は、何とか仕事を片付け家路をひたすらに急いでいた。やはり気になるのは布団である。俺の部屋の窓に、白くてビチャビチャした物が引っかかっていなければセーフである。
 疲れた体にむち打ち、ヒィヒィあえぎながらチャリをかっ漕ぐ俺の視界に、我が愛の巣が見えてきた。どうだ、俺の布団……!
「よしっ!!!」
 窓には何も掛かっていなかった……! 俺は戦いに勝ったんだ!!……等とワケの分からないノリで一人ガッツポーズをとり、俺はチャリを駐輪場に駐める。ああ、今日は本当にゆっくり寝られそうだ。みぃには悪いが、せめて今日だけはじっくり寝たいもんだ。
 俺は玄関の鍵を開け、自分の部屋の中を見渡した。とりあえず、布団はいつも通りに部屋の隅に置いてある。やっぱり干してなかったか。そしてみぃもいつも通りにテレビの前にちょこんと座り、なにやらやかましい番組を鑑賞中だ。
「ただいま。元気にしてたか?」
「………☆」
 みぃはちらっと俺を見ると、再びテレビに向き直る。かなり無愛想だが、それでも俺には彼女の機嫌の良さが伝わってくる。今日も喜んでいるようだ。
「そーかそーか、元気なのは良い事だぞっと」
 俺はみぃの隣に座り、彼女を抱き寄せる。テレビを見ているのに邪魔されたとでも思っているのだろうか、みぃは微妙にふくれた顔をしながらも、あぐらをかいた俺の体にすっぽりはまる。
 ふわりと、みぃの髪から甘い香りが漂ってきた。マイハニー(死語) はその名の如く、甘い香りがするいい女だ。実に安心する。俺は無意識のうちにみぃを抱きしめていて、その華奢な体をまさぐり胸の柔らかみを手のひらでもてあそぶ。俺はみぃの首筋に舌を這わせ、そのまま彼女を押し倒した。
「………」
 みぃはいつも通りに無感動な瞳で俺を見ている。
「……昔のみぃなら、一体どんな顔するだろうなぁ……」
 俺は朦朧とする頭でそんなことをつぶやいていた。ああ、なんかもうダメだ。激烈眠い。みぃのおっぱい触ってたら、安心してヒドい眠気が襲ってきた。
 すまんなみぃ、お前の旦那はおっぱいだけ味わってさっさと寝ちゃうロクデナシだぞ。俺はみぃの頭を何度も撫でてやる。
 博士……
 俺の意識が飛ぶ寸前、みぃの声が聞こえてきた。ああ、確かこいつはこんな声だったなぁ……その辺のゲームの声優さんよりも、よっぽど萌えチックでイイ感じだ。
 俺は久しぶりに聞いたみぃの声の幻聴に、変な感慨を覚えつつ夢の世界に落ち込んでいった。

 ちなみに翌朝はいつも通りに寝過ごして、隣に寝ていたみぃを間違って蹴飛ばしたうえに体を踏みつけて、彼女の青筋を立てて憤懣やるかたない視線に見送られながら家を飛び出ていったのは、敢えて言うまでもない些末な事象だろう。

歌声 A song

 秋になった。
 巷では天高く馬肥ゆる秋だの食欲の秋だの読書の秋だの言うが、我が社は一年中性欲の秋だ。ひたすら漢のロマンを塗り込んだエロゲを生産し続けている。本屋に行って業界専門誌(ヒトは単にエロゲ雑誌とか言うが)をパラパラめくると、自分が塗ったおっぱいの絵に出くわすことも多い。つまりは我が社の性品……もとい、製品は結構売れていて、ソコソコファンが居ると言うことだ。
 そんな折、我が社は念願のファンクラブ設立と相成った。以前よりユーザ登録葉書には「ファンクラブキボンヌー!」だの「はよ作らんかゴルァ!」だの「ハァハァ。ファンクラブ、うっ」だの、なんだか書いたヤツの情熱と知性の程が知れるようなありがたいお言葉を数多く書いて頂いていた。
 なので我が社ナンバーワンのトラブルメーカー、別名社長が「ここにファンクラブ設立を宣言したく、鞭をふるうものである!!」などと言いだしたもんだから、一部のファンは嬉しいだろうが”ファンクラブ担当”等という悲劇極まりないステキな役職を押しつけられた俺はまったくもって実直に不幸だよ!!
 つーか、ファンクラブの仕事を増やしたいんなら、やれ色塗りだの影付けだの外箱のデザインだのトイレ掃除だの灰皿のゴミ捨てだの出枯れたお茶っぱの入れ替えだのクサいスリッパの消臭作業だの、そういった訳の分からん雑務はお役ご免にするというのがヒトとして正しい選択というものだろう。それなのにそれなのに、俺は何度となく「自分はプログラマーです!」と元気いっぱい宣言するのに可憐にスルーされるだけでなく、仕事は増えるだけ増えやがった。
 まぁ、最近は色塗りもだいぶ慣れてきたので、いつかのように連日泊まり込みなんて悲惨なことはちょっとは減ったが、クソ忙しいのは全く変わりやしない。
 おかげで食う専門の幼妻をぎゅっと抱きしめる暇もなく、ホントにヤツは食うだけ食って家でゴロゴロしてる状態になっている。正直言って、みぃに対する刺激が減るのはなんとしても避けたいのだ。出来る限りみぃと一緒にいてやり、もっと彼女に刺激を一杯与えて、なんとしても昔のような、感情たっぷりな彼女に戻してやりたいのだ。
 そもそも俺は、状況に流されまくったあげくに、家でかーちゃん相手にブツブツ愚痴を垂れるようなシケたサラリーマンではないので、己の置かれた苛烈な状況に与することなく、社長相手に人員の追加の計画を毎日のように提案していた。その甲斐あってか、ファンクラブの仕事で黄泉の入り口が見えそうなくらいにくたばっていた頃、やっと社員が一人増えたのだった。
「杏子ともうしまぁ〜す。よろぴく〜☆」
 なんだか変なヤツだった。年の頃は20代半ば。いい年こいた、外見は立派な大人である。それが語尾に☆なぞ付けてぶりっこしてやがる。
 俺は今までロリだのペドだの萌え潰しだのと散々言われてきた男だが、今の職場や前の職場にウヨウヨ居るように、女子校生とかツンデレとかに特別な感情と価値観を見いだす人種ではない。だからいい年こいた女が若い雰囲気を出しているのを目の当たりにしたからといって、隣にいる部長のようにあからさまな敵意を向けたりするような幼稚な態度は取らない。ヒトとして当然だよな。つーかあんた、副社長を押しのけて面接やったあげく、そいつを雇った張本人やろがい。ロリッ子が好きならそういう外見と中身のを雇えばいいんだ。俺は後でどうなっても知らんぞ?
 俺が模範社員よろしく会社のいく末を案じていると、今まで珍しく口を閉ざしていた社長が杏子と自己紹介した女の隣に移動し、
「では、新入社員の教育その他指導は、つい先刻まで新入社員であり暇な武由にやって貰うこととする! 以上!!」
 等とぶっこきやがった。
 ちょっと待ったれやそこのオッサン!! キサマは今とても間違ったことを2つも言いやがった! 一つは俺は新人教育なぞしてる暇は無い! それにもう一つは、俺は今の今まで新入社員だったんですか!?
 俺はこの熱くたぎる魂の叫びを視線に込めて社長の野郎に送ったつもりだったが、ヤツはそんな情熱的なアイ・ビームにひるむことなく、いつもの抹茶のお椀で出がらしをづるづる飲んでいやがる。
「センパイ、ヨロシクお願いしま〜すっ☆」
 そして件の新入社員は、あり得ないことに俺の腕に自分の腕を絡ませ、形の良く大きめの胸を肩にそっと触れさせてきた。
「お、おい……」
 そんないきなりのモーションにシャイでナイーブで奥手な俺なはどうしたもんだか一瞬とまどっていたのだが、何時しか他の社員の禍々しいまでの黒いオーラが、その場を窒息するくらいに満たしているのに気がついた。
「い、いや、諸先輩方、これは……!!」
 俺が絶対的に正当な言い訳を述べる間もなく、
「武由、業務命令!! キーボードの間に溜まったごみ掃除全員分!」
「んー、黄金比を体に刻みつけてやるんだね〜、ハァハァ」
「殺。」
 つーかまてよ! 何だってんだいその仕打ちは!? それに部長、その一言いやマジでホント怖いっす勘弁してくださいお願いしますから!!
「センパイ、早くあっちでイロイロ教えてくださいよ〜☆」
「あ、や、だからそういう勘違いされるような言動および態度は……!」
「武由! 業務命令!! 全電話のカールコードのよじれを修復!!」
「んー、タブレットの気持ちを味わってみるかな〜、ハァハァ」
「轢死。」
 だからオマエら待てと言ってるだろう! それに部長、これ以上近づかないでくださいって! そして社長、何か地味な作業ですよねそれ!!

「ぐ、はっ……!」
 俺は机に突っ伏し、魂までもが全部抜けていきそうなくらい重々しい溜息をついた。
 時は午後6時。世間一般では終業時間といわれているらしい時間ではあるが、我が社にとっては単に短い針が6の上に乗っかっているだけの時間である。さて、これからが本番だ……!
 俺は今の今まで、ずっと新入社員に社内の設備や約束事などを説明していた。もちろん普通にやれば、ぐはあ等という溜息をつくような事態に陥ることなどなく、1時間も掛からずさっさと終わるであろう。しかしあの女は事ある度に俺に変なモーションを掛けてくるし、それを目撃した他の社員は逐一俺をいぢめる。
 つーか、この輝くまでに綺麗になったオフィスはどうしたもんだろうか。説明していた時間なんてほんの十数分で、後はひたすら掃除ばっかりやらされていた気がする。
「センパイ、今日もお疲れ様でした〜☆ えっとぉ、これからぁ、ふたりの親睦を深めるためにぃ、ちょっとオトナなオ・ツ・キ・ア・イがしたいな〜☆」
「だから……!!」
 遅かった……。
「武由!」
「ハァハァ!」
「憤死。」
 もはや抗弁する暇も与えられない。俺は襟首を捕まれると、そのまま表に引き摺り出されたのだった。

「ぐ、はあっ………!!」
 俺の口からは、先ほどよりも数段重々しい溜息がこぼれ落ちた。それはもはや液体を通り過ぎ、固体化しているものと思われる。
 結局庭の草むしりとタブレットの神聖さと断頭台の歯の気持ちを迫られ、通常の精神では到底耐えられないような精神的拷問をしばしの間受けたのだった。
 そんな凄惨な時を過ごし、机でうなだれ真っ白に燃え尽きた俺に、
「せ〜んぱーい、大丈夫ですか〜?」
……などと、どう考えても場の空気を読んでいない杏子がすっとぼけた声を掛けてくる。
「……ほっといてくれ頼むから……あんたの空気の読めなさはみぃよりひでーよ……」
 思わず愚痴とも独り言とも付かない言葉が、俺の口からこぼれ出た。
「みぃって……失敗作の天使でしたっけ?」
 思いもしない言葉が杏子の口から発せられた。
「何だ、あんたみぃを知ってるのか?」
 俺の問いかけに、杏子はなんだか嫌悪感を抱くような笑顔で、
「有名ですよ〜。お金ばっかり掛かったくせに全然役に立たなかったって〜。あ、でもセンパイが引き取ったんですよね? あ、あと、役に立たないとかって、あくまでみんなのウワサですし☆」
「フン……あいつ以上に俺が役立たずだけだっただけだよ」
 もう、何度と聞かされた非難の言葉。聞き慣れているはずだが、それでもムカツク。俺をコケにするには全く構わない。紛れもない事実だからだ。俺はみぃという素晴らしい可能性を活かすどころか、完全に無駄にしてしまった張本人だ。大バカ野郎だ。一生許さない。
 でもな、みぃの悪口を言うのは絶対ヤメロ。あいつは何も悪くないんだ。
「えー、でも良く窓ガラスとか割ってたじゃないですか〜。毎回怒られてたのに全然反省してなさそうでしたよねー」
 だから止めろと言うんだ。大きなお世話だよ。……ん、でもこいつ……
「何でそんなこと知ってるんだ?」
「ええ!? だって私、研究所にいましたもん」
「ふーん……」
 そうだったのか、全然知らなかった。
「あー、センパイ全然知らなかったなんて顔してますねー?」
「その通り。元々人付き合い苦手だし、自分の部署の人間くらいしか覚えてねーよ。それに俺は研究所に良い思いでがあまりないもんでな。思い出したくもない」
 たぶん俺は相当頭に来てるんだろうなぁ。感情にまかせて、とげとげしい言葉ばかり吐いている。
「しょっくー! 私はセンパイのこと知ってましたよ〜?」
「ふーん、申し訳なかったな……」
 俺はなんだかめんどくさくなって、帰り支度を始めた。もう仕事なんて出来る状態じゃなかったし、正直言って、俺の研究所時代を知る人間に出くわして、心中穏やかではなかったのだ。
 別に後ろめたさなんて無いが、でも、俺はあの場所から逃げ出してきたのだ。過去が、俺を追いかけてきたような物だった。

