プーシキン暗号:『青銅の騎士』は誰なのか? 補章1 テキスト問題と検閲 (2023.12.16)



プーシキン暗号:『青銅の騎士』は誰なのか?

補章1 テキスト問題と検閲


青銅の騎手の「本当の」テキストはどれ? 

プーシキンが「青銅の騎手」を書き上げたのは1833年のことですが、その最終原稿が皇帝ニコライ1世のお気に召さず、詩人の生前に出版されなかったことは本論で述べたとおりです。では今日私たちが読んでいるのがこの検閲でボツにされた原稿のテキストなのかというと、実はそうではありません。これが青銅の騎手の「テキスト問題」です。

なぜこんなことになったのか? 調べると、実はプーシキンの生前から今日までずっと、時代ごとに、また世代ごとに、テキストの異なる「青銅の騎手」が読まれていたことが分かりました。おそらくこのことが、作品のストーリー自体の「わけの分からなさ」に加え、ピョートル記念像の怪談めいたイメージとも相まって、作品を読者から遠ざけてきた遠因の一つだったのではないか、とさえ思うのです。

このことは「出版」ということの意味を、改めて考えさせます。そもそも皇帝が検閲を通していたら、最終原稿はそのまま印刷に回されて、世に出たはずですので、テキスト問題が生じる余地は無かったことでしょう。作者の生前に出版されなかったばっかりに、作品の「本当の」テキストをめぐって、190年ものあいだ決着を見ないまま、今日に至っているのです。まさに Publish or perish。

「青銅の騎手」の出版物のテキストの変遷を追跡できたのは、プーシキンの著作で出版されて世に出た作品については、その印刷本のコピーがインターネット上で公開されているからでした。(Институт русской литературы (Пушкинский Дом) ) それを利用した結果、「青銅の騎手」のテキスト印刷史の時代区分は、以下の版が画期となっていることが見えてきました。

 1834年 断章版 プーシキンが序章のみを一部伏字のまま出版したもの
 1837年 ジュコーフスキー改作版 プーシキンの死後に加工して出版
 1904年 ボルジノ原稿版 ボルジノで清書した第一自筆原稿
 1917年 皇帝検閲版 プーシキンが検閲用に清書した第二自筆原稿
 1950年 スターリン版 スターリン時代に確定されたテキスト

それぞれの呼び名は私が便宜的につけたものです。冒頭述べた、現在私たちが目にするテキストとはスターリン版をいいます。私が本論執筆にあたって底本とした「10巻全集第3巻(1975年)」もスターリン版ならば、現在ネット上で読むことのできるテキストもこのスターリン版です。つまり、このスターリン版があたかもプーシキンの「最終テキスト」のごとく、1950年から70年以上にわたって「正典」の扱いを受けて現在に至っています。

では、それぞれのテキストはなぜ、そしてどう違っているのでしょうか?

清書された「最終」自筆原稿は二つあった  

プーシキンはボルジノで完成した手稿を自ら清書しました。この最初の清書原稿の末尾には「1833年10月31日ボルジノ」の書き込みがあり、これは清書が終わった日の記録と考えられます。この清書原稿に基づいて校訂したとするのが1904年刊行の「ボルジノ原稿版」で、これがジュコーフスキーの改ざん箇所をプーシキンの元の原稿どおりに復元した、最初の完全版「青銅の騎手」となりました。

この「ボルジノ原稿」がプーシキンの唯一の最終原稿であれば事はシンプルだったのですが、彼はペテルブルクに戻ると、皇帝への提出用にボルジノ原稿のコピーを作成します。ところが、そのコピーは忠実な写しではなくて、少なくない変更が加えられたのです。これが皇帝ニコライに修正を求められて返却されることになる二つ目の清書原稿です。この第二清書原稿に基づいて校訂されたのが、1917年の「皇帝検閲版」です。

それではなぜ校閲者は、一方は第一清書原稿を底本とし、他方は第二清書原稿を採用したのでしょう?

ボルジノ原稿版のテキストを校訂したのは П. О. Морозов(ピョートル・モローゾフ 1854ー1920年)。その1904年出版の著作集の書名の副題に

Критически проверенное и дополненное по рукописям издание
(プーシキンの)自筆原稿に基づいて批判的に校訂増補した版
とあるのは、それまで残っていたジュコーフスキーの改ざん箇所を全てプーシキンの原稿どおりに復元した、とも読めます。モローゾフがプーシキン著作集の校訂編集に携わったのはこれが最初ではなくて、実は1887年出版の、どちらかというと研究者向けのプーシキン著作集も彼の編集です。そこでは、皇帝ニコライが排除した箇所の多くが復元されているものの、その一方で検閲を考慮してジュコーフスキーが Кумир クミール(偶像)から変更した Гигант ギガーント(巨人)の語はそのまま残っていました。(ただし、脚注で異稿として引用あり)

ということで、1904年が、初めて検閲修正のない、プーシキン自身が清書した原稿のまま出版された年になります。1834年の断章の出版からすでに70年が経っていました。

当然ながら疑問が生まれます — なぜモローゾフは皇帝から返却された第二自筆原稿のほうを底本としなかったのか? 今の時点で読むと奇妙に思えるのですが、モローゾフは作品の解題で、皇帝から返却された方の清書原稿の存在に言及していないのです。プーシキンの死後、このボルジノ原稿の他に多くの手稿、下書き、修正メモなどが残されていましたが、モローゾフはそれらを皆ボルジノ原稿から派生した修正原稿のように看做していたフシがあります。

