プーシキン暗号:『青銅の騎士』は誰なのか? 補章3 なぜ主人公の名がエウゲーニィ? (2025.4.4)



プーシキン暗号:『青銅の騎士』は誰なのか?

補章3 なぜ主人公の名がエウゲーニィ?


What’s in a name? 

「青銅の騎手」の主人公の名はエウゲーニィ。この名は「エウゲーニィ・オネーギン」の主人公からとっていることをプーシキン自身がそれと分かる表現で本文で告げています。

В то время из гостей домой
Пришел Евгений молодой...
Мы будем нашего героя
Звать этим именем. Оно
Звучит приятно; с ним давно
Мое перо к тому же дружно.
その時、知人宅で過ごした夕べから
帰宅したのは若きエウゲーニィ
この物語の主人公をこの名で
呼ぶことにしよう。なにしろ
響きがいいし、長いことこの名は
わたしのペンの連れ合いだ。
では、なぜプーシキンは「青銅の騎手」を「エウゲーニィ・オネーギン」と関係づけようとしたのでしょう?

「オネーギン」の最終章(第8章)が出版されたのは1832年。その翌年の1833年には、それまで分冊の形で順次出版されていた全8章が合本されて出版されました。これが完本「エウゲーニィ・オネーギン」の初版本です。プーシキンは「青銅の騎手」を1834年に発表する算段でしたので、この主人公名の共用が読者の注目を集めるであろうことは想像したでしょうし、むしろそれを意図したと見るのが妥当です。しかしながら、プーシキンの思惑は皇帝の検閲のために頓挫してしまいました。原稿の改ざんされた「加工版・青銅の騎手」がどうにか世に出たのは詩人の死後の1837年 — すでに主人公の名がどうのと、話題にする空気は希薄でした。

そもそも「オネーギン」って、どういう物語? 

「エウゲーニィ・オネーギン」はプーシキンの代表作と言われてきた長編物語詩ですが、では一体これがどんな話なのかは、実はまともな議論がありません。というのは、ロシアでも日本でも、エウゲーニィ・オネーギンとはすなわちチャイコフスキーのオペラであって、ほとんどの人にとってプーシキンの物語詩はその原作でしかありません。

Opera Onegin そのオペラ「オネーギン」のあらすじはあきれるほどに単純です。

田舎の貴族の令嬢タチヤーナは都会から来たダンディのオネーギンに恋心を抱き、手紙を送る。エウゲーニィはそれを無碍にはねつける。数年後公爵夫人となったタチアーナと再会したエウゲーニィは今度はタチヤーナの美しさに魅せられて求愛するが、拒否される。

シンプルと言えばシンプル。要するに、オペラはエウゲーニィとタチアーナのすれ違いの恋の物語です。その意味では、タイトルはむしろ「エウゲーニィとタチヤーナ」にすべきではなかったか、とさえ思えます。でも、チャイコフスキーのオペラのリブレットは、「スペードの女王」がそうだったように、プーシキンの原作とは別物なので、オペラで原作を知ったつもりになることには危うさが伴います。

叙事詩は追放処分の身で書き始めた 

上述のように、「オネーギン」は出来上がった章から順次出版されたのですが、その出版年を実際の印刷物で追うと、以下のようになります。

第1章  1825年
第2章  1826年 タイトルページに「執筆1823年」とある
第3章  1827年 巻頭に出版事情の断り書きあり
第4-5章 1828年
第6章  1828年
第7章  1830年
第8章  1832年 序文で「削除した章」に言及
完本版 1833年 「削除した章」の断章付き

ただし上記のように、1826年出版の第2章の執筆は1823年で、脱稿してもすぐに出版の運びとはなりませんでした。第3章の巻頭にある断り書きとは以下の短文です。

Первая глава Евгения Онегина, написанная в 1823 году, появилась в 25. Спустя два года, издана вторая. Эта медленность произошло из посторонних обстоятельств. Отныне издание будет следовать в беспрерывном порядке: одна глава тотчас за другою.
エウゲーニィ・オネーギンの第1章は1823年に書かれて、25年に世に出た。第2章も出版されたのは2年後。この遅れは外部の事情に起因している。今後は途切れることなく出版されるだろう - 章の後にはすぐに続章が。

外部の事情」とは自身の関与していない事情という意味で、原稿は完成しても出版許可がすぐに下りないことを遠回しに言っていると思われます。読者の中には、なぜ続きが出るまで1年も2年も待つのか、疑問視する向きもあったでしょうから、ひと言弁明しておく必要があったのでしょうが、それと同時に、出版許可を遅らせている当局へのせめてもの抗議、当て付けだったのかもしれません。

それが功を奏したものか、続く第4、5、6章は第3章の出版の翌年の1828年に立て続けに出版ができています。ただしそれも脱稿から2年も経ってからのことです。「オネーギン」の日本語版ウィキペディアによれば、各章の脱稿時期は以下の通りです。