 翌日。天気は曇り。気温は上がらずちょっとだけ涼しさが強調された日だった。
「うー、さぶさぶ。」
 俺は未だ暖房が効いていないオフィスの自席に座り、ログインカードをパソコンに突っ込んだ。さて、今日の仕事はシナリオチェックと影入れとBGMの音量調整とファンクラブのWeb更新とマニュアルの原稿チェックとトイレ掃除と観葉植物の水やりと灰皿の掃除と非常食料の買い出しと新人教育だったか……………。
 今日も一日、プログラマとしてステキな仕事が一杯だナァ〜、へけけけけ。
 ……いかん、一瞬反転してしまったようだ。壁に掛かってる鏡には、なにやら凄惨な顔つきをした自分の顔が映っていた。頼もしいことに、人を2〜3人括り殺しても許して貰える位迫力があったな。こわっ
 俺は自分の顔を両手でペシペシ叩き、凝り固まった顔面の筋肉をリラックスさせる。うむ、いい年こいた漢たるもの、いつでも余裕を演出することが大切だ。
「よしっ」
 リラックス完了! さて、これで今日もすがすがしく仕事をだな……
「武由〜、お茶〜」
 ンだとコラァ!! ブチくらすぞぐらぁ!!
 社長は俺に向かって、トレードマークの茶碗を突き出している。
 く、落ち着け俺! 余裕とか言っておきながら、3秒後にコラァとか言っちゃいけませんって。
「はいはい、今すぐ〜♪」
 俺は取り急ぎ自分をごまかすために、ニコニコしながら席を立つ。よしよし、このまま晴れやか、穏やかに仕事をだな……
「武由〜、ついでに新聞〜」
 ンだとテメェ、殺ンのかゴルァ!!!

 ……ダメだ。致命的な構造的欠陥がある。そもそもゆとりのない人間には、ゆとりなんか演出出来るもんかい!
 そんな当たり前なのか単なる屁理屈なのか、価値の感じられない思考を頭の中でぐるぐる回しながら、俺はお茶と新聞を社長に渡した。
「ふうっ」
 そんなわざとらしい溜息など一つつきながら、俺は再び自分の席に着いた。
 昨日は久しぶりというかなんというか、割と早い時間に家に帰った俺は、最近ご無沙汰だった愛しのマイハニー(死語)と熱い時間を共にした……ハズだった。
 結局、なんだか途中でむなしくなって、みぃを抱くのを止めてしまったのだ。昼間、杏子の吐いた暴言が、何度も頭の中にこだましていたからだ。
 俺は、必死に自分を騙しているはずなのに。そして、だからこそなのだろうか。あのとき自分が抱いていたみぃが、自分の好きなみぃと全く別人であるということを……認めちゃいけない厳然たるその事実を、杏子の言った「失敗作」という言葉が何度も何度も俺に思い知らせるのだった。
 やはり、俺は諦めが付かないのだ。昔のみぃに逢いたい。みぃのすっとぼけた声が聞きたい。目の前で、あの綺麗な羽根を使ってぶんぶん飛び回って欲しい。そして、それが叶わぬのならば、せめて今家にいるあいつが、みぃを思い出させるあいつが居なくなれば……っ!

 パンッ!

 俺は瞬間的に、自分のほほを両手でひっぱたいた。完全にリミッターを解除したから、ほっぺたがじんじんするどころか感覚すら無くなっている。
「おー! 武由、気合いの入れ方が違う! その意気や、良し!!」
 等と社長はニヤニヤ笑い、俺は涙がぽろぽろこぼれる顔でにんまり笑ってやった。
 くそっ! くそっ! くそっ!!!
 痛さなんかで涙が出るもんか! 俺は、自分自身が憎くてひと思いに殺してやりたいくらいだよ!!
 でも……それでも、あの瞬間の俺の気持ちは………考えたくないことだが、たぶん、どうしようもなく切実に、そして紛れもなく……心の奥底にわだかまった、本心、だったのだろう……。
 くそっ………!
 俺は席を立ち、何食わぬ顔でトイレの個室にこもった。そして連日のイジメで新品を越えるくらいの艶を持った便器に腰掛け、頭をガリガリ掻きむしった。
 真っ赤に腫れた顔に、再び熱い涙がボロボロこぼれる。
 目の前には、研究所時代のみぃの笑顔が、怒濤が如く押し寄せてくる。それと同時に、笑わないあいつに失望させられた辛く冷たい感情が、いつかみぃの言ってた真っ黒な腐臭を放つ膿となって、俺の心のひびから湧きだしてくる。
 ああ……もう、ホントにダメだ……!
 俺は、家にいるあいつを、もうこれ以上認めることは出来ない……。みぃに、昔のみぃに逢いたいんだ!!

 結局、それから10分くらい掛かって感情の暴走を押さえつけ、涙をトイレットペーパーでぬぐい、洗面所で顔をごしごし洗った。
 ほっぺたも目も真っ赤っかだ。なっさけないったらありゃしない。サラリーマンが朝っぱらからする顔か、これが。
 そんな、自分自身のボロボロな顔に一人ツッコミを入れる程度の平常心を取り戻した俺は、ハンカチでさっさと水気を拭き取り、トイレから出たのだった。
「センパイ! おはようございま〜すっ☆」
「ん、ああ……おはよう」
 オフィスに、杏子の黄色い声が響く。ああ……研究所でみぃが喚いていたときも、こんな感じだったなぁ。
 杏子は今日もニコニコ笑顔を振りまいている。朝っぱらからささくれた俺の心には、そんな彼女の笑顔がまぶしかった。
「センパイ、今日は何をすれば良いんですか〜?」
「ん、そうだな、ファンクラブのウェブの更新をお願いして良いか? HTMLは分かるか?」
「任せてください! 全然分かんないけど頑張ります!」
「おいおい……まぁ、良いか。教えてやるからちゃんと覚えろよ」
「はーい!」
 実際、分かってない人間に物を教えて仕事をやらせるよりも、自分でやっちまった方が早いことが殆どだ。しかしそれではいつまで経っても後進が育たないし、それに自分の仕事も減りやしない。
 俺は自分の仕事も多量に溜まっていたが、とりあえず杏子にHTMLの説明を始めた。
「センパイ、教えるのとっても上手ですね☆」
 しばらくしてから、杏子はそんなことを言い始めた。
「……お世辞言っても何も出ないぞ」
「違いますよぅ、要点のまとめ方とか指示の出し方が上手いなってー」
「ああ、そりゃ前にもっと出来の悪いの教えてたからな」
「それって……みぃですか?」
「ん、そうだ」
 ………。
 忘れてたよ。俺、そういえば、みぃに色々勉強やらなにやら教えてたんだっけ。正直、あいつと遊んでた記憶しかねーな。ああ、だから結局ダメになちまったんだ。くそ……
 そんなささくれだった心境が顔にでも出ていたのだろうか、
「センパイ、なんか悩みでもあるんですか〜?」
 杏子は心配そうな目で、俺を下からのぞき込んでくる。
「あの、私、センパイのためだったら何でもしますよ?」
 そんな激しく勘違いされそうなセリフを吐く彼女に視線を向けると、薄手の服からのぞく鎖骨から形の良い胸の谷間までがもろ見えだった。うわ、黒いブラまで見えてる。
「いや、あのな……」
 俺はあわてて視線をそらし、元々真っ赤に腫れていた顔を微妙に赤くしていると、
「武由!!! オフィスラブは禁止!」
「デッサン人形として第二の人生を歩むか〜、ハァハァ」
「成仏。」
 いつものメンバーが、いつものツッコミを入れてくる。だから部長! あんたそんな親の敵を目の前にした浪人みたいな目でこっちを見ないでくださいって! どう考えても成仏できないっすよ、そんなむごい視線で睨まれたら!!
 それから小一時間ばかり、俺はオフィスにある全パソコンのファンに溜まった埃取りをさせられたのだった。
「くっ、俺にどれほどの掃除をさせれば……!」
「武由! ファンクラブのWebの更新を可及的速やかに行うことを宣言せよ!」
 うるせぇ! キサマが俺に作業をさせないだけだ!
「出来る限り早めに作業しますーっ!」
 俺は極めて投げやりに返事し、再び杏子にHTMLの作り方説明を始めた。
 とりあえずその日も夕方になることには、杏子は何とかHTMLの基礎くらいは分かってきたようだった。大して飲み込みは早い方ではないが、まぁ及第点といったところだろう。
「じゃあ、後は一人である程度出来ると思うから、分かんなくなったら呼んでくれ」
「はーい!」
 俺は杏子に仕事を任せ、彼女もそれに応えてくれている。HTML自体は本を読みながらおっかなびっくりに打ち込んでいるが、そのほかのキーボード操作など俺なんかに比べてめっぽう速い。時々社内で行われる、即興のキーボード早打ち選手権にも優勝できるかもなぁ……
 まぁ、とりあえず俺は残った仕事を片付けさせて貰おう。何となく新人指導がうまくいっていることに気をよくした俺は、しばらくぶりに晴れやかな気持ちで自分の席に着いた。着いたハズだった。
「武由! 時間がない!! タブーの補佐をすれ!!」
 ハハハ、笑わせるぜセニョール! 俺にどれだけ仕事を突っ込めば気が済むんだ?
 社長の野郎が何か言う前に、既に俺のメールボックスには大量の線画だけのCGが送り付けられていた。
「タブーの出力を持ってしても、これら絵画を明朝までに完成させることは叶わん! 全精神力を持って任務を遂行する事をここに宣言すれ!!」
 サー! イェッサー! 自分はキサマに腐れ外道と進言いたします! つーか一度死ね、この馬鹿野郎が! こんな枚数(ちなみに23枚もあるの♪)、一晩で塗れるわけ無いだろうがよ……。ついでにエロゲのCGを絵画って言うな!
「文句言う暇なあったらさっさと塗れ!」
「やかましい! あんただって塗れ!!!」
「あぁんっ」
 くっ、思いあまって社長に向かって怒鳴りつけた俺もサラリーマンとしてダメダメかも知れんが、あぁんってもだえやがったぞあのオヤジ!! くそ、人として終わってやがる……!
 とりあえず、社長もタブレットを引っ張り出してゴリゴリ塗りだしたようだ。つーか……シナリオも音楽屋もプログラマも、みんなタブレット持ってる時点で何かおかしくねーか、この会社。
 まぁ、愚痴ばかり言ってても始まらないのは真理であるので、俺も色塗りを始めることにした。メールボックスには23枚の線画の他に、1枚だけ副社長が塗った完成画が入ってた。むぅ、さすがにプロだな。俺は別に二次元だけにハァハァしているようなヲタではないので、仕事じゃなきゃこんな絵描いたり見たりしないんだが、やはり上手い。絵全体が輝いている。
 俺はそそくさとお絵かきソフトを起動し、完成画から色をスポイルして線画にぺたぺた色を載せ始めた。
 それから12時間後。もちろん太陽はまだ昇っている。否、一度沈んでまた出てきやがったんだ。
 今のところ、進捗は18枚完成、19枚目65%といったところだ。さすがに朝までには無理だったが、何とかなるだろう………と思っていたのだが、俺にこんなご無体な仕事を押しつけた社長の野郎はあろう事か、俺の目の前でガーガーいびきをかいて呑気に寝てやがる!
 良い度胸だ、その型くずれした鬱陶しい口に、ぐつぐつと煮えたぎる熱湯をどぶどぶ流し込んでやろうか!? それでもキサマは「この一杯のために生きてる」とか言えるんか!!
 ……ぐぐぐ。落ち着こうぜ、俺。無駄に筆が鈍る。ただでさえ、今はおっぱいの色を塗っているんだ。俺が一番好きな部分じゃないか……!
 俺は以前から買い溜めていた栄養ドリンクを机から取り出し、フタを開けて一気に飲み干した。
「ぐはあっ!!」
 気合い一発、こいつは本当に根性が入るぜ。旨い!!(既に睡眠不足を通り越してナチュラルハイになっております)
 俺は栄養ドリンクの匂いをぷんぷんさせた息をぶは〜っとまき散らし、先ほどから全精神力を注入しているおっぱいにゴリゴリ色を塗り続けた。
 む、イイ感じだ。俺も副社長の境地に近づいてきたのかも知れん。特にこのおっぱいの丸みを表現するグラデーションは、女性の優しさを120%表現している。絵画だ、絵画の域だ……!
 俺は一人悦に入ってニマニマしながら、塗り終えたばかりのおっぱいを堪能していた。
 しかし、
「武由! 教育的指導!! このおっぱいはもっとツンデレに塗れ!!」
「は!?」
 なんだなんだ、またトラブルメーカーが地球に無い言語でなんか喋ったぞ!?
「は? じゃない! もっとツンデレに塗れと言ってる!!」
 落ち着けよ! 疲れてるのは分かるしクソ熱いお茶も入れてやるからさ、そんなマジメにリアクションの取り方分かんなくなるような面白いことを言わないでくれよ!
「あの、シャチョーさん? 仰る意味がさっぱり思考できませんが?」
「だ、か、ら、貴様のおっぱいの塗り方にはツンデレ性が無いと言っている! 追加労働、絵画36枚!」
 ふざけんじゃねぇぞこのヒヒオヤジ!! 塗り方にツンデレもクソもねえよ! そもそもそんな塗り方はこの星には存在しないんだよ!!
「つーかこれ以上仕事を増やすんか!? ワケわかんねぇ理由こじつけて人の生活残業に貢献すんなー!!」
「やかましい!! タブー! この若造に絶対的評価を!」
 今まで俺と社長がギャーギャーやり合うのを完全に無視してひたすらにタブレットを研磨していた(様に描いてた)副社長は、その鈍重な体をのそりと動かし、こちらにぽてぽてやってきた。
「ハァハァ」
 ……もう息切れしてるんっすか、副社長。いい加減痩せようぜ。
「タブー、この絵について可及的速やかな評価を!」
「んー……」
 副社長は、その脂ぎった顔に二つ付属するつぶらな瞳に異様な眼光をきらめかせ、俺の描いたCGを覗き込む。
「んー、もうちょっとチチをツンデレに塗らないとダメだねぇ、ハァハァ」
 お前もか!? お前もそんなことを言うんかタブー!!
「なんすかそのツンデレに塗るって!? だいたいこの子、性格ツンデレじゃないし!」
 俺は童顔でそばかすがちょこっと乗った、丸顔タレ目のロリキャラを指さし、
「彼女の包容力溢れる優しさなら、おっぱいはこういう塗り方をするんだ!」
 精一杯自己主張してやった。
「甘い! 甘いぞ武由! 確かに彼女はドジッ子で、彼氏の言うことには逆らえない性格だ! でもな、でもなのだ! 彼女はそれを潔しとしてはいない! ちゃんといつかは彼氏に向かって”ミカンの皮はゴミ箱じゃなくて生ゴミ入れに入れて欲しいな”って言おうと思っているのだよ! 分かるか武由! むしろ分かれ武由!! この絵画で服を脱がされ彼氏にあそこを優しくナデナデされているときにも、”せめてミカンを食べたあとは手を洗ってからえっちして欲しいな”って、そういう風に思っているのだよ! この恥じらいの表情から、何故キサマはそこまで読めん!? たしかに本編では、くしゃみして味噌汁ぶっかけた彼氏が彼女の服をあわてて拭いているときにおっぱい触っちゃって、それからイイ感じになったのかも知れん! しかしだ、それは多面的に構成される森羅万象を一方的に捕らえたことにしかならんのだ! だからだ、だからこそなのだよ武由! 我々はそこから彼女のおっぱいが、彼女の意識を総合し醸成し具現化し昇華させ、清らかにツンデレな光を燦然と放っているのだと、そう感じなくてはならないのだ!! わかるか!?」
「わかるかーーーーっ!!!!!」
 腐ってやがる! こいつらの脳は果てしなく腐ってやがる!!
「武由! 業務命令!! 可及的速やかにツンデレな塗り方をマスターせよ!!」
「出来るかーーーーーっっっ!!!!!!!」
 のどから血が噴き出すくらいに叫んでやった。俺は悪くないぞ、絶対に。
「センパイ☆ 私の胸を見てツンデレの練習してください♪」
 なんだとぅ!? この期に及んで事態をややこしくするようなことを言うんかこのバカタレは?!
ぼこっ
「いたっ!!」
 あ、やば、昔のクセで叩いちゃった。
「す、すまん!」
「何するのよ信じらんない!! 悪いと思ってるなら早く頭を撫でなさいよっ」
 そう言って杏子は、俺の目の前に頭を突き出して来やがった。
「ぅおおお〜〜〜っ!!! ツンデレ様のご降臨じゃ〜〜〜!! 聖なるかな聖なるかな、者共頭が高い! 畏れひれ伏し崇め奉れ〜〜!!」
「ツンデレハァハァ」
「萌。」
 くっ、また出てきやがったな部長! あんたそれが雇った理由だったんか!!
 つーか、ツンデレってこういうのだったっけ?? 俺はもう、世の中で何が正しくて何がイケてないのか、さっぱり分からなくなっていた。
「乱暴な人は嫌いよ!! でもあなたのためなら、おっぱい見せてあげなくもないんだから……」
 こんな状況にも関わらず、杏子は瞳をウルウルさせながらまだそんなセリフを続けている。
「武由!!! 追加業務、マニュアル原稿執筆全ページ!」
「ついでに特殊効果エフェクトツンデレ仕様の制作、ハァハァ」
「狂死。」
 だから待ちやがれお前ら!! それに部長! それ最高に嫌な死に方じゃないですか、いや、こっちに来ないで!!

