トップページ > 社会の部屋 > 歴史で知りたいテーマ > 豊臣家の滅亡について


大阪冬の陣、夏の陣と豊臣家の滅亡(めつぼう)について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【二条城(にじょうじょう)での会見(かいけん)について】
付書院

 大阪には豊臣秀吉(とよとみひでよし)の子の豊臣秀頼(とよとみひでより)
がいて、徳川家康はいまだ豊臣秀頼(とよとみひでより)の家臣という立場で
あるが、事実上は徳川家康の天下であった。後は、主君の立場の入れかわ
りを、どのようにして豊臣秀頼(とよとみひでより)に認めさせるかであった。

 1603年に徳川家康(とくがわいえやす)は
征夷大将軍(せいいたいしょうぐ
ん)になり、江戸(えど)に幕府(ばくふ)を開く
が、豊臣秀頼(とよとみひでより)
は、徳川家康の家臣にはならず、大阪城にいて大名の中でも特別な存在と
なっていた。

 1605年には徳川秀忠(とくがわひでただ)が2代の征夷大将軍(せいいたい
しょうぐん)となり、徳川一族が天下を引き継いでいくことを大名に知らしめた
が、豊臣秀頼(とよとみひでより)はこれを無視した。このころには、豊臣家に
恩を感じている加藤清正(かとうきよまさ)や浅野幸長(あさのよしなが)などの
大名がいたため、豊臣秀頼(とよとみひでより)も強気でいた。しかし、加藤清
正(かとうきよまさ)や浅野幸長(あさのよしなが)たちも、豊臣家にもはや天下
を取る実力がないことを承知(しょうち)していて、豊臣家が徳川家のもとで大
名として存続(そんぞく)していくようにと考えていた。そのため、この二条城
(にじょうじょう)での会見(かいけん)が行われることとなった。

 1611年3月28日、豊臣秀頼は(とよとみひでより)は、加藤清正(かとうき
よまさ)や浅野幸長(あさのよしなが)の警護(けいご)で二条城(にじょうじょ
う)におもむいた。そこで、豊臣秀頼(とよとみひでより)と徳川家康が会見(か
いけん 会って話をすること)した。この会見は、なごやかな様子で行われ、2
時間ほどで終わった。

 この二条城での会見の意味は徳川家康にとっては大きな意味があった。大
阪城は豊臣家のホームグランドであり、二条城は徳川家の京都出張所(きょう
としゅっちょうしょ)であった。豊臣秀頼がホームグランドの大阪城を出て、徳
川家の京都出張所に出向いてきたということは、
豊臣秀頼が徳川家康の家臣
になったことを示していた。この1611年の二条城会見(にじょうじょうかいけ
ん)によって、徳川家と豊臣家の主従関係(しゅじゅうかんけい)が内実ともに
逆転したことを示したのである。

【大阪冬の陣(おおさかふゆのじん)について】

 二条城(にじょうじょう)会見(かいけん)の後も豊臣秀頼(よとよみひでより)は
大阪城にいて浪人(ろうにん)を集めてその権威(けんい)を保とうとした。豊臣
家をほろぼそうと考えるようになっていた徳川家康は方広寺(ほうこうじ)の鐘
(かね)に書かれた「国
 君臣豊楽 子孫殷昌」の文章を「徳川家康の
名前を二つに切りはなして呪(のろ)い、豊臣家は主君として子孫が栄えるのを
楽しむ」とよみ、言いがかりをつけて大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)を
中止させた。

 豊臣家はこの中止を驚(おどろ)き、徳川家康に使いを送ったが、
  ● 豊臣秀頼が大阪城を出る
  ● 淀君(よどぎみ)が人質(ひとじち)として江戸に来る
のどちらかを選べという条件をつきつけたため、徳川家と豊臣家の話し合いは
まとまらず、戦争状態におちいった。

 1614年に徳川家康は大阪城攻撃(こうげき)を大名に命じ、大阪冬の陣(お
おさか)冬の陣(ふゆのじん)
が始まった。豊臣家は豊臣秀吉(とよとみひでよし
)に恩を受けた大名に助けを求めたが、助ける大名はなく、真田幸村(さなだゆ
きむら)、長曽我部元親(ちょうそがべもとちか)、後藤又兵衛(ごとうまたべえ)
などの浪人10万人が集まった。徳川家康は幕府軍(ばくふぐん)20万で大阪
城を取り囲んだが、大阪城の守りはかたく簡単には落とせなかった。

 そこで、徳川家康はいったん豊臣秀頼と仲直りをした。その仲直りの条件に、 大阪城の外堀(そとぼり 城の外側の堀のこと)をうめるということを加えた。これ が、徳川家康のたくみな罠(わな)であった。幕府軍(ばくふぐん)は大阪城の外堀 (そとぼり)だけではなく、内堀(うちぼり 城の内側の堀のこと)までうめてしま い、大阪城をまる裸(はだか)にしてしまったのである。

 豊臣家は約束が違うと徳川家康に抗議(こうぎ)をしたが、
  ● 豊臣秀頼が大阪城を出る。
  ● 大阪城の浪人(ろうにん)を追い出す。
のどちらかを選べという条件をつきつけたため、徳川家と豊臣家の話し合いは
まとまらず、再び戦争状態におちいった。

【大阪夏の陣(おおさかじょうなつのじん)について】

 1615年、豊臣家と徳川家の間で再び戦争が始まった。これを大阪夏の陣
(おおさかなつのじん)
とよんでいる。豊臣家の武将は30万におよぶ徳川家
康の幕府軍を迎えうち戦った。だが、真田幸村(さなだゆきむら)、後藤又兵
衛(ごとうまたべえ)などの武将が勇戦(ゆうせん)むなしく討ち死にすると、
豊臣家は大阪城に引きあげ、大阪城に立てこもった。堀(ほり)が埋められて
いたため、徳川家の幕府軍に攻め立てられ、大阪城は焼け落ちた。豊臣秀頼
と淀殿(よどどの)は燃えさかる大阪城の中で自殺して、豊臣家はほろびさった。

↑ 大阪夏の陣の戦いの様子