(11) 授策



「公瑾どの、お休みですか?」 
周瑜の寝ている部屋に孔明が入ってきた。
「・・・・・何の用だ」
「男が女の寝室に入っていって、何の用ということはないでしょう」
「・・・・私を抱こうというのか」ほの暗い明かりの中でも、顔を背ける周瑜の美しさをはっきりと見ることができた。
「そうだと言ったら?」
「おぬしを憎む。そして必ず殺してやる」
孔明はその答えを聞いてははは、と笑った。
「喉を突いて自害する、とでもいうかと思いましたが、さすがにあなたは違いますね」
「それでは犬死にだ。そんなみっともないことができるか」
「ではあなたを抱いてもいいわけだ」
「今の私は抗う術が無い・・・それでおぬしが満足するというのならな。だが覚えておくが良い。おぬしの抱くのは私の抜け殻だということを」
「あなたはキツイお方だ」そう言って孔明は周瑜の牀台に腰掛け、周瑜の肩を抱くように腕を廻した。

孔明は周瑜に唇を寄せた。
「私の唇に触れるな。噛みきるぞ」
「おお、怖い。ですがそれも一興・・・・いいですよ、やって御覧なさい」
構わずに孔明は周瑜に口付けした。
「つ・・・・」
顔を離した孔明の唇から、血がしたたった。
「前にも言ったが私はあなたが嫌いだ」
「それでもいい。私のものになれば少しは考えも変わるでしょう」
孔明はそのまま周瑜を牀に押し倒した。

(ああ・・・・伯符さま・・・・)

つぅ、と涙がこめかみを流れた。





戦いは孫軍の圧倒的勝利に終わろうとしていた。
その勝利に湧く全軍の中で、周瑜が連れ去られたことを柴桑にいる孫権が知ると、火のごとく怒った。
「公瑾・・・・・戦はおまえのおかげで勝ったというのに、肝心のおまえがいないのでは話しにならぬ。待っておれ・・必ず助け出してやる」
そしてすぐに魯粛が劉備軍のいる夏口城に派遣されることになった。
 


そのころ孔明を訪ねて一人の男が来ていた。
「おお、士元どのではないですか!おひさしゅう・・・・」
「まったくだ、孔明どの」
ホウ統であった。彼は徐庶と別れ、一旦呉に行ったものの、求める人に会えず夏口へ来た。
「今、どうなされているのです?」
「今は浪人しておるよ」
「それはもったいない。あなたさえよろしければ是非ここにとどまっていただきたいのですが、いかがですか?」
「・・・・考えておこう。それよりおぬしに聞きたいことがあるのだ」
「なんでしょう?」
「周公瑾どのを、どうした?」
「・・・・・」
ホウ統の鋭い視線を孔明はそらした。
「おぬしが囲っているのはわかっておる。そのうち呉から督促が届くぞ。どうするつもりだ」
「私のもとには周公瑾などという人はおりませんよ。あるのはただ一輪の花だけです」
「おぬしがシラを切っても、おぬしの主君はそれができぬ男だと思うがな」
「・・・・・」
「会わせてくれ、公瑾どのに」
「お会いになってどうなさるというのです。だいたいあなたとあの人はどういうお知り合いなのですか」孔明はいささか冷たい口調になった。
そこへ、孔明を呼びに劉備の従者が来た。
「どうぞ、お会いになるならご自由に。ただしあの人にいらぬことを吹き込まないでくださいね」
 
 

