報告書の「序章」に、この事故の調査検証プロジェクトの責任者の船橋洋一氏が、「独立した市民の立場から」調査することを思い立ったいきさつをこう述べています。
そうだ、そうだ、と頷いたわたしは、それほど「独立」「民間」という委員会の調査姿勢に期待して読み始めたのでした。日本では、政府の災害対応や政策の大きな失敗について、政府や国会が、 真実を究明し、そこから教訓を学び、それを国民の前に示し、二度と同じ 間違いをくり返さないよう、国民的合意をつくることをして来なかった と思います。 日中戦争にしても太平洋戦争にしても、戦後、政府はそれに関する調査 報告書をつくりませんでしたし、国会もその原因と背景と責任を調査し、 検証することをしませんでした。それを営々と続けてきたのは民間の 研究者でした。(p.10)読み進めるうちに、期待したほど「事実」が解明されていないという印象が強まってきました。そうして第3部に至って、どうやらこの報告書の主眼は「事実」を調査したはずの第1、2部ではなくて、事故の教訓を提言する第3部、とりわけ第8章にあるんだ、気づきました。序章のことばどおり、「二度と同じ間違いをくり返さない」ための教訓が、やや上から目線で綴られています。
難点は、その教訓が、事故がどうした起ったのかという事実からの結論ではないこと。その第3部の冒頭<概要>はこんな書き出しで始まる。
ところが第1部、第2部でそんなことは明らかにされてはいないのだ。「備え」がなかったのは事実だろう。政府の対応がお粗末だったのも「人災」かも知れない。だが「防げたはずの事故」という結論は、どんな事故の報告書であれば出せるのだろう?すでに第1部、第2部で明らかにされてきたように、今回の事故は「備え」 がなかったことにより、防げたはずの事故が防げず、取れたはずの対策が 取れなかったことが原因とされている。(p.246)なんのことはない、「防げたはずの事故」という前提が先にあって、それに沿うように第1、2部のトーンが決まっていたのだ。300人にインタビューしたと自慢したのはいいが、そのトランスクリプト(書き起こし)さえ収録されずに、都合のいい部分だけコマ切れに引用されたのは、むしろ当然と言える。
では、「防げたはずの事故」としなければならない理由はなにか? それは、記者会見での質疑応答にありました。個人会員という参加者のひとりが、「この委員会の趣旨とは違うかもしれませんが」とことわりながらも、原発について、そもそも「人類が動かしていいものかどうか」について委員の見解を問うていたのです。
正直言って、初めてこのビデオを見たとき、同感ではあるが、なんて場違いな質問をするんだろう、と思ったものでした。ですので、以下の北澤氏の返答も、しごくもっともなものと頷いていたのです。<個人会員> これほどの事故があって、除染の問題とか、廃炉の問題とか、 高レベル放射性廃棄物の対策の問題とか、いろいろ考えてみると、 はたして、この原子力発電というのが、人間が動かしていいのか、どうか、 ということに疑問を持っているんですけど、 これについてどんなご見解をお持ちなのかを、 伺わせていただきたいと思います。 『2.28福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)記者会見』 0:57:14〜報告書を読んだ後では、答えたくなかった理由は別のところにあったことが分かります。あらためてビデオを見ると、この質問に答えた、国際原子力機関(IAEA)理事会議長、原子力委員会委員長代理などを務めた経歴のある遠藤哲也委員が、原発推進の立場とはいえ、ある意味ずっと正直だ。<北澤委員長> この委員会は、私たちは、ですね、 今回起った事故の「近因、中因、遠因」ということで、 今回の事故に関する検証を行うことを旨としまして、 各々の委員の方も、原子力を今後どうするか、ということに関しては、 ご自身のお考え、いろいろあるかと思います。その意味で、 今回の検証そのものとはこれ(質問)は直接の関係がない、と言わざるを得ない、 というふうに思いますので、 むしろ、他のことを聞いていただいたほうが、我々としては嬉しいかな、 と思うんですが。