第1-2章 1823年
第3章  1824年
第4-5-6章 1826年
第7章  1828年
第8章  1830年

このことから「エウゲーニィ・オネーギン」は7年をかけて執筆されたことになりますが、注目すべきはその執筆環境です。1820年、詩人は自由主義的内容の政治詩が元で南ロシアに追放され、24年からは母方の領地ミハイロフスコエ村に蟄居の処分を受けるのですが、この蟄居中に1825年12月のデカブリストの乱を知ることとなります。つまり、「オネーギン」は流刑の地で構想され、デカブリストの乱の前に執筆が始まり、デカブリストの乱の首謀者の処刑が行われた後の26年9月、プーシキンは新皇帝ニコライ一世にモスクワに召喚され、流刑が解除となります — ただし、体制に批判的な思想や行動を改めるという条件で。

そうして1830年まで「オネーギン」は書き続けられるのですが、では、作品は最初から全体の構想があって、その通りに書き進められて、完結の運びとなったのでしょうか? はたしてプーシキンは「体制に批判的な思想」を改めたのでしょうか?

プーシキンは作品プランをどう考えたか? 

第1章は主人公エウゲーニィが、亡くなった叔父の遺産相続のために、ペテルブルクから田舎の領地へと急ぐシーンから始まります。いきなりストーリーが動き出すのかと思いきや、その後はエウゲーニィと作者のプーシキン自身が過ごしていた首都の生活と文化について冷笑的かつ批判的な回想と描写が続きます。そうして章の終わりで冒頭のシーンの時点に戻って、主人公は田舎にやってきても首都と同じ倦怠感を覚えます。こうして文明批評のような印象を残す第1章の最後には以下の詩行が見えます。

Тогда-то я начну писать
Поэму песен в двадцать пять.
Я думал уж о форме плана
И как героя назову;
Покамест моего романа
Я кончил первую главу;
時が来て私は書き始める
25歌からなる叙事詩を。
すでに作品の構想も
主人公の名前も考えた。
こうして我が物語の
第1章を仕上げた。

なんだか執筆開始宣言のような響きがあります。ヨーロッパ文学では長編叙事詩の「巻」は伝統的に「歌(Canto)」と呼ばれ、イーリアスとオデュッセイアはともに24歌からなる叙事詩ですので、25歌というのは長編になることを示唆したものでしょう。そう考えると、結果として全8章となったものの、それが最初の予定だったのかどうか疑問が残ります。単に、章数の話ではなくて、最終章でオネーギンがタチヤーナに求愛して拒まれる、という慌ただしいエンディングからは何か急ごしらえの印象を受けてしまうのです。

デカブリストの乱が作品のプランを変えた 

最終章の終わり方が不自然なのは、脱稿年からも伺えます。続章を次々と出版するぞ、と公言しながら、第7章、第8章ともに、脱稿も出版も明らかに遅延しています。デカブリストの乱の後のことです。

しかも、出版された最終章(第8章)にはわざわざ序文をつけて、実はオネーギンがロシアを旅する内容の一章をまるまる削除して、第9章の番号を本章に当てた、と明らかにしているのです。さらに1年後に出版の合本では、その「オネーギンの旅」の断章も一緒に載せています。

ならば、その「オネーギンの旅」を第8章にして、最終章を第9章にすればよかったのに、と思ってしまいますが、実はさらに「第10章」の遺稿が残されていて、その断片は現在の著作集にも掲載されています。ということは、「オネーギン」は少なくとも全10章あるいはそれ以上の章から構成される予定だったこと、しかし9章で終わらせるには第8章が不要になったこと、おそらく第9章を最終章(第8章)として完結させるには大幅に当初のあらすじを変更せざるを得なかったこと、などを読み取ることはごく自然なことです。

なぜそうなったのか? それにはデカブリストの乱が深く影響しているのでしょう。反乱が失敗したのち、強まる思想統制と詩人が望んだ姿から遠ざかるロシア社会にあって、「エウゲーニィ・オネーギン」の最初の構想はもはや現実にそぐわないものとなった。だからプランを変更して無理やり完結させるしかなかった。そうして「オネーギン」で目指した長編叙事詩は未完成のまま完結した。その創作熱の残り火が「青銅の騎手」のエウゲーニーに託されて、ふたたび燃え上がった — そう解釈できます。「体制に批判的な思想」を改めたフリをするために、巧妙に検閲をかわす語法と文体はしばしば読者に「二重性」を感じさせるものになっていたのです。だから、たとえ「青銅の騎手」がデカブリストのためのレクイエムだと気づいた研究者がロシアにいたとしても、発表か命かの重い選択を迫られたに違いありません。



[HOME] > [楽しいバイクライフのために]