 それから俺は……もはや語るまでもないだろう。結局それから2徹もさせられ、意識が幽体離脱しかけたところで家に逃げ帰ったのだった。我ながら良く逃げおおせたもんだ、あんな阿鼻叫喚の地獄絵図から……。

 翌朝。
 俺は、玄関先で突っ伏したまま寝くたばっていた。そして目覚めた瞬間、自分自身の傷んだサラリーマン人生を力一杯呪ってやった。悲しすぎるぞ、この寝方は。何とか毛布くらいはたぐり寄せていたようだが、如何に疲れていようと靴履いたまま玄関で寝るのはハイエンドすぎる。それに変なところで寝た所為で、体のあちこちが変な軋みを上げている。
 俺は起き上がり、部屋を見渡した。みぃはテレビの前で丸くなって寝てやがった。そういえばこいつ、ちゃんとご飯食べてるんだろうな。部屋のあちこちに転がる弁当ガラを見ていると、何とか飯は食えているようだが……
 昨日……いや、もう一昨日だろうか。俺はみぃが居なくなればいいなどと思ってしまった。あの時は、かなり精神的に疲れていて、今ともなれば目の前で気持ちよさそうに寝ているこいつが居ない方が良いとまでは、さすがに思えない。まぁ、これはこれで触り心地は良いし、時々変な声を上げるので新鮮みはある。それに、ちゃんと面倒見るって約束だしな。
 俺は未だ靴を履いたまま玄関に突っ立っているのに気がついて、あわてて靴を脱いだ。そして台所のシンクやちゃぶ台で山のように積まれている弁当ガラを片付け始める。しかし、結構な音を立てているにも関わらず、みぃは寝たまま起きやしない。人が疲れて帰ってきてるのに、お帰りなさいの言葉も無しかよ。
 台所を片付け終わった俺は寝たままのみぃをまたいで部屋の奥に移動し、敷きっぱなしの布団や毛布を適当にたたんで部屋の隅に置いておいた。窓から見える空は一応晴れてはいるが、正直この間みたいに何時雨が降るとも知れないし、不用意に勝負を掛けるのも面倒なので外に干すのは諦めた。全く、ホント布団くらい入れる機能があっても良いだろうがよ……
 だんだんと腹の立ってきた俺は、ふてぶてしく寝たままのみぃのケツを軽く蹴飛ばしてやった。
「っ!?」
 彼女はびくっと震えると、辺りをきょろきょろしやがて俺に焦点を合わせる。
「………。」
 みぃは何を考えているのやら……いや、何も考えちゃいないのは分かってはいるのだが、その無感動な瞳で俺を見ているだけだ。
「せめて布団入れるとか、弁当ガラ片付けるくらいの機能があったら良いんだけどなぁ………」
「………。」
 存外に、きつい口調で言ってしまった。何となく、みぃはしょんぼりとした顔をしている、まぁ、これも俺の気のせいだろうけど。
 そんなときだった。不意に、杏子の元気な声が思い出された。
 ああ、そういえば、彼女のやかましいしゃべり方は、なんだか昔のみぃを思い出させるなぁ……。前の研究所にいた頃の思い出といえば、なんだかみぃがうおーうおー喚いていた記憶が多いが、実際ヤツが生まれるまでの研究所は静かなモンだった。別に笑う事なんてほとんど無かったし、あの変なオッサン達や変態共も、割と大人しかったもんな。
 つまりは、みぃがそれだけ研究所の雰囲気を変えていたということだろう。全く……そこいらの人間よりもよっぽどすげえじゃないか。そんなのを台無しにするなんて、やっぱりどう考えてもおかしい。納得できない。理解できない。あまりにもバカすぎて、それを表現する言葉も思う浮かびやしない。
 俺の怒りはだんだんと高まっていき、終いには歯を食いしばって手を握りしめていた。こんなとき……こんな辛いとき、誰も俺を慰めてくれやしない。目の前に座る女は、俺をただ眺めるだけだ。全然役に立たない……。
 ダメだ、このままじゃ精神的におかしくなりそうだ。
 俺はそそくさと靴を履くと、何も告げずに家を出た。別に、何か言っても、みぃは分かっちゃいないのだ。構わんだろう……。
 俺は何に対してふて腐れているんだか分からないくらいにふて腐れながら、乱暴に自転車を漕ぎながら会社に向かった。
 サラリーマンたるもの、心の平静を取り戻すには無心に仕事するに限る。幸い、我が愛する職場は修羅の道。雑念や妄念を振り払うにはちょうど良いさ。
 やがて俺は会社に着き、オフィスのドアを開ける。
「武由! 早朝勤務甚だ結構!!」
 社長は既に来ていて、いつもの茶碗で熱湯を飲んでやがる。そして、
「おはようございまーす、センパイ☆」
 杏子がチョコチョコ寄ってきて、ぶりっこな挨拶をしてきた。
「ああ、おはよう」
「あれ? センパイ、なんか元気無さそう……。何かあったんですか? 大丈夫ですか?」
 俺のシケた挨拶がまずかったのだろうか、杏子は心配そうに顔をのぞき込んできている。
「いや、なんとも無いぞ?」
「全然何ともないなんて顔してませんよぅ。えっと、辛いことあったら、私ちゃんとお相手しますから、なんでも言ってください! 愚痴でも何でも聞きます! 人に話したら元気になることは多いですよ?」
 なんか真剣そうに喚かれているのだが……俺はそんなヒドい顔をしているのか?
「いや、ホントに何ともないけど?」
 俺は笑いながらそう言ったつもりだったのだが、
「センパイ、涙、出てる……」
 しまった、やっぱりホントかよ! どうしちまったんだ、俺!?
「いや、これは……」
 とりあえず勝手にこぼれる涙を手の甲でぬぐいながらあたふたしていたのだが、
「こっちに来て……!」
 杏子は俺の手を引き、オフィスの奥に存在する、今では殆ど社員の私物倉庫と成り果てその役目を果たせなくなった仮眠室に引き入れた。そしてドアを閉めると、後ろ手に鍵を閉める。
「これでうざいヤツは誰も来ません! ……センパイ、どうしちゃったんですか?」
「いや、俺にもさっぱり……」
「無理してるんじゃないんですか!? センパイ、前の職場の時と全然表情違います……とっても辛そうな顔してます…!」
 杏子は心配そうに俺を見つめている。
 ああ、そうか……分かったよ。俺、嬉しいんだ。俺を心配してくれるヤツが居るってのが、単純に嬉しかったんだ。
「いや、ありがとうな。……まぁ最近疲れてたし、ちょと気が緩んだんかもな」
 ぼちぼち涙腺が落ち着いてきたのか、既に涙も止まり、
「だから無理しないでください、全然平気じゃないですよ!」
 杏子はそう言うと俺の頭を抱き、自分の胸に押しつけた。みぃのうすべったい胸とは違う、圧倒的な弾力が俺の顔面を覆う。
「お、おい……」
 言葉では逆らおうとするものの、体はやっぱり素直だ。さすがに押し倒してどうのなんて所までいきやしないが、素直に心地良いと感じてしまう自分自身がなんだか惨めでもあり、そして正直気が楽だった。
「センパイ、女のコのおっぱいは癒しの効果があるんですって。………癒されますか?」
 杏子のくぐもった声が、彼女の体を通じて、心音にと重なりながら耳に届く。
「ああ……癒されるな……。」
 俺は体の力を抜き、杏子の胸の柔らかさと規則正しい心音を感じながら、変な姿勢のおかげで腰が痛くなるまでそうしていた。