そうして1917年に П. Е. Щёголев(パーヴェル・ショーガレフ 1877〜1931)がようやく第二自筆原稿を底本にした「皇帝検閲版」を校訂出版しました。そこに添えられた「青銅の騎手のテキスト」という改題の冒頭でその作業の意義をこう自負しています。

青銅の騎手が書かれて85年になるが、これまで出版されたどの版もプーシキンが印刷を意図したテキストを再現したものではなかった。唯一本書において、85年の時を経て初めて、プーシキンが印刷を望んだ通りに校訂されたテキストが世にでることになった。 (Текст «Медного всадника», П. Е. Щёголев 1917)

プーシキンは「青銅の騎手」の出版を諦めなかった 

青銅の騎手のテキスト問題がこんなに複雑で、かつ長引いているのは、プーシキンが一度原稿を返却された後でも、なんとか検閲を通過させて出版しようとして、テキストに修正を加える努力をしていたこともその理由の一つに挙げられます。なぜあきらめなかったのか? その理由は本論を読まれた方にはお分かりと思います。けれどその結果、二つの清書原稿の他に、そこに加筆上書きされた修正、新たな手稿、メモ書きが残されました。そこに校訂・編集の方針が混乱する余地が生まれます。

「皇帝検閲版」が出版されて、これが定本として定着したかに見えました。1930年のプーシキン6巻全集にも編集者の一人にショーガレフの名が見えて、「青銅の騎手」のテキストは1917年版のままです。ところが、1950年の10巻全集のテキストは、1914年版とも、1917年版とも異なります。校訂者による説明の記載もありません。いったいこの間、そしてその後今日まで、何があったのでしょう?

テキスト問題に関する幾つかの論文を見ると、だいたい以下のような状況が見えてきます — プーシキンは青銅の騎手の出版を2度試みた。最初は1833年。これは皇帝に修正を要求されて、結局序章のみの出版に終わった。しかしその後、プーシキンは再度出版を試みようと原稿に修正を加え始めたが、完成まで至らなかった。そうして修正や加筆のためのメモや、清書原稿そのものに書き込んだ改変や追加など、多くの「草稿」が残されることになった。すると、一旦は第二清書原稿が最終テキストになったものの、その後、詩人が「思い描いた最終の」テキストを再構成すべきと、第一清書原稿、第二清書原稿そして修正加筆メモから取捨選択したようなテキストが完成した — そこにはどう見ても学術的な議論を経ずに、外的な力で決まった気配を感じます。以来70年も君臨しているテキストが、スターリンの恐怖統治の時代の産物だったことは何か暗示的です。

二つの清書原稿のスキャン(撮影)画像が公開されていない

テキスト問題がこんなに尾を引いているのは、そもそも二つの清書原稿そのものが公開・出版されていないことも背景にあります。ボルジノ原稿版にしても、皇帝検閲版にしても、それぞれの校閲者がどれだけ原稿に忠実に校訂したか、確かめようがありません。以下の3枚の画像がネット上で見つけることのできた清書原稿のページです。(クリックで拡大表示)

ボルジノ原稿 ボルジノ原稿 ボルジノ原稿

左はボルジノ原稿の序章の冒頭。私のような初心者でも読めるきれいな筆跡です。中央は検閲原稿の序章の抹消された4行が見えるページ、右は第2章のピョートル像と対峙するシーン。Кумир に下線が引かれ、?マークが付けられています。こんな小出しにせず、全ページを公開してほしいところです。漱石の「坊っちゃん」(1906年)は自筆原稿が残っていて、そのまま新書版で読むことができます。桂川甫周の「北槎聞略」(1794年)もPDFで自筆清書本が公開されています。

いったい皇帝ニコライ一世の検閲は何だったのか?

このテキスト問題にはもう一つの側面があって、それは、校閲者も解説者も誰ひとり皇帝ニコライの検閲内容について論評していない、という事実です。皇帝はなぜ序章の4行が気に入らなかったのか、なぜ Кумир の語を排除したのか、なぜピョートル像との対峙シーンに?マークをたくさん付けたのか、その仮説や推理が聞こえてきません。あたかも、「検閲」という言葉そのものがタブーであったかのようにも思えます。それとも、皇帝は単なる気まぐれで嫌がらせをしただけなので、論評に値しない、と研究者間で暗黙の一致を見ているのでしょうか? 

それでも、「青銅の騎手」に込めた詩人の意図は揺るがない

テキスト問題を掘り下げることは読者に不安を与えてしまいそうですが、こと「青銅の騎手」に関してはその核心部分はほぼ清書原稿のテキストのままであるので、一般の読者はそれほど気にする必要はありません。ただ関心のある読者やロシア語研究者にとっては、プーシキンがどんな語やフレーズで置き換えを検討したのか、参考になる資料と見ることも可能です。というのも、プーシキンの詩作品は完璧で、どの単語も移動させたり、他の単語に置き換えることもできない、と誇らしげに語るお方が時々いらしゃるからです。ロシア語を知らなかった頃は、ふーん、そんなものか、とそこまでプーシキンを理解している人を尊敬したものですが、あれは詩人を賛美する際の常套句だったようです。

例えば、皇帝からNGとされた Кумир の代わりにプーシキンは、出版のためならと Седок シドーク(騎手・ライダー)を代替えの候補にしました。作品に込めた意図次第で、詩人は自由に言葉や表現を入れ替えることをしているのです。ジュコーフスキーはそれを Гигант に変更したのですが、プーシキンは、どう間違っても、「巨人」にすることはなかっただろう、と私は今思うのです。



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