プーシキン暗号:『青銅の騎士』は誰なのか? 補章2「青銅の騎手」のバレエ化とスターリニズム (2024.2.27)



プーシキン暗号:『青銅の騎士』は誰なのか?

補章2「青銅の騎手」のバレエ化とスターリニズム


吹奏楽曲として人気の「青銅の騎士」 

日本ではロシア語学習者にさえもさっぱり読まれることのない「青銅の騎手」ですが、吹奏楽のコミュニティではバレエ音楽から編曲された組曲「青銅の騎士」がよく知られています。原曲がバレエのための管弦楽曲であることの珍しさに加えて、何よりも20世紀の現代音楽らしからぬ「わかりやすい」曲調であることが人気の背景にありそうです。現に「青銅の騎士」をキーワードに検索をかけると、この吹奏楽曲が結果の上位を占めます。こうしていったん楽曲の邦訳タイトルとして定着してしまうと、「騎士」の誤訳も修正がいよいよ難しくなりそうです。

吹奏楽曲が人気の一方で、肝心のバレエは一般に知られていませんでした。そもそも1963年の舞台を最後に、上演されることがほとんどなかったからです。プーシキンの原作を知る人なら、あの怪奇物語をどうやってバレエで表現したのかしら、とその舞台演出に興味を持ったことでしょう。

そんな上演機会のないバレエ演目でしたが、意外にも、現在ネットでその動画を見ることができます。2016年にペテルブルクで上演された舞台をフランスのTV音楽チャンネルMEZZOがライブ配信した映像です。おかげで私自身この幻のバレエを初めて見ることができました。(The Bronze Horseman Mariinsky Theater 2016

芸術娯楽作品ですから、演出と踊りの評価は専ら個人の好みの問題ですが、プーシキンの原作との比較で言うと、やっぱり、バレエにするにはこんなふうにストーリーを改ざんするしかなかったのだろうな、と不人気の理由に納得がいきます。その一方で、別の疑問も生まれました — なぜ2016年という時点で復古上演されるのか?

バレエ「青銅の騎手」は1949年の作品 

バレエ音楽の作曲者はレインゴーリト・グリエール(Рейнгольд Глиэр 1874-1856)。バレエはレニングラード(現サンクトペテルブルク)の「キーロフ記念オペラ・バレエ劇場(現マリインスキー劇場)にて1949年3月に初演、その翌年に、ショスタコービチのオラトリオ「森の歌」とともに、スターリン賞を授与されています。オラトリオは露骨なスターリン賛美の歌詞に作曲したものですが、バレエの方はピョートル大帝を賛美することで暗にスターリンのイメージを重ねる効果を出しています。つまり両者はスターリンの提唱する「社会主義リアリズム」の模範作品と看做されたのです。「社会主義リアリズム」は今では死語ですが、

ソビエトにおいてスターリンの独裁体制が固まるにつれ、1925年に彼が提唱した「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という方針を元に全ての作品が評価されるようになった。美術でも音楽でも文学でも、労働者や農民大衆にもわかりやすく写実的筆致で、ロシアに古くからあった伝統的な画法や旋律、様式をもちいることが求められた。 (ウィキペディア「社会主義リアリズム」

一見難解なプーシキンの原作はそのままでは「わかりやすい」オペラにもバレエにも向かないので、何よりも男女の恋の物語に改変する必要がありました。そうしてバレエは、ピョートルと彼の作った都市の賛美、洪水に引き裂かれた男女の悲恋、という歴史ロマンスに書き換えられました。あえて特徴を挙げれば、バレエ組曲には「偉大な都市の讃歌」のタイトルを付けられた終曲が、付け足したように置かれていることでしょう。1949年という時点では、それはレニングラード包囲戦で100万人以上が犠牲になり、かつそのほとんどが餓死者だった、という悲惨な経験をした都市であればこその意味があったことでしょう。

もうひとつ1949年という年から想起されることは、ちょうどこの頃に「青銅の騎手」のテキストが「皇帝検閲版」から「スターリン版」へと版替えが行われたことです。これ以降に出版されたプーシキン全集では、収録された「青銅の騎手」が皇帝の検閲によって出版されなかった詩人の最終テキストを再現したものではないことの明記が避けられています。

2016年の復古上演とスターリニズムの復活 

「森の歌」は、それまでの作品が「社会主義リアリズム」の理念に反するとして、いわゆる「ジダーノフ批判」にさらされて要職を解任されたショスタコービチがやむなく作曲したものですが、ではグリエールが、自分から独裁者の意に叶うような作品を提供する世渡り上手だったのかどうかは、裏付けとなる資料も議論も見つかりません。ただバレエがどれだけ受け入れられたかについては、ウィキべディアのロシア語版にまとめられているバレエの公演記録が参考になります。それによると、1949年3月のレニングラードでの初演から3ヶ月後、舞台をモスクワのボリショイ劇場に移して、1962年の最終公演まで、計109回上演された、とあります。モスクワ以外の都市ではわずかに、ウクライナのリヴィウ・オペラ・バレエエ劇場で1951年に上演があった他、サハロフ、ノボシビルスク、カザンなど州都の劇場でそれぞれ1952年、1953年そして1963年に上演されただけで、その後ぱたっと上演が止まってしまいました。1953年はスターリンが死んだ年です。そうして1956年のフルシチョフによる「スターリン批判」が引き起こした衝撃のなか、ショスタコービチは1962年に「森の歌」からスターリン礼賛部分を削除した改訂版を発表します。バレエ「青銅の騎士」の方は、1953年の公演後は鳴りを顰めて、1963年の上演が最後となります。