「月瑛は孔明どののことを想うておられるのか?」
唐突な質問に、月瑛は持っていた盆を取り落としそうになった。
「な、何を急にそのようなこと・・・」
周瑜は背もたれのついた椅子に座し、少しくつろいだ様子でいた。
「ちがうのか?」
月瑛は激しく動揺した。
「わ、私は・・・公瑾さまがもうすこし孔明さまに優しく接してさしあげてくださったら良いのに、と思っているだけでございます」
つい先ほども孔明が部屋にきて、周瑜と話すのをはらはらしながら聞いていたのだった。
そのとき、周瑜は全身で激しく孔明を拒絶していた。
「それは無理だ、月瑛。なぜだかは賢いそなたならわかるだろう?」
おっとりとそう言い、薄紫の袍を纏い、頬杖をつく様は美しい、と改めて思う彼女であった。
「はい・・・ですが、孔明さまはあなたさまのことを」
「月瑛。人には曲げられない意志というものがあるのだ。孔明がどう思おうと、私を拉致した罪を許すわけにはいかない」
「・・・・・公瑾さまはそのようにお美しくて、あの孔明さまに召されて、私のような醜女にはうらやましい限りでございますのにどうしてそれを拒むのですか?」
「私の心は女ではない・・からだろう。そなたにとっての孔明のような者が私にはもういないからね」
周瑜の少し寂しそうな物言いに月瑛は自分が立ち入ったことを聞き、非礼を犯してしまったことに気づいた。
「公瑾さま・・・・申し訳ありません。不躾なことを申しました」
「月瑛、私はそなたのそういう素直なところが好きだよ。もっと自分に自信を持ちなさい。そなたが自分の貌を気にしているのだとしたら、決して美しさだけが女のすべてではないことを知るべきだ」
月瑛は、耳まで朱くなった。周瑜の言うことひとつひとつに心を洗われるような気持ちだった。
「・・・無理かもしれませんが、私、孔明さまにお願いしてみます。公瑾さまをお国へお返しするように、と」
 

そこへ、部屋の外から声をかけるものがいた。
月瑛があわてて出てみると、そこには見知った顔があった。
「まあ、ホウ士元さま!」
「おお、これは黄氏・・・・月瑛ではないか。そなたなぜここに?」
「孔明さまのお召しによりまして出仕いたしました」
「そうか・・・・ときにこちらにお客人がおいでではないかな?」
「・・・・孔明さまのお許しを?」
「さっき表で会った」
「そうでございましたか」

ホウ統は案内されて部屋に入ると、そこには求める人物の姿があった。
「おお、公瑾どの。やはりここにおられたか」
「士元どの!?なぜここに?」
「東呉に寄ったのですが、あなたが行方知れずだといって騒ぎになっておりました。その少し前、曹軍を脱出する際、孔明の乗った船を見かけたので、そうではないかと思ったのです」
「そうでしたか」
周瑜は微笑した。
その笑顔を見ながらホウ統は周瑜の傍の椅子に腰掛けた。
「・・・・東呉は今どうなっています?」
「戦いに勝利した勢いで志気は上がっていました。程徳謀が指揮を、韓、黄がそれを補佐しております。黄は傷を負ったようですが助かったようです。おそらくもうじき魯子敬がここへくるでしょう」
「曹操はどうしました?」
「自ら船に火を放ち、孫軍の追っ手を阻みました。さすがというほかありません。今頃は江陵に入ったころでしょう」
「だが陸には劉軍の伏兵があったはず。逃したということか・・・」
「さて。そこまでは聞いてはおりません。孔明にでもお聞きになった方が良いでしょう」
ホウ統は周瑜のそばに体を寄せ、ささやくように言った。
「孔明はあなたを傍に置いておきたいようですが、そのう、あなた自身はいかがなのです?もう孔明に・・・・?」
周瑜はホウ統をぎろ、と睨み、
「くだらないことをお聞きになりますな。この私が孔明に囲われて良い気分なわけがないでしょう」
と吐き捨てるように言った。
「それを聞いて安心しました。実はあなたを呉に返さざるを得ない策があります。それを劉豫州どのに上申しようと思っておるのです」
「・・・・・どのような策です?」
「この後、曹操軍を追って、両軍とも兵を出すでしょう。その際におそらく江陵で両軍は出会います。どちらが先に動くか、というときにもめるでしょう」
「・・・私を交換条件に使うつもりですか。そんな恥をさらすくらいならば生きていたくありません」
「まあ、最後までお聞きなさい。呉としてみればあなたを人質にとられているようなものですが、逆にこうも考えられます。このことは劉豫州の与り知らぬことです。
あのお方は義に厚く仁の性質であるからそれを負い目に感じることでしょう。
それをもっとも効果的な時期−江陵攻めの時−に利用するのです。おそらく何も言わずあなたをお返しするうえ、江陵攻めの先行を呉に譲るでしょう」
「私をさらったのは孔明の独断なのですか?」
「おそらく。あの娘・・・・黄 月瑛をここに呼んでいるのは外の者には内密で事を運んでいるからでしょう。おそらくあなたがここにいることを城内の誰も知らないのではないでしょうか」
「・・・・・そう、うまくゆくでしょうか」周瑜は不安げにホウ統を見た。
「ゆかせてみせますよ、それよりあなたの体が心配です。大丈夫なのですか」
「・・・薬が、まだ体に残っているのです。だいぶもとに戻ってきてはいますがまだまともに歩くこともできません」
「・・・・・・そのようなお姿を呉の将たちが見たら孔明の首を先を争って取ろうとするでしょうね」
 