「ん……もう大丈夫だ」
 十分すぎるほどに杏子の胸で癒された俺は、ゆっくりと顔を上げる。
「うん☆ センパイだいぶ顔が元気になりましたよ」
「ありがとうな。おかげでだいぶすっきりしたよ」
 俺は自分のほっぺたをごしごし擦りながら、夢心地な自分に気合いを入れる。
「すっきり? だったらここ、ベッドもあるし……体もすっきりします?」
「ぶっ!」
 おいおい、それはいくらなんでもステキすぎる提案だ。俺が独身なら、間違いなく発注を出してしまうじゃないか……。
「いや、もう十分だよ。いい加減仕事に戻らないと、さすがに怪しまれそうだしな」
「あーん! 女のコから誘ってるのにーっ!!」
 げー、社交辞令で丁寧にお断りしたら逆ギレしたぞこの女……。俺に一体どうしろというんだ?!
「いや、そりゃさすがにまずいって。ここの壁薄いから、妙な音がしたら間違いなくあの三人組が攻め込んでくるし」
「見せつけてやりましょう☆ センパイと私の愛は正真正銘です!」
「愛!? それだと不倫になっちまうよ、一応俺、みぃと夫婦って事にしてあるし……」
「不倫でもいいですよーだ! さ、お仕事しましょう!!」
 なんだかぷりぷり怒り始めた杏子はドアを開け、さっさと自分の机に行ってしまった。
 俺はいまいち状況の変化について行けず、首を傾げながら自分の席に戻り……たかったのだが……
「武由!! 先ほどの仮眠室における会話について、一字一句逃さず釈明せよ!」
「すっきりハァハァ」
「切断。」
 うあ、期待を裏切らずにてき出やがったよこいつら! てゆーか部長! ハサミなんか持って、ボクの何を切っちゃうの!?

 あれから3時間ばかり、俺はあらぬ疑いを掛けられてこってり絞られた。つーか何もやましーことしてないのに……
 ん、いや、やっぱ低機能だが妻がいる身として、他の女のコの胸に顔を埋めたのはさすがにヤバかったかな。
 とは言いつつ、実際問題として癒されたのは間違いないだろう。正直言って、今の状態ではみぃは俺の手に余る。あいつでは、俺を支えてはくれないからだ。心が折れそうなとき、支えてくれる人がいないのは、本当に辛い。
 何でこんなことになっちまったんだろうなぁ……
 研究所であいつの世話さえやらなければ、今頃もうちっとマシな嫁さんと結婚してたかもなぁ……
 まぁみぃの性能は良いとしても、この先一体どうなるんだろ。
「はぁぁぁぁ……。」
 俺は無意識のうちに、深い溜息をついていた。
「センパイ、また溜息なんてついて……」
「ん、ああ……」
 後ろから声を掛けてくる杏子に、適当な相づちを打つ。気がつけば既に昼休みである。
「さっきから見てましたけど、センパイ全然仕事進んでないんじゃないですか?」
「う、そうだな……」
 彼女に言われて自分のPCを見てみれば、なんと朝からの書類の入力がたったの3行である。自覚症状なんて無かったが、よっぽどの間脳みそが休止状態になっていたようだ。
 いかんぞ、明日の我が社を背負って立つ若手サラリーマンが、就業時間中に呆けるのは資本主義の否定以外の何物でもないのだ。
 俺は自分のほっぺをペチペチ叩いて気合いを入れ直そうとしていたのだが、
「センパイ……。みぃですよね?」
「……!」
 思わず、俺は後ろに立つ杏子に振り向いた。彼女の声は、何というか………。底冷えのする様な、酷薄な声だったからだ。
「みぃは、OSを壊して全然機能しなくなったって聞いてます。センパイ、そんなガラクタに構って、この先もずっとそんな顔をしてるんですか?」
 何だ? こいつ何を言ってやがるんだ……?
「聞いてますかセンパイ。みぃは完全に壊れていて、二度とマトモに動かないガラクタだって言ってるんです」
 杏子の発するいきなりで冷酷な言葉に、俺は何も言い返すことが出来ないでいた。今まで決して認めたくなかったその『事実』。心の奥底では、冷静で客観的な俺にはもう十分に分かっていたことなのだが、しかしこうも面と向かって言われると、その言葉が自分をここまで絶望させるのだと素直に驚くしかなかった。
「ぐ、う……」
 そして俺は歯を食いしばり、絶望に引きちぎられる心の痛みに耐えるだけだった。
「センパイはしなくてもいい苦労をわざわざ自ら背負い込んでいるんですよ!? その辺に転がってる研究の失敗作じゃないですか。無意味に生かしておくから情が移るんです。電子頭脳を潰して高周波焼却炉で処分すればいいんです!」
 今までの杏子からは、全く想像できない残酷な物言いだった。怒りに顔を歪めたこの女は、みぃを完全に物扱いしているのだ。
「ちょっと、待て……」
 やっとの思いで、ひりつく喉から声を出すも、
「もう待てません!! センパイが可哀想です! どうしてもセンパイが捨てられないっていうのなら、あんなガラクタ代わりに私が焼き殺してやります!!」
「だから待てって言ってるだろうがッ!!」
 自分でも思ってもみなかった大きな声が、事務所にビンと響いた。
 いつしか俺は立ち上がり、脂汗の浮く顔を苦痛にゆがめ、はぁはぁと荒い息をついていた。
「あのな、」
 俺は言葉を続けようとしたが、しかし杏子の声がそれを遮る。
「もう、待ってられない……! みぃなんて焼いちゃえばいいんだ! あんなゴミクズのためにセンパイの人生が滅茶苦茶になるなんて、私絶対に納得いかない!!」
 杏子は全くひるんでいなかった。いくらショボイとはいえ俺のような男に怒鳴りつけられたのにも関わらず、震えるどころかその怒りに満ちた瞳は、俺をまっすぐに射止めている。
「私はセンパイのことを考えて言ってるんです! みぃが何の役に立ってるんですか、センパイの重荷になってるだけじゃないですか!」
 そして、握りしめられた杏子の拳が振り上げられ、
「あんな失敗作のゴミクズ、さっさと死ねばいいんだ!!」
 ダンッ!
 その呪いの声と同じくして、拳は机にたたきつけられた。ただ、その拳は杏子の物ではなく、机を殴りつけたのは俺の拳だった。彼女の振り上げられた腕は、空中でびくっと震え、その動きを止めている。
「いい加減にしろよ……お前にみぃの何が分かるってんだ……。あいつはな、一生懸命兵器になるって頑張ってたんだよ、完璧だったんだよ、失敗作でも何でもない、立派で最高の人間だったんだよ!!」
 その言葉は、俺の無意識から噴き出た叫びだった。そうだ。みぃは完璧だった。あいつが記憶を無くしたのは、完全に俺たちの責任じゃないか……!!
 俺は、みぃの最終試験の時の記憶を、ありありと思い出していた。みぃは数時間も続いた戦闘で、最後まで怪我一つすることは無かった。そして、史上最強最悪と言われたあの黄昏を打ち負かし、その爆発で全てが吹き飛んだ地上に、光る羽根と共に舞い降りた。その時彼女は、正真正銘、この地上で最強の天使になったのだ。
 俺が砂に埋まって死にかけたとき、みぃは笑いながら手をさしのべていた。俺は、その笑顔が大好きだった。そしてその記憶に引きずられるように、みぃがニコニコ笑いながら自分の周りをブンブン飛び回っていた光景が、幾度となくフラッシュバックしていた。
 どうして忘れていたんだろうか。みぃはもう、俺を十分幸せな気持ちにさせてくれていたのだ。
 研究所にいた頃、毎日が楽しくて仕方なかった。一緒にクリスマスツリーを飾ったり、雪合戦で窓ガラスを叩き割った。バレンタインにはチョコを貰った。俺に抱かれて嬉しいって言ってくれた。そしてみぃとのじゃれ合いは、意固地だった俺の心を綺麗さっぱり溶かしてくれたのだ。
 何でそこまでしてくれた女の恩を、いとも簡単に忘れていたんだ俺は……! いくらあいつが何も出来ないからって、みぃにあたるのはお門違いもいいところだ。みぃは被害者なのだ。そして、みぃをあんな状態に追いやったロクデナシの大バカ野郎は、紛れもなくこの俺なのだ。
 くそっ、何テメェのバカさ加減を、最高の女房に押しつけてやがるんだ……!
「……みぃは何も悪くない。全部、俺が悪いんだ」
 俺は自分自身への怒りで震える声で、しかし目の前にいる杏子にちゃんと伝わるように、はっきりと言った。
「意味が分かんない! みぃはセンパイの重荷になってるだけじゃない! でも私は違う、私は絶対にセンパイを幸せにしてみせる!」
 そう言った杏子の目からは大粒の涙がこぼれ、そして彼女の口から嗚咽が漏れてくる。
「……確かにお前の言うとおり、みぃは俺にとって重荷以外の何物でもないさ……」
 俺の言葉に、杏子はこぼれ出る涙を手の甲でぬぐいながら、真っ赤に充血した目でこちらを睨む。
「でもな。あいつは俺のことを好きだって言ってくれたんだ。そして、俺はあいつに一生お前の面倒をみるよって約束したんだ……。それが、俺の人生を掛けた責任の取り方なんだよ」
「だったら、何であんな辛そうな顔してたのよ……!」
 嗚咽混じりの、非難の言葉。
 全くその通りだ。返す言葉なんてあったもんじゃない。
 鹿沼博士に向かって「もう一度真っ白なみぃからやり直します」なんて調子の良いことを、にやけながら言ってから1年くらいしか経ってやしないというのに……。
 俺は、自分の根性と精神力とみぃへの愛情の無さを棚に上げて、あえて言おうと思う。骨抜きになるまで惚れた女の記憶が無くなって、口すらきかなくなったら、確かに辛いさ。かなりショックだし、やけっぱちにもなるだろう。
 でもな、そんなことは前々から分かってたことなんだ。こうなるって分かっていて、でもこの方法を選んだんだ。弱音なんて絶対に吐けないんだ。
 目の前にみぃがいてくれる。
 それだけで、本来は奇跡も良いとこだったのだ。
「すまん、心配掛けて……。俺が、ただ弱いだけだった。みぃが俺を支えきれないんじゃない。俺がみぃを支えきれない、弱い人間だっただけだよ」
「だから! 私ならセンパイを支えてあげられるから! だからみぃなんて忘れてよ!!」
 きっと、そこまで言ってくれる杏子の言葉は、彼女の本心なのだろう。感謝に値する。だが、俺には人生を掛けた償いがある。いや、大好きなみぃとの生活がある。
「すまん……。俺は、君を支えてやることが出来ない。それにみぃは、俺にとって唯一の愛する女だ。捨てるなんてことは、仮定すら出来ない」
 俺は杏子にそう言って、頭を下げた。
 しばらくの間、事務所に沈黙が落ちる。同僚の話し声はおろか、息づかいさえ聞こえない。
 そして、その沈黙を破ったのは杏子だった。
「……………。頭を上げてください、センパイ」
 彼女の声はいつも通りで、あわてて顔を上げた俺が見た杏子の顔は、泣きはらした顔ではあったが笑みが見て取れる。。
「みぃは、本当にセンパイに愛されてるんですね。……分かりました、私はもうこれ以上センパイにご迷惑は掛けられません」
 杏子は、小さくアハハと笑った。
「私、センパイのこと、ホントに好きでした。研究所にいた頃から、ずっと好きでした」
 再び、杏子の目から大粒の涙がこぼれる。
「………ちぇっ、せっかくセンパイのことゲットできると思ってたんだけどなぁ……上手くいかないなぁ……」
 そう震えるつぶやく杏子は、今にも折れてしまいそうなほどにか弱く思えた。
「……すまん、本当に申し訳ない」
「いいですよ、センパイは悪くありません。それにこれ以上は何も言わないで、惨めだから……さようなら!!」
 杏子は俺を軽く突き飛ばしながら、事務所の入り口を出ていった。そして、甲斐性無しの俺は、彼女を見送ることしかできなかった。
「すまん、杏子……」
 そうつぶやいて感じるのは、もう二度と会うことがないであろうこの期に及んで、初めて彼女の名を口にした小さな罪悪感だった。
 俺は小さく溜息をついて、椅子に腰掛ける。時間はまだ昼休みになったばかりだったが、けだるさが全身を包んでいる。
「……早退します」
 俺は未だ黙りこくっている社長にそう告げて、さっさと事務所を後にした。まぁ昨日2徹したし、仕事もそんなに急ぎなのも無かったからたまにはいいだろう。
 俺は社長に呼び止められないうちにさっさとバッくれるため、自分のチャリを大急ぎで自転車置き場から引きずり出していたのだが、
「うぉぉぉぉっっっ!! ツンデレ様が! ツンデレ様が逝ってしまわれた〜〜〜!!!」
等という社長の雄叫びが今更聞こえてきた。
 もしかして、今の今まであまりのショックにフリーズしてたんか?
「ツンデレ、ツンデレハァハァ!」
「獄死。」
 そしていつもの声も、続けて聞こえてくる。
 ヤバイヤバイ。ここで奴らにとっつかまったらこの世の地獄だ。それにどうせ明日になったら結局酷い目に遭うんだ。今日くらいはさっさと家に帰りたい。
 俺は自転車の鍵を開け、勢いよくこぎ出した。社長のわめき声も、あっという間に小さくなる、何となく自分の名前を呼ばれた気もしたが、ここは気にしない方向で攻めてみよう。
 あらかた会社から離れた俺は、ペダルを踏む力を抜いてゆっくりと減速する。ここまでくればさすがに奴らも追っては来ないだろう。久しぶりに明るいうちに家に帰るのだ。もう夏の暑さもだいぶ遠のき、そろそろ冬の足音が聞こえ始める頃である。
 赤や黄色に紅葉した街路樹を眺めながらの帰路も、またオツなものだ。
 そうやってのんびりとボロアパートに戻り、チャリを自転車置き場に並べて鍵を掛けていると
「んまぁ〜、こんな時間に珍しいこと〜! 今日は仕事は〜?」
 等と大家さんの奥様が話しかけてきた。
「あ、いや、いろいろありまして早退したんです」
「んまぁ〜、大変ね〜。体の調子が悪いのぉ〜?」
「いえ、そう言うわけでは……」
「んまぁ〜、だったら今日は天気もいいし、みぃちゃんとお出かけてもしたらぁ〜? みぃちゃんもご機嫌よ〜? さっき一人で鼻歌ふんふん歌ってたわよ〜?」
「はぁ、それはまた……」
 って、おい!!!
「えーと、あの、みぃが歌ってたんですか? ホントに??」
「ええ、ええ、テレビ見ながら〜」
「何だって……!?」
 俺はほぼ反射的に、自分の玄関に走っていた。
 それと同時に後ろの方から
「んまぁ〜、そんなに急がなくてもまだ日は暮れないわよ〜? 若いわねぇ〜〜」
等とのんびりした声が聞こえてきていたが、そんな奥様とのお別れの挨拶をしなかった非礼をわびるだけの心のゆとりもなく、俺は玄関のドアノブをひねる。
 ガッ!
 ドアは鍵が掛かっていて開かなかった。そりゃそーだ。このドアはオートロックなので外からは鍵を開けない限り開きやしない。
「ったく!!」
 俺は悪態をつきながら、指紋リーダーに指を押しつけ解錠する。
 ガチンとロックの外れる音がするやいなや、俺はドアを蹴破るようにして開け、靴を脱ぎ散らかしながら部屋に飛び込んだ。
「………!?」
 そんな俺のあわてッぷりに、テレビの前にちょこんと座ったみぃは微妙に驚いたような顔でこっちを見ていた。
「…………」
「…………」
 しばし、無言でお互いを見つめ合う俺たち。というか、みぃはいつも通り無感動な瞳で俺を見やっているだけだ。
 そして点けっぱなしのテレビからは、何かのドラマのエンディングだろうか、若い女性の歌う甘ったるい歌詞の歌が聞こえてきていた。
「みぃ、お前今歌を歌ってたか?」
 俺がそう問うも、人の言うことを理解してるんだかしてないんだか分からない我が愛妻は、首を傾げることもなくただじっと俺を見つめている。
「やっぱりテレビの声じゃねぇかよ……」
 俺はその場にへたり込み、力一杯溜息をついた。
 大家の奥様の言葉に、一瞬みぃが元に戻ったのではないかと狂喜乱舞しかけたのだが、やはり世の中そんなに甘くはない。……というか、もういい加減諦めた方が良いのだろうか。
 俺はこの慎ましやかで極めて無口な女房と、今後も仲良くやっていかなければならないのだ。俺は、もう十分にみぃに愛された。だから今度は、俺がみぃを愛さなければならないのだ。
 俺は一旦立ち上がり、みぃの隣に座った。そして優しく彼女を抱きしめると、その結ばれた唇に自分の唇を優しく押し当てる。
「………」
 みぃは特に嫌がることもなく、俺を受け止めてくれているようだ。しばらくの間みぃの唇をむさぼった俺は口を離し、微妙に上気して目をとろんとさせている彼女に語りかける。
「今まで辛く当たって悪かった。もう、お前を悲しい気持ちにはさせない。……だから、これからも俺の最高の嫁さんでいてくれるか?」
 みぃはその大きな瞳で俺をじっと見つめ、そしてフラフラと差し出された彼女の手が、俺の頭をぽんぽんと撫でた。
 なんだか、昔俺がみぃにしてやったのをやり返された様なものなので、微妙に判断に困るのだが、まぁここは大人しく肯定だと受け取っておこう。
「そうかそうか、んじゃこれからもよろしくな?」
 俺がみぃの頭をぽんぽんと撫でると、みぃはもう一度俺の頭をぽんぽんを撫でた。