そんな長く忘れられていたバレエが、半世紀ぶりに復活上演されたのは2016年。それが冒頭紹介したペテルブルクのマリインスキー劇場で収録された動画です。指揮者は同劇場の総裁でもあるヴァレーリィ・ゲールギエフ(Валерий Гергиев 1953 - )。彼はロシアのウクライナ侵攻が始まっても、プーチン支持の姿勢を崩さなかったことから、ロシアの侵攻に反対する各国の交響楽団等からの解任や公演のキャンセルなど相次ぎ、そのことがニュースでも報じられましたが、私にはとくに驚きではありませんでした。というのも、ずいぶん昔のことですが、彼が来日した時のTVのインタビューを見たことがあって、そのときに指揮者にしてはずいぶんと偏狭で民族主義的なロシア音楽観を語る人物だなあ、と違和感を持ったことが記憶に残っていたからです。

西側音楽界から三行半を突きつけられたゲールギエフですが、その翌年2023年には、プーチン政権はウクライナ侵攻に批判的だったボリショイ劇場の総支配人を解任して、その後釜にゲールギエフを据えました。このようなプーチンによる彼の厚遇ぶりを見ると、なぜ今になってバレエ「青銅の騎手」の復古上演なのか、その背景が透けて見えてきます。「形式においては民族的、内容においては権威主義的」の新しいスターリニズムが文化・芸術・教育で支配的になっているのです。

映画まで作られた 

2016年のペテルブルクでの上演の後、バレエは2023年の3月にアストラハン州の州都でも上演があったことが、ウィキペディアの記事に追加されています。そして事は舞台に限った話ではありません。2019年には「青銅の騎士」の新作映画まで作られました。日本での公開はありません。

映画は、父親が幼い娘に、ペテルブルクを案内しながらピョートル大帝のことを説いて聞かせる現在のペテルブルクのシーンと、ピョートル記念碑の建立にまつわるエピソードをドラマ化した18世紀後半のペテルブルクという、過去と現在を交錯させる手法で撮られていますが、大帝像に関しては、台座の巨大な花崗岩を運び込むにあたっての苦労、ピョートルの頭部はファルコネにアシスタントとして同行した見習い女性彫刻家の作であること、彫刻家は跳ね馬のデザインのために、わざわざ舞台を作らせて、その上で騎兵将校の跨る馬に何度も後足で立たせてスケッチを繰り返したこと、鋳造作業の際に、高熱の溶けたブロンズが誤って流れ出して火災を引き起こし、あわや塑像も灰燼に帰すところだったことなど、どれもすでによく知られているエピソードを寄せ集めているだけで、何ら目新しさはありません。おそらく子供向けの教育映画として予算が付けられたものでしょう。

映画のタイトルは Медный всадник Россииロシアの青銅の騎士)。「ロシアの」を付与した意図は、いかにも子供向けの映画らしく、エンディングであからさまに表現されています。

 

プーシキン記念像たちの沈黙

本論で、ロシアによる侵攻が続く中、2022年4月にウクライナのテルノピリにソビエト時代に建てられたプーシキン像が撤去されたことを紹介しました。その後調べを続けると、撤去されたプーシキン記念碑は1個や2個ではありませんでした。 ウィキペディアに Снос памятников Пушкину на Украине(ウクライナにおけるプーシキン記念碑の解体)という項目があり、それによると2023年11月までに撤去された例は37体にも上っています。いったい、ソビエト時代からプーシキン像は何体どこに設置されたのか調べたら、その数ロシア連邦内に約300体、旧ソビエト連邦の国々を含めると世界で670体、との記事が見つかります。これは青銅製のものばかりではなく、石膏像なども含むと言いますが、それにしてもこんなに乱造しては、有り難みも薄まってしまうというものです。かつて日本のどの小学校にも建てられていた二宮金次郎像を連想してしまいます。

そもそもデカブリストの友人たちを密かに讃えたプーシキンの叙事詩は、その意図をカモフラージュするために「ペテルブルクの物語」という副題が添えられ、かつこの都市を賛美する長い序章を置いたのですが、それにまんまと騙されたエリート学者が権力に擦り寄った結果、作品がこの都市を建設したピョートルへの讃歌だとする解釈が主流となりました。それがスターリン時代には強権的指導者に対する服従のススメという色合いさえ帯びることとなり、プーシキン自身までが権力迎合型の詩人扱いされました。「青銅の騎手」の「権力vs個人」解釈とプーシキン記念像の大量設置は、文化思想統制のための、言わば、車の両輪だったのです。

ドストエフスキーは「スペードのクイーン」について大いなる誤解を地上に残した上に、天国まで持って行ってしまいました。同様にスターリンも「青銅の騎手」について恥ずかしい誤読の痕跡を地上に残して、天国へ去って行きました。現代の小スターリンは、はたして地上を離れる前に、「ロシアの青銅の騎士」の大いなる妄想に気づくでしょうか。



[HOME] > [楽しいバイクライフのために]