 
 

大広間では曹操軍を追っていた将兵たちが戻ってきて、酒宴が始まっていた。
「なに?明日にでも油江口へ向かえというのか」
その席で劉備は孔明から今後の動きについて問いかけた答えがこれであった。
「はい。もちろん。江陵へ向かうためです」
「しかし、呉もだまってはいまい」
「大丈夫です。呉は動きません」
孔明がそう言い切るのに対し、劉備は少し不思議な顔をした。
「それより、曹操を取り逃がした関雲長のこと、我が君のとりなしで他の将への言い訳がなんとか立ちました。さすがでございます」
主を賞賛する孔明に、劉備は眉をしかめてそれへ答えた。
「孔明よ、本当は雲長にはこのような謀を仕掛けたくはなかった私の心情を察してくれ」
「・・・・ごもっともでございます。ですぎた口をききましたことをお許しください」
「いや。そなたのいうことはいちいちもっともだ。ただそれに時々私の心が付いていけなくなるときがあるのだ」
 

と、その酒宴の中、魯粛が到着した、と報告があった。
ぴく、と孔明の眉が片方だけ動いた。
「すぐに行く」
劉備は腰をあげた。
「私もご同席申し上げます」といって、孔明もあとに続いた。

「孔明どの」
劉備の後に続いて通路を歩く孔明に声をかける者があった。ホウ統である。
「・・・・・士元どのか」
「呉から魯子敬どのが来ているようだな」
「・・・・・そのようです。まさか会ってきたのではないでしょうね?」
「いや。これから帰るところだよ」
「やはりここには残ってはいただけないのですか」
「しばらくはのんびり暮らすつもりだ、縁があればそういうこともあるだろう」
そう言って、ホウ統は去っていった。

しかし、実はホウ統はすでに魯粛と会っており、策を授けていた。
魯粛はその話を聞いて驚き、また孔明に対しての不信感を募らせた。
そして、劉備と孔明が魯粛の待つ部屋に入り、簡単に挨拶を済ませた後、魯粛は切り出した。

「孫呉軍は江陵へ向け出発する準備に取りかかっております。そのまえに同盟である豫州どのにご挨拶をと思いまして」
「それはそれは」
劉備は、さきほど孔明が呉は動かない、と言ったのを思い出してちらり、と孔明を見た。

孔明は魯粛の話に不信を抱いた。
周瑜のいない孫軍にそのような決定がすぐ下されるはずはない。

「ちょうど我が軍も明日にでも出発しようと思っていたところです」劉備はなにげなくそう言った。
「そうでしたか。ですがここは我が方に譲っていただくのが筋というものでしょう」

孔明はそのとき、しまった、と思った。
誰かが、魯粛に入れ知恵したにちがいない。さしずめ先ほど帰ったホウ統あたりであろうか。
彼はおそらく周瑜の元へ行き、解放してやるとでも約束したのであろう。

「ところで、劉豫州どの。孔明どのが連れ去った我が大都督・周公瑾を返していただきたい」

劉備の顔は何をいっているのかこの者は、といった表情になって孔明を見た。
孔明の顔がひきつっているのを劉備は初めて見た。

 
 
 

(12)へ続く