手紙 A letter from lab.

 木々からはとっくの昔に葉が落ち、朝夕の冷え込みもきつくなってきた今日この頃。
 会社では年末の新性品……もとい、新製品の開発に向けいつも通りに大炎上していた。どうして我が社はこう毎回毎回プロジェクトが破綻して、最後には数少ない社員全員で私生活を投げやってつじつま合わせをせざるを得ない状況に陥るのだろうか……。
 確かにプロジェクトなんて始まった瞬間からデスマーチだなんて廃な意見もあるにはあるのだが、だからといって毎回確実誠実にデスるのは何かがおかしいと思う。てゆーか、我々には進歩がないのか!?
 ただでさえ、例の一件で杏子は会社を辞めてしまったので人が足りない。余所の会社から引き抜こうにも、愛する我が社の評判は業界の中ではとっても有名らしい。
 曰く、怪しげな秘密組織の隠れ蓑だの、中にいる人間は全員囚人扱いだの、出来てくる製品は違法ギリギリでいつも警察に睨まれているだの、こんな根も葉もある噂は100%真実だからこそ余計に質が悪い。
 ……と愚痴ばかり垂れていても状況が好転しないのは摂理であり、今日もまた会社に泊まり込みでひたすらおねいちゃんのおっぱいをごりごり塗っていた。あーあ、最近CGばっかりでみぃの可愛いナマチチ見てないなー。ふよふよしてて気持ちいいぞー
「さわりたいなー、もみたいなー。おっぱいおっぱいもーみもみ〜♪」
「……武由、お前のチチ塗りに対する情熱はイタい程良く分かったから、もう少し慎ましく歌ってくれんか?」
「ふえ!?」
 社長になんか言われて素に返る俺。やば、今声出てた??
「もみもみハァハァ」
「揉殺。」
 くっ、タブーと部長の生暖かい視線が地球に優しいぜ……!! 俺は嬉しさのあまり目にうっすら涙を浮かべながら、無意識に歌まで歌い出すほど社員を疲れさせる会社を力の限り呪ってやろうと、堅く心に誓ったのだった。

