(12) 虜囚


 
 

なぜ、こんなに惹かれるのだろう。

この乱世を生きる者として、やらねばならぬことがまだ山ほどあるというのに。
 
 
 

「魯子敬があれで納得したとは到底思えぬが、どうか?」
劉備に問われ、孔明ははっと我に返った。
その様子を見て、劉備は笑った。
「どのような事情があるのかは知らぬが、この私にも言えぬことなのか、孔明よ」
「我が君・・・・」
孔明は頭を垂れた。

周瑜をかえせ、という魯粛の要請に、孔明はあくまでシラを切りとおした。
しかしその結果、江陵への先乗りは呉が動くことになった。

「我が君。これは内密のお話にさせていただきとうございます。よろしいでしょうか」
「おお、あいわかった。なんなりと申せ」
「・・・・・・魯子敬の言ったとおり、私の手元には確かに周公瑾がおります」
「・・・・やはり、本当なのであったか。しかし、一体なぜだ?孔明。なぜ呉の大都督をさらったりする必要があるのだ?私にはさっぱりわからん」
劉備と孔明は二人しかいない部屋で声をひそめて話をしていた。
「お許しください、我が君。これは私事でございます。周公瑾は・・・・私にとっては同盟国の都督などではなく・・」
いつになくしおらしい孔明を劉備は穏やかに見つめていた。
「一人の女なのです」
劉備は両目を大きく見開いた。
「・・・・?周公瑾が女だと・・?そなた、今そう言ったか」
「はい。たしかに申しました」
「・・・・そんな話は聞いてはおらん」
「そうでしょうとも。呉の中でもそのことを知る者はごく限られているようですから。秘中の秘ということになります」
「・・・・驚いた。そんなことがあるものなのか」
「周公瑾は女であることをことごとく否定し幾多の戦いに参加してきました。それもあの知謀を持って、すべてに勝利している。驚くべき女性です」
「・・・・そういう者であるから、そなたのような鬼謀の持ち主の心を捉えたのであろうな」
劉備は少しからかうようなものの言い方をした。
劉備の言葉に、孔明は少し頬を赤らめた。
「おおせのとおりでございます。同盟にヒビを入れかねない過ちを犯してでも、手に入れたかったのです」
劉備は笑った。
「いや、孔明。私は嬉しいのだ。そなたの策や謀計を聞きながらいつも思っていた。そなたの心が常人のごとく揺れ動くことがあるものなのか、と。それが今のそなたは全く可愛いというか、権謀術数などというものとは全く無縁の若い男なのだな、と思わせる」
劉備は孔明の背中をぽん、と叩いた。
「改めて私は、そなたが好きになったぞ、孔明」
孔明は劉備のこの反応が内心嬉しかった。
「しかし、このままではいずれまずいことになろう。そなたのはじめての我が儘をきいてやりたいところだが、やはり周公瑾は返さねばならぬ」
周瑜を連れ去るところを見られた以上、それは孔明も覚悟している。
「・・・・・・本意ではありませんが」
「会えるか、周公瑾に」
「・・・・では、このままでお待ちください」
 

劉備の意を受けて、孔明が部屋に戻ると、灯りがついていなかった。
「・・・?」
不信に思い、部屋の中を見回すが、周瑜の姿はどこにもなかった。月瑛もいない。一体どこへ行ったのか?
 
 
 

月明かりの中、夏口城から一騎の馬が駆けていく姿があった。

馬を操る乗り手はもちろん周瑜であった。
しかし、薬の抜けきっていない体では手綱を持っているのがやっとであった。
周瑜は落馬しないように、荒縄で馬体に自分を縛り付けていた。
「戻らねば・・・なんとしても・・・」
荒い息を吐きながら自分にそう言い聞かせた。
 
 
 

その頃。

孫軍の駐屯している烏林では、江陵攻めの軍議が行われ、先発隊は呂蒙、甘寧らが立つことになった。
呂蒙はもちろん、周瑜のことを心配していたが、甘寧らの手前口には出さないでいた。
「なあ、子明よ、都督はどうなされたのだ?あれからお姿をみせんが」
「・・・・・柴桑に戻ってるらしい。ここは徳謀どのが指揮を執られる」
甘寧は顎に手をあててしばらく考えていたが、やがて口を開いた。
「おかしいぜ、それ。柴桑に何があるんだ?大都督が前線を離れるほどの重要な何かでもあるのか?」
「俺にきくな。俺は何も知らん」
「嘘だろ。おまえは絶対なにか隠してる。教えろよ」
甘寧はしつこく呂蒙に食い下がった。
甘寧をやっとの思いで追い払い、ほっとしていた呂蒙の目に、意気の上がる陣内で一人、うつむき地面に座ったままの徐盛の姿が映った。
呂蒙は徐盛に声をかけて、その隣に腰を下ろした。
「おまえのせいじゃない、そんなに落ち込むなよ」
「・・・・・」
うつむいたまま、呂蒙の方を見ようともしない。
呂蒙は溜息をついた。自分だって、周瑜に孔明がちょっかいを出していたのを知っていたのに、どうすることもできなかった。
「なあ、もうじき子敬どのが帰ってくる。そうしたら状況がわかるさ。そしたら手の打ちようもあるだろ?」
徐盛はふいに顔を上げて呂蒙を見た。
「・・・そうだ・・・あの方がいつまでもおとなしく捕らわれているはずはない。もしかしたら近くにおられるかもしれん・・・・」
そう言ったかと思うと急に立ち上がって、行ってしまった。
「・・・おいおい・・なんだってんだ・・・・くそ、勝手な奴め」
 

甘寧は陣舎のまわりをうろうろしていた。