遠藤委員、なにかありますか?そう、「人災」だから、「防げたはずの事故」だから、これを教訓にして「二度と同じ間違いをくり返さない」ようにすべき、と言っているのだ。これが独立検証委員会全員とその報告書の基調となっている。それは同時に、「原発そのものの賛否を問う」議論を排除することにもなる。けれど、委員は知らないのだろうか、<遠藤委員> 私自身ですね、今のご質問にたいしては、 個人的には意見を持っております。 それをひと言、ふた言で申し上げますと、 私は今回の事故というのは、もちろん引き金を引いたのは 地震、津波という天災であったわけですけど、 これをこんなふうにしてしまったというのは、 私は、「人災」、ということばは必ずしも良くないのですが、 その面が非常に大きかった、と、 もし、そうであるとすれば、これは人の力、知恵、あるいは今後の努力、反省によって これを克服できるものだ、と 私は思っているわけです。 従いまして、そういう観点から、私は、最大の注意を払いながら、 原子力は進めるべきものだ、と私自身はそう思っているわけです。もしも報告書が原発事故の真実を冷徹に調査検証したものだったら、委員長は答えを拒否するのではなくて、こう答えるべきだったのだ;――同じ間違いは繰り返されない、なぜなら、間違いはいつも違うものだから。そう答えられなかった理由があった。報告書の中ではその「事実」が軽すぎたのだ。しかも、その「原発の是非」の議論と疑問を排除することこそが報告書の目的のひとつだった。この委員会は事実について検証することを旨としております。 そして、事実の重みは私たちの個人的見解以上のものです。 ですので、人間が原発を動かしていいかどうかについても、 私たちのこの報告書自体がその議論に役立つものと思っています。その原発の是非の議論以前の問題として、「防げた事故」神話が受け入れられなければ、停止中の原発の再稼働はない。そのために、急ごしらえの報告書を4月の新年度の前に発表したはいいが、菅首相をこっけいなほど揶揄する記述がかえってアダとなり、メディアが騒いでくれた割には、かんじんの第3部は真剣に読まれることはなかったようだ。
第3部がキーワードにした「安全神話」の「安全」とは、すなわち、「事故は起きない」「起きても、放射能漏れはない」から安全、というものだ。実際に事故が起きて、放射能汚染が広がり、あわや日本という国が亡びるかもしれないという危機的事態になった。しかも、事故の全容はいまだ分からないままであり、なおかつ危機が去ったわけではない。爆発で屋根が吹き飛んだ4号機には燃料棒がむき出しのプールに入ったままだ。爆発でどれだけ破損しているか分からないプールは、もしも次の大きな地震で崩壊して燃料棒がむき出しになったら、こんどこそ、日本が亡びてしまうかも知れない。
そんな危機がまだ続いているときに、あたかも事故が終息したかのように、「防げたはずの事故」とはどういう神経なのだろう。とうてい「独立した市民の立場から」の発想とは思えない。序章ではその「民間・独立」性をこのように謳い上げていた。
たしかに報告書の執筆陣にも浸透してるのかも知れない。調査・検証する対象は、原子力であり電力会社であり原子力産業です。産学官 のそれこそ”原子力ムラ”と呼ばれる巨大システムです。政治にも行政にも大学に も法曹界にもメディアにもその影響力は浸透しています。(p.11)文科省の管轄下の独立行政法人「日本原子力研究開発機構」には年間1848億円(2009年)もの税金が投入されている。北澤委員長が理事長を務めた「科学技術振興機構」も1067億円だ。原子力に直接かかわってはいないはずの学者・研究者とて、どれだけ文科省の意向から独立していられるものか、見当がつかない。
本書の序章を、最初は共感をもって読んだが、本書が原発の賛否そのものの議論を封じていることで、なぜ「政策の大きな失敗について」政府が調査報告をしてこなかったのか、その理由のひとつが鮮明になった。それは、
つまり、事故(と敗戦)の前と後とで間違いと分かっても、舵を切ろうとしないこと。序章で船橋氏が戦争の教訓を持ち出したことに、趣旨が逆だったにせよ、いまでもわたしは頷く。だれの責任も問わず、なにも変えない。