 そして苛烈を極めた開発作業も終わりを告げ、晴れてマスターアップとなった午前3時過ぎ。
「こ、これをプレスへ……!」
「あっりやってぃやんすぃたぁ〜♪」
 こんな時間だというのにもかかわらず不用意に元気なバイク便の兄ちゃんに、ブルブル震える手でマスターディスクを渡し終わった社長は、その場で崩れ去り玄関の敷物と化した。
 その他の開発要員もそれぞれ思い思いに机に突っ伏し、皆身動きすらせずに気絶している。
 だがそんな中、俺一人だけはかろうじて意識を保ち、戦場に散った戦友達の華々しき豪死を静かに見守っていたのだった。
「………かえろ……。」
 そうは言ったものの、自分自身の残存エネルギーも残りわずか。帰るまでが遠足とかいう言葉もあるが、実際やばい。何がやばいかというと、俺自身のエネルギーが無いのだ……!
 ……こんな、訳の分からん思考が頭の中でぐるぐる無限ループに陥り、結局俺は帰巣本能に身を任せ、ほぼ気絶状態で会社のドアを出たのだった。その後のことは全く思い出せない。何処をどう通って帰ったのか全く記憶に無く、結局の所、次ぎに意識が戻ったのは自宅の布団の中だった。
「……………?」
 目が覚めた後、しばらくの間俺は自分が何処で何をやっているのかさっぱり分からなかった。取り急ぎ身の回りを調べてみると、着の身着のままで風呂も入らず、とにかく布団にだけは潜り込んだようだった。幸い、ちゃんと靴は脱いでいた。布団を出て玄関まで行くと、いつもは脱ぎ散らかしている靴が綺麗に揃えておいてある。むぅ、意識が飛ぶほど疲れて帰ってきたというのに、靴だけは揃えたのか俺………。なんだか自分自身がけなげで可哀想になってきた。やば、悲しみのあまり頭がクラクラする……
「ってちょっと待て」
 そこまで来て、俺はようやく脳が完全に目覚めたのだろう。全身が異常にだるい事に気がついた。それに変な悪寒はするし鳥肌すら立ってる。おでこに手をやると、なんだかステキなくらいにアツアツになっている。
「ふっ、みぃとのラブラブパワーが脳まで燃えさせるか……!」
 俺は取り急ぎ服を脱ぎ、風呂に入ってシャワーを浴びた。あんな訳の分からないセリフがしらふで出るほど、俺の脳は熱にやられているようだ。こんな時は寝るに限る。連日の狂った残業で風邪でもひいたのだろう。本来ならばさっさと寝た方が良いのだが、さすがに4日もマトモに風呂入ってなくて寝込むのはいやだった。これから汗をわんさとかくだろうし。
 俺はふらつく体にむち打って風呂からあがり、バスタオルで体を拭き始めた。
「あて!?」
 すねを拭いていたら、なにやら激痛が走った。よくよく見れば青あざがあちこち出来ている。これらの作成については全く記憶にないのだが、たぶん帰りの最中にどこかにぶつけでもしたのだろう……。よくよく全身を調べてみると、肘や顔にも微妙に擦った後がある。まぁ皮膚が少し赤くなっている程度なのですぐに治るだろうが、まさかこれって昨日みぃと燃えあった後か?
 そしてそこまで考えて、俺は極めて重要なことに気がついた。
「あ、そう言えばみぃは何処行った!?」
 あわてて部屋を見渡すと、みぃは自分が潜り込んでいた布団の隣で丸くなっていた。ちなみに彼女も服を着たままだ。という事は、よっぽどがっついたプレイでもしていなければ、昨日はおあづけだったか………。
 うん、早く寝よう。やっぱり思考がいつもに比べてアホすぎる。
 俺はさっさとパジャマを着ると、もう一度布団に潜り込んだ。
「………ふに〜」
 みぃがまた変な寝言を言っている。まだ起きるには早い時間だ。このまま寝かしておいてやろう。おっと、その前に会社にメールを打っておこう。今日はさすがにマジで有給取ります。これ以上働けません。脳が捻挫してしまいました、と………。
 俺はメールを打ち終わったケータイをその辺に放り投げ(もちろんうるさい電話が掛かってこないように、バッテリーを外すのは基本中の基本だ)、ついでに目覚ましも鳴らないように設定を確認し、やっとの思いで布団に潜り込んだ。
 よし、朝起きたときよりも悪寒が寒いし頭痛も激しく痛い。やばいくらいに悪化してきている。あーあ、こういうときもう少し高性能なマイハニー(死語)なら優しく看病してくれるのになー。まぁそんなことをいつまでもウダウダ言ってても仕方ないのは自明であるので、とりあえず寝ちまおう。つーか、正直言って意識が朦朧としてきて、もう何が何だか良くわかんないぞ?
 このまま死んだらやばいなぁ……みぃ共々全滅だ。
 おーい、みぃよーぃ、ちゃんとご飯食べるんだぞー
 そして俺がくたばっても強く生きれー?
 俺がにこやかにそんなことをのたまっていると、さっきまでむにむに言ってたみぃがいきなり飛び起き、あわてて俺の顔をのぞき込んでくる。
 よしよしマイハニー(死語)め、ういやつじゃ可愛がってしんぜよー!
 なんだか全く現実感のないふわふわした空間で、妙にハイテンションになった俺はあたふたしてるみぃを見てけらけら笑っていた。
 あー、こりゃもう夢の中か熱の所為で幻覚見てるかに違いない。よっぽど酷い風邪なんだなぁ、いくら病気で夢の中とはいえ、ここまでぶっ壊れた自分自身を直視させられるのは、ちょっとやっぱりなんだか悲しい。
 おーいみぃ、こっちこい! おっぱいもませろー!
 完全に前後不覚となった俺は、人としての尊厳を捨て去り絶対に越えてはいけない何かをサクッと飛び越え、煩悩のまま叫び散らしていた。
 みぃが俺のほほに手を添える。その瞬間彼女はびくっと震え、立ち上がろうとした。
 こりゃまて幼妻ー! 俺を置いて何処行く気だー
 俺はみぃのスカートをつかんで、力任せに引っ張った。おかげで彼女はスカートが脱げ、それに足が絡まりその場に尻餅をつく。
 こっちこいよ、みぃ〜!
 俺はみぃのぱんつをつかみ、自分の方へぐいぐい引っ張る。
 やめて博士、それどころじゃないって!
 みぃがなんか言ってるが、そんなことは知ったことかい。とりあえず今の状況を打破するためには、まずはみぃのチチ! おっぱい早く揉ませろー!
 ダメだって……!
 涙目のみぃが俺の手を払い除けようとするが、所詮は小娘だ。大人の力に敵うわけがない。
 おっぱいおっぱいもーみもみー! さぁ愛しのみぃ、お前の可愛いおっぱいを早く揉ませろ〜〜
 そんな世紀末チックな雄叫びを上げる俺は、もう世界で一番の大将だった。みぃの服をむしり取り、最近ホントに大きくなって揉み心地も良くなったみぃの胸を覆っているブラを乱暴に上にたくし上げる。
 いたッ!
 乳首が強くこすれてしまったのだろうか、もはやあらがうことを止めたみぃがびくっと震える。そんな彼女の態度に、余計に嗜虐を煽られた俺は、みぃの胸を乱暴に揉んで乳首にむしゃぶりつく。
 そんな俺の頭を、みぃは優しく撫でてくる。俺はもはや狂ったようにみぃの胸の谷間に顔を擦りつけ、その柔らかさをしこたま味わい尽くした。
 ふい〜〜、ここはこの世の天国か〜〜〜♪
 そして俺は、たぶん正視に耐えないような酷い顔をしながら、みぃの胸の上で完全に気絶したのだった。

 目が覚めた。部屋の中は真っ暗だ。まだ熱は下がっていないようで体はかなりだるいが、それでもだいぶ長く寝たからであろうか、頭は割とすっきりしている。あまり汗もかいていないようだし、実はあんまり酷い風邪ではなかったのかな?
 俺は目をこらし、その辺の家電についているデジタル表示の時計を読み取った。時間は夜中の3時過ぎ。しかも恐ろしいことに、布団に潜った時から殆ど一日経っていた。つまり俺は貴重な有給をひたすらに寝て過ごしたと、そう言うことなのか……………。
 俺は切なさ一杯で寝っ転がったまま、バッテリーが抜かれた携帯電話をたぐり寄せた。そして今一度バッテリーを接続し、会社宛にメールを打った。今日も風邪が治りません。ついでに脳が腸捻転を起こしました。……以上!
 俺は再びバッテリーを抜き取ると、携帯を元あった場所に放り投げ上半身を起こした。その時、
「うひゅー」
 みぃがまた変な寝言を垂れている。暗くてよく見えないが、とりあえず俺の隣で布団を被って丸くなっているようだ。
 全く、呑気なヤツだなぁ……てゆーかお前はちゃんと飯食ってるのか? ここで電気を点けて弁当ガラを数えるのはみぃを起こしてしまうので止めておくが、保安灯の薄明かりに浮かび上がる俺たちの愛の巣には、あんまり弁当ガラが転がっているようには見えなかった。
 さて、とりあえず水分補給に水でも飲んで、また一寝入りしよう。
 俺はみぃを起こさないようにゆっくりと立ち上がると、まだ微妙にふらつく体を最大限の注意を持って動かし、台所に向かっていった。
 やっとの思いでシンクの前に来て、コップを取って水をごくごく飲んでいると、なにやら見慣れない物が視界に飛び込んできた。洗面器だ。普通は風呂場に置いてあるはずなのに、なぜ故かシンクに置き去りにされている。で、その近くにはバスタオルまでもが落ちていた。
 むぅ、これで考えられることはただ一つ。きっと会社から帰って風呂に入ったとき、うすらボケて洗面器まで持って来ちまったんだろうなぁ……
 ふぅと、一つ溜息などをついてみる。
 俺は割とクールを気取ってはいるが、昨日寝る前に、なんだかとっても悲しい事に遭遇した事だけは良く覚えていた。
 あんな酷い有様の自分が、例え夢の中とはいえ存在が許されているのだとは!!
 自室とはいえ、真夜中におっぱいおっぱいと叫び散らし、あまつさえ、みぃの服をひきむしって乱暴してしまった。最悪だ。人として許されない。ごめんな、夢の中のみぃ。お前の旦那は、おっぱいを揉むしか能のないふにゃちん野郎だよ……。
 まぁ、あれほどまでにイタすぎる夢を見るくらいなのだから、風呂に入った辺りの自分がどれほど錯乱していたかのかは想像に難くない。そりゃあ洗面器の一つや二つ、至極当然に台所に持ってくるだろうよ……。
 ああ……なんだか盛大に凹んだ。可及的速やかに寝てしまおう。そして夢の中とはいえ、あんな醜態をさらした自分の事なんて、未来永劫忘れてしまおう……。
 そうだ、夢占いでは、夢に出てきたことは基本的には叶わない願望だとのことだ。つまり夢の中であんなイタい自分が出てきたということは、現実では絶対にあんな事は起こりえないという暗示に他ならないのだ。そうそう、俺はいつだってクールでハイブローな男なのだ。
 よし、幾分気持ちが和らいできた。
 気分がいい内にさっさと寝てしまおう。そしてもっといい夢を見よう。でもあまりシアワセな夢を見ると叶わなくなるので、ひっくり返ってちょうどいいくらいの夢を見よう……。
 俺はさっさと自分の部屋に戻ると、またみぃを起こさないように静かに布団に潜り、目を閉じたのだった。
 割と頭がすっきりしているのでしばらくは寝付けないかと思ったのだが、結構すんなり意識が遠のいてきた。やはり日頃の疲れが溜まっているのだろうか。まぁいい、ここは会社の連中にとやかく言われることのない聖域なのだ。寝られなくなるまで寝てしまおう……では愛しのマイハニー(死語)、お休みなさい……。

 さて、次ぎに起きたときには、自分の亡骸が眼下に転がっていた………などというあまりにもショッキンな事実に出くわすまでもなく、いつになく心地よい目覚めを迎えることが出来たのは、普段からの自分の生き方がそこそこ評価されていると考えて良いということなのだろうか。
 時計を見ると午前11時。そしてみぃは俺の寝ていた布団の横に座って、コクコクと船を漕いでいる。
 ぐ〜きゅるるる
 今の音は俺じゃないぞ? 間違いなく愛しのマイハニー(死語)だ。
 つまりこいつは、夜中に空腹のあまり起き出してきて、熱で寝入ってる俺にメシをせがんだままに、その場でこうして寝こけていやがるのか。なんとまぁ愛情に満ちあふれたシチュエーションだろうか。嬉しくて涙が出そうになる。
 仕方ない、とりあえず体はもうあまりだるくないし、久しぶりに腕によりを掛けてパンを焼いてやろう。もちろん市販の食パンを、オーブントースターで焼くだけだけどな。
 俺は布団から起き出し、台所へ移動した。昨日のように、フラフラよろけるようなことはさすがになかった。まぁもちろん全快!というにはほど遠いが、残念ながら明日には会社に出られる程度には回復しているようだ。めんどくせー、このまま1週間くらいバッくれても誰も文句言わねーよなぁ?
 ……などとすっとぼけた大学生みたいなことを言っていても、給料がそのぶんサクサク減るだけなので(愛する我が社は有給なのに休むと給料が減らされる。これって何か間違ってねーか?)、明日からは大人しく働こう。うん、俺がいないとあの会社は間違いなく倒産する。あんなはた迷惑な連中が市井に放たれるのは、人として見過ごすことの出来ないとても大切な一線であると言えるだろう。
 等と一人でぶつくさ考えていると、トースターに放り込んでいたパンがイイ感じに焼けてきた。俺はそれを手早く皿に載せ、最近使った覚えのないちゃぶ台に載せる。
 そして我ら夫婦の愛を放出し合う寝室兼居間で、コクコク船を漕いだままのみぃのおでこに指を近づけ、
 ビシッ!
 ……思いっきりデコピンしてやった。
「!?!?!?」
 みぃはびくっと起き上がると、時々やるように目を白黒させながらピコピコ首を動かして、何事かと辺りを見渡している。
「起きろみぃ、パンが焼けてるぞ!」
 俺がそう声を掛けると、やっと脳みそが再起動したのか、みぃはなんだか不満そうな目でこちらをじっと見ている、
「………。」
 そしてしばらくすると、なぜ故かそのまま布団の上にばたんと倒れ込んだ。
「こら、パンが冷めるだろうが!」
 俺はうつぶせに寝っ転がったみぃのケツをムニムニつまみ、それでも起き上がらないものだから腹の下に両手を差し込み、そのまま持ち上げてやった。
 じたじた
「おー、なんだかこれ懐かしいな!」
 遙か昔、みぃがまだ天使だった頃。
 飛行訓練をしていて泥沼に突っ込んだり、上手く姿勢を保てなくてひっくり返っていたときには、よくこうやって抱きかかえてやったっけ。
 あの頃と同じく、みぃの体は割と軽い。良く食うくせに肉付きの薄い彼女の体は、元来空を飛ぶのにふさわしい物なのだ。
 俺はそのまま、まるでUFOキャッチャーの景品の如くみぃを搬送し、そのまま一緒にちゃぶ台に向かって座り込んだ。以前やったのと同じように、俺のあぐらの上に、みぃがちょこんと乗っかっている感じだ。
 みぃは目の前に焼きたての食パンがあるのを確認すると、もはや俺の事なんてどうでも良い感じにパンを手に取り、はむはむ囓り始めた。そんな、まるでリスみたいにメシを食っているみぃはとても可愛らしく、彼女の体温がそうさせているのだろうか、俺の胸にも優しい暖かさが満ちてくる。決して風邪をぶり返して、熱が上がってきているわけではないぞ?
 しばらく二人でパンを囓っていたのだが、しかし飲み物だとかおかずを用意していないことに今更気がついた。さすがに今更なんか作るのも鬱陶しいが、飲み物くらいは必要だろう。つーか、パンが喉につまる。俺はみぃを足から降ろすと、台所に行って冷蔵庫の中から牛乳を取りだした。そしてシンクに行ってグラスを2つつかんだのだが、今朝その辺に置き去りになっていた洗面器がないことに気がついた。
「あれ? ここにあった洗面器どうした?」
 俺は何と無しにみぃに聞いてみたのだが、彼女はじっと俺の目を見るだけで微動をだにしない。まぁ、普段から似た様な感じで固まっているが、それにしちゃなんだか目がマジだな。
 俺はグラスを二つ抱えながらちゃぶ台に戻ると、みぃは、何故か手をきゅっと握り、そしてフラフラと腕を上げると、風呂場を指さした。
「……風呂に片付けてくれたのか?」
 こくり。
 やたらとゆっくりな動作で、彼女は首を縦に振った。
 へーえ、ちゃんとそういうこと出来るようになったんだなあ! 我が食べる専門のマイハニー(死語)は、洗面器を風呂場に戻す機能を身につけたのだ。
「そーかそーか、いい子だぞみぃ!」
 俺はグラスと牛乳をちゃぶ台の上に置くと、再びみぃを抱きかかえてあぐらを組んだ足の上に載せてやった。そして頭をナデナデ撫でながら、ちゃんとお片付けができた幼妻を、鬱陶しいくらいに褒めてやった。

 メシを食い終わり、そのままちゃぶ台の前で座ったままの俺は、未だみぃを抱えたままだった。彼女もパンを食い終わり、俺の足の上で大人しくしている。俺は最近殆ど構ってやれなかった罪滅ぼしに、今日一日はみぃのそばにいてやることにしたのだ。特段、何をするというわけでもない。ただこんな風に、ダラダラとお互いの体温を味わっていた。みぃも、特には嫌がっていないようだ。
 俺はみぃの体を優しく抱きしめ、ついでに自然と手にあたる彼女の柔らかい胸を、手のひら全体を使ってゆっくり揉んでいた。そんな俺の行為に身じろぎ一つしない彼女ではあったが、首筋に軽くキスしたとたん、彼女の体温がぐっと上がった。みぃと触れ合っている部分から、彼女の熱がじんわりと感じられたのだ。
 俺は手の動きを止めることなく、みぃの首筋に何度もキスを続ける。すると、いままでつぐんでいた小さな彼女の口から、熱を含んだ吐息が少しずつ零れだしてきていた。
 俺はみぃの体を抱えたまま、ゆっくりと後ろに状態を倒した。みぃは俺の腕の中で体をよじり、その体を俺に向ける。そして、赤く上気した顔が突き出され、彼女自ら俺の唇にむしゃぶりつく。俺はそれに応え、そのままお互いの体を求め合った。
 久しぶりに繋がり合った俺たちは律動の中、何度も何度も相手をむさぼり、そして愛し合ったのだった。

 ひとしきりの情交の後、俺はモソモソと服を着るみぃの手伝いをしてやりながら、乱れた彼女の髪を手で優しくすいてやっていた。みぃはいつも通り、笑いもせず照れもせず、ただただ俺の姿をその大きな瞳に映しているだけだった。
「お前も、早く笑えるようになるといいよなぁ……」
 俺はみぃのほほを撫でながら、自然にそうつぶやいていた。
 今、目の前にいるみぃも十分に可愛いが、こいつがニコニコ笑うと数億倍可愛くなるのを知る俺としては、やはりある種の口惜しさを感じずにはいられなかった。
 なんだかんだ言っても、俺はこいつの笑顔にコロッとやられてしまったのだ。殆ど一目惚れだった。みぃの笑顔を守るためには、何でも出来ると思っていたのだ。
 しかし結果として、みぃの笑顔を守ることが出来なかった。だけど、みぃは俺の目の前にいてくれる。一歩間違えば、研究所で凍り付けなんてクソみたいな事になっていたかも知れないのだ。それだけは回避できただけでも、良かったと思うことにしよう。
「さて、笑う訓練でもしてみますかね……」
 思えば、研究所での俺とみぃの仕事といえば、兵器の訓練だったのだ。前にも言ったが、遊んでた記憶しかない俺にとっては、訓練内容なんて実はあまり覚えてなかったりする。
 ……みぃ、俺はお前にとっていい先生たりえたのか?
 一瞬そんなことを考えるも、万が一俺がいい先生だったなら、今頃こいつは建設中のシステムガイアの上で、今日も元気に飛び回っていただろう。そんな彼女の様子を想像すると、胸の奥がどうしょうもないほどキリキリ痛む。ごめんな、みぃ。つまらん先生で。
 俺はみぃの頭をとりあえず撫で、そして笑う訓練と称して彼女のほっぺを両手でつまみ、くいっと上に上げてみた。これで少しは笑った顔になるかといえば、なんだか面白い顔になるだけで全然イケてない。むぅ、これはなかなか難しいなぁ……
 仕方ないのでそのままほっぺをムニムニやって遊んでいると、次第に彼女のこめかみに青筋が浮いてきた。
 くっ、怒る顔はなんだか早くできそうだ……。
「みぃ、とりあえず笑えって」
 俺はひどく理不尽なセリフと共に、余計にほっぺを引っ張ってみる。そして、そろそろ彼女の瞳に殺気が宿ろうとしていた頃、玄関のポストから、手紙が投げ入れられる音が聞こえてきた。
 はて、今頃手紙とは珍しい。普通、何かの連絡といえば、メールや電話で来るもんだ。メアドや電話番号は研究所の頃と変わってないから、俺の連絡先が分からないなんてヤツは殆どいない。それに、今の会社だって一応研究所の関連会社なので、メールサーバは研究所のものを使っている。そのおかげで俺の会社のメアドは、以前の職場のをそのまま使っているのだ。
 俺はみぃのほっぺから手を離し、ポストを覗きに行った。そしてその中を確認すると、そこには白くて素っ気ない封筒が一つだけ入っていた。どうやら宛名は手書きのようだ。という事は、どこかの個人が出してきた物なのだろう。今更誰だと思いつつ封筒をポストから取り出した俺は、差出人を見て一瞬のうちに全ての思考が吹っ飛び、息をすることすら忘れていた。
 そこには、元の職場、つまり研究所の住所が書かれてあった。そして、それだけならまだしも、差出人名には『鹿沼さゆり』という名前が、どこかで見覚えのある筆跡で書かれてあったのだ。鹿沼さゆり、つまり鹿沼博士からの手紙だ。
 俺はその手紙を見たまま、しばらく身じろぎ一つ出来なかった。今の自分にとって、一番関わり合いになりたくない過去が、こんな手紙一つで追いついてきたのだった。
 恐怖が、絶望が俺を襲う。目の前が、急に真っ暗になった。嫌な予感が形を伴い、背筋をずるずると這い上がる様な気がした。そして、心臓が壊れたのかと思うくらいに大きな音をたて、ドクドクと脈打っている。体中が、嫌な汗でびしょびしょになった。
 まさか、みぃを返せとか、そういう類の連絡なのか!? もしそうだったら、ロクでもない結果が大口を開けて待ってやがるのは、どう考えても間違いないだろう。そんなことになったら、今度こそは何が何でも絶対に逃げてやる! 例え途中で撃ち殺されようとも、俺はもう、みぃをあいつらに差し出すような真似だけは、絶対に絶対にしたくないんだよ!!
 俺は、震える手で封筒を開いた。中には便せんが数枚入っていて、ぱっと見た感じでは返せだの返却しろだのいう文字は見えなかった。どうやらたわいもない、挨拶みたいな文面が並んでいるようだ。
 俺はようやく、ギリギリの所ではあるがかろうじて落ち着きを取り戻し、そして今の今まで自分が息を止めたままだったのに気がついたのだった。そりゃ、息止めてりゃ目の前も真っ暗になるさ……
 にやりと自分自身のバカさをほくそ笑むも、しかし手の震えは止まらない。手紙の内容をちゃんと確かめなくては、安心など出来ようもないのだ。俺は肺の中に溜まった二酸化炭素を盛大に吐き出し、何度も深呼吸をした。そしてはやる気持ちを抑えながら、慎重に手紙を読み始めたのだった。そして、その手紙の内容は、以下の通りだった。


 お久しぶりですね、武由君。お元気ですか? それと、みぃちゃんとの生活はいかがでしょうか。ちゃんと仲良くしていますよね?
 また、新しい職場には、もう慣れたでしょうか。風の便りで、元気で頑張っていると聞いて安心しています。

 もう、武由君がここを離れてから1年以上経つのですね。月日が経つのは早いものです。ついさっきまで、武由君やみぃちゃんと一緒に働いていたような気がします。実は、今でも時々、無意識のうちにあなたたちを捜してしまうのです。すぐに捜しても居ないのを思い出し、一人でくすくす笑うのですが、他の人が見たらさぞかし変に見えるでしょうね。

 私たちは今、システムガイアの構築のために、毎日あくせく働いています。貧乏暇無しというのでしょうか。黄昏の弁償で、以前のように予算が使えないので、開発費の確保や物資の調達に苦労しています。けれどもシステムガイアの品質を落とすわけにはいかないので、知恵と根性でカバーしているのですよ。
 また、みぃちゃんの妹たちも、幾人か生まれてきました。みんな良い子で、みぃちゃんに負けず劣らず可愛い子達です。いつか、彼女たちにも会いに来てください。武由君はまだ研究所に入れますので、みぃちゃんも一緒に連れて、遊びに来てくださいね。みんな、武由君やみぃちゃんの事を、今でもとても心配しています。

 今から思えば、私の社会人としての人生で、みぃちゃんと共に過ごしていたあの時が、最も輝いてたと言えるでしょう。研究者として、とても素晴らしい経験を積むことが出来ましたし、それにみぃちゃんがいた時の研究所は、それはもう毎日どこかで笑い声が聞こえていて、大変楽しかったのを鮮烈に覚えています。それまでは、静かでどこか薄暗いイメージしかなかった研究所でしたが、みぃちゃんは一人でそんな雰囲気を吹き飛ばしていたのですね。けど、今はもう昔と同じ、笑い声など一切聞こえない研究所に戻ってしまいました。仕事には集中できますが、はっきり言ってつまらない場所です。

 今、研究所にいるみぃちゃんの妹達は、感情こそあれ表情を表に出さず、そして全く喋らないように作りました。拠点防衛兵器には、笑顔も言葉も要らない。それは、我々がみぃちゃんを通じて得た、一つの大切な教訓です。もう、あんな辛い思いは、二度としたくないのです。みぃちゃんは、あまりにも人間に近すぎました。我々と共に歩むため、そう言ってみぃちゃんを育てたのに、結局私たちは共に歩むことを自ら拒否してしまったのです。だからもう、初めから共に歩むことがないよう、人間として大切な表情と言葉を削り取りました。おかげで、余ったCPUリソースを学習能力や演算速度に回し、兵器としての完成度は、みぃちゃんと互角以上です。既に何人かは、建設中のシステムガイアで警備活動に従事しています。みぃちゃんが残したデータを使って、製造段階から人工知能にある程度のデータを入れるようにしたので、半年くらいの訓練で天使としての性能を満たせるようになりました。

 もちろん、こんな言い訳をいくら並べても、自分たちのやっていることが偽善だと言うことは、十分分かっているつもりです……。

 研究所では、正式にみぃちゃんの減価償却を完了し、所有権を完全に放棄しました。なので、これからは何があっても貴方がみぃちゃんを守らなくてはなりません。ちゃんと結婚して、ケジメを付けてくださいね。

 では、以下の言葉を声に出して、みぃちゃんと一緒に永遠の愛を誓い合ってください。これが、私があなたたちに贈る、最後の言葉になります。


 ……ここまで読んで、ガタガタ震えていた俺の体からは、変な力が一気に抜けていった。俺はとてつもなく大きい溜息をつき、みぃの横にフラフラしながら座り込んだ。
 そっか、もう完全にみぃと研究所は縁が切れたのか。みぃは俺と一緒に暮らしていたが、減価償却が済んでいない間は、法律上では研究所の固定資産だったのだ。
 でも、それももう終わりだ。これからは名実共に、みぃは俺のマイハニー(死語)になったのだ。
「みぃ、また一つよろしく頼むよ」
 俺はみぃの頭をぽんぽん撫でた。彼女は何のことやらと首を傾げるような雰囲気で、俺のことをじっと見ている。
 そこで、俺はまだ手紙を読んでいる途中だったことを思い出し、また文面に目を通し始めた。

 では、以下の言葉を声に出して、みぃちゃんと一緒に永遠の愛を誓い合ってください。これが、私があなたたちに贈る、最後の言葉になります。

 声に出せだ? 一体何を言わせるつもりだ?
 手紙を読み進めると、そこには人生の節目に良く聞くであろう、誰でも一度は聞いたことがある言葉が書き綴られていた。その言葉を今ここで声に出して言うことに何の意味があるんだかさっぱり分からなかったが、鹿沼博士がそう言うのだから何かとっても大切な理由でもあるのだろう。
 つーか、これが鹿沼博士の言う『ケジメを付けろ』って事なのだろうか?
 ……そうだなぁ、そのうちちゃんと役所に届けを出しに行かないとなぁ。さすがに正式な披露宴とかは無理だろうけど、仲の良い友達だけで、こぢんまりとしたお祝い会みたいなのでも出来たらいいなぁ。その時は、鹿沼博士くらいは呼んでみようか。
「さてと……コホン、んん、んー」
 俺はわざとらしい咳払いの後、隣にいるみぃに、そして自分自身に言い聞かせるように、鹿沼博士から贈られたその言葉を読み始めたのだった……。

「……新郎、武由に問う。汝、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで、新婦みぃを生涯の伴侶として、共に歩むことを誓いますか?」

 そして俺は当然の如く、ただし情けないくらいに顔を赤くしながら、
「……誓います」
と、それ以外の返答が見つからないのでそう言った。続けて、対の言葉をみぃに向かって語りかける。

「……新婦、みぃに問う。汝、富めるときも貧しきときも、病めるときも健やかなるときも、死が二人を分かつまで、新郎武由を生涯の伴侶とし、共に歩むことを誓いますか?」

 そう言い終わった後、俺は正直悲しい気分だった。みぃはいつもの通りぼーっとした瞳で俺を見ているだけだ。せっかくのこの言葉にも、どうせこいつは返事を返しやしない……

「……ちかう〜〜」

 その時、俺は今何が起こったんだか、全く理解することが出来なかった。みぃはさっきから俺の前にいて、けれどいつかのように、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、そして、その大きな瞳からは涙をボロボロ流して………
「みぃ、お前………」
 無意識のうちに、俺は両手でみぃの顔をぺたぺたなで回していた。
「博士ぇ、みぃちゃんのこと、ちゃんとお嫁さんにしてくれるよね?」
 みぃは、俺が大好きなとびっきりの笑顔を浮かべて、俺の前に座っていた。そしてその舌っ足らずなしゃべり方は、研究所にいた頃の彼女のそれその物だった。
 その声を聞いた俺は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。過去に感じた俺の幸せな気持ちが、暖かさとなって戻ってきたのだ。
 溢れる涙で視界がゆがんでしまう。俺はみぃの笑顔をもっとしっかり見たかったのに、彼女の姿は霞の向こうだ。
 俺はみぃの背中に手を回し、そっと優しく抱き寄せた。目で見る代わりに、彼女の息づかいまでもを、その身でゆっくり感じるように。
「お帰り、みぃ……」
 俺の言葉に、
「うん、今帰ったよ、博士……」
 みぃは俺の胸に顔を埋め、嬉しそうに返事をした。
 季節は冬。部屋の中は暖房を焚いていても気温は低い。それでも、みぃとふれあう俺の心はこれ以上ないほどに熱を持っている。カーテン越しに、太陽に光が俺たちを優しく包んでいた。
 世界が、輝いていた。


 1年3ヶ月前−−−

 研究所の奥に作られた手術室のドアが、乱暴に開け放たれた。そこへ、鹿沼に手を引かれながらみぃが入ってゆく。
 その部屋は、3年前にみぃが生まれた記念の場所だった。けれど彼女は、今度は記憶を奪われ、そしてみぃという存在をこの世から抹殺するため、再そびの場所へ戻ってきたのだ。
 不機嫌を全く隠そうとしない鹿沼に、ニコニコと笑顔を貼り付けたみぃ。そして、気が狂わんばかりの形相でみぃをじっと見つめる武由。
 お互いの視線が、手術室のドアを隔てて交錯している。
 やがて、
「じゃあ、博士ぇ、いってくるねー」
 鹿沼に手を引かれたみぃが、最後に武由の為、精一杯の笑顔をつくって見せた。
「み……みぃ!!」
バタン!!
 ぶるぶると震えるみぃの手を見て、反射的に彼女を引き戻そうとした武由の前で、二人の間を隔てるドアが音を立てて閉められた。
「みぃ……みぃ………!!」
 そしてその時初めて、武由は今この瞬間が、みぃとの今生の別れであることを悟ったのだ。武由はその場にしゃがみ込み、拳を床に何度も打ち付け、魂の底から号泣したのだった。

 彼の絶叫は、もちろん手術室にも聞こえていた。ドアの向こうから聞こえる武由の悲痛な叫びが、慟哭が、みぃの心を激しく揺さぶる。
「だめ……博士が泣いてる……みぃちゃん戻らないと……!」
 みぃは反射的に、もう一度ドアを開けようとノブに手を伸ばす。しかし、
「ダメよ!」
 鹿沼の一括にびくっと震え、彼女は手を引っ込めざるを得なかった。
「……今みぃちゃんが出て行ったら、きっと一番辛い別れ方をしなければならなくなるわ。だから、止めなさい」
 その言葉に、みぃの顔はくしゃっと潰れ、声こそ出さないものの肩をふるわせすすり泣く。
「………でも……! みぃちゃん、博士と一緒にいたい……!!」
 近くにいなければ聞こえないほどの小さな声ではあったが、それは紛れもないみぃの本心だった。
 鹿沼は泣き続けるみぃの手を引き、ベッドの上に座らせた。そして彼女のダイレクトバスコネクタに、既に用意してあったケーブルを取り付けていく。
「まずは、貴方から天使の機能を削除するわ。……初めは飛行ユニットね」
 先ほど鹿沼がみぃに接続したケーブルの先、そこには大きめのコンピュータが数台接続されていて、普通にダイレクトバスコネクタ経由で何かするのはノートパソコン一台でも十分なのに、やはり今回の作業がとても大がかりなことを如実に表していた。
 みぃは横目でそれらの機械を見、そして手で顔を押さえて少しでも泣き声を漏らさないようにする。
 鹿沼はコンピュータに接続されているノートパソコンを操作し、みぃにインストールされている反重力飛行システムのサービスを停止した。
 みぃの体に、直接重力が掛かる。そして、初めて空を飛んだときから、一回は故障したもののずっとみぃの肩口に浮いていた、青いガラス玉の飛行ユニットはその役目を終え、ベッドの上にころんと転がった。
 彼女は、もう飛べなくなった。
「……次は、エアーイーサを切るわ」
 鹿沼が再びノートパソコンを操作すると、今までずっと彼女にあらゆる情報を送り込んできていたエアーイーサが動作を停止し、今まで接続していた色々な機械とのリンクが全てとぎれた。みぃは、世界から全ての音が消えたかのような錯覚を覚えていた。それと同時に、彼女が慣れ親しんでいた衛星やコンピュータを感じることが出来なくなり、心に大きな穴がぽっかり空いたような感覚を受けていた、
 ……みぃちゃん、こうやって少しずつ壊れちゃうのかな。
 みぃの心に、絶望が広がった。
 その後、鹿沼は暗号サービスや精密射撃用の火器管制サービスなど、みぃが人として生きていくのに必要最低限のサービス以外の物を、次々に停止していった。
「……これで、貴方は普通の人間と同じ。もう、エンジェルとしての機能は何も残されていない、普通の女の子になったわ」
 鹿沼はそう言うと、ノートパソコンの蓋をばたんと閉じた。
「……………。」
 みぃはもう諦めがついたのか、既に泣きやんではいた。しかし顔は涙でびしょびしょに濡れたままで、涙を振り払おうともしない。諦めたというよりも、むしろもうこれ以上悲しい思いをしないように、自ら思考を停止している様にも見えていた。
 そんな、あまりにも痛々しいみぃの姿を見た鹿沼は、心の中である決意をしたのだった。
 彼女は自分のポケットからハンカチを取り出すと、みぃの涙を拭いてやりながら言った。
「……みぃちゃん。貴方は今から二つ未来から、自分の進む道を選びなさい。とても大切な事よ。よく考えて決めるの、良い?」
「?? どういうこと?」
 ごしごしと目を擦りながら、みぃは鹿沼の言葉に首を傾げる。
「一つは、約束通り貴方の記憶を消す。それはとても悲しいことだけど、苦痛も悲しみも何も感じない。次ぎに目覚めたとき、貴方は自分のことを何も覚えてはいないけど、自然体でいられるし、苦労も何もないわ」
 鹿沼はそこで一旦言葉を切った。今まで厳しい顔をしていた彼女の表情が、わずかだがふっと緩んだ。
「……そして、もう一つは、貴方はこれからとっても辛い日々を過ごさなければならない。でも、その代わり、貴方はずっと武由君と一緒に居られるわ。貴方は、自分を失うことはない」
 そんないきなりの話に意味が分からず、呆然としているみぃの両肩に、鹿沼は手を乗せ自分の顔をみぃの顔に近づけた。
「みぃちゃん、どっちが良くて、どっちが悪いなんて事は無いの。みぃちゃんが本当に良いと思う方を、よく考えて、今ここで選びなさい」
 鹿沼の熟考せよとの言葉に、しかし
「みぃちゃん、博士と居る方が良い……!」
 みぃはそう即答したのだった。
「そう、分かったわ……後で後悔することになっても、それは自分の責任よ、みぃちゃん」
 鹿沼は腰掛けていたベッドから立ち上がると、みぃの記憶を破壊し、新しい人格を植え付けるために用意していたコンピュータの前に立つ。そして、その筐体に繋がっている電源ケーブルを握りしめ、そのままいきなり引き抜いたのだった。
「鹿沼博士……?」
 雑多の文字が表示されていた画面が一瞬のうちに消え、インストールしてあった新しい疑似人格OSも、完全にクラッシュしてしまった。
 ここ数日間、みぃの記憶を潰すために根を詰めて調整していただろうに、みぃは、鹿沼の行動が全く理解できなかった。しかし、鹿沼の顔がいつも通りの笑顔に戻っていることには気がついたのだった。
「……みぃちゃん、良く聞きなさい。貴方にはこれから、世界一の女優になって貰うわ。」
「うお??」
 鹿沼の唐突な言葉に、みぃが素っ頓狂な声を上げる。
「貴方は良く武由君を謀って遊んでいたけど、今から研究所の全員を騙すのよ」
 そう言いながら、鹿沼は机から一本の注射器を取り出した。それを見たみぃの顔が、また恐怖に塗りつぶされる。
「安心して、これは普通の麻酔薬よ。で、これを今から貴方に注射します」
「………。」
 みぃは何も言わずに、鹿沼の説明を聞いている。
「それで、次ぎに目が覚めたら、貴方は記憶のないみぃちゃんになっているの。分かる?」
「……その麻酔薬で、みぃちゃんの記憶が無くなるの?」
「いいえ、これは普通の麻酔薬よ。これで貴方が寝ている間に、私は貴方の記憶を消した様に装うわ。目が覚めたら武由君が迎えに来てくれてるはずだから、貴方は時期が来るまで、ずっと記憶がないふりをしておきなさい」
「うお!?」
「そうね……武由君に手紙を送るわ。そして、今から言う合い言葉を彼に読んで貰いましょう。その時が来たら、貴方はみぃちゃんに戻るのよ」
 鹿沼が、みぃの頭をぽんぽんと撫でる。
 全てを理解したみぃはもう一度顔をくしゃっと潰し、嗚咽をこぼす。
「さあ、時間が無いわ。一世一代の演技、期待しているわよ……!」
 鹿沼はみぃの袖をまくると、その細い上腕にそっと注射器を差し入れ、ピストンを押し込んだ。
 そしてみぃをベッドに寝かすと、用意してあった心電図の電極パッドをあちこちに貼り付けていく。
 既に意識が朦朧としてきたみぃは、作業を進める鹿沼の袖を引っ張った。
「なに?」
「……鹿沼博士、ありがと……」
 みぃはお礼を一言言って、そのまま目を瞑って寝息を立て始めた。
「みぃちゃん、何があっても頑張るのよ……」
 鹿沼は追う一度、みぃの頭を優しく撫でたのだった。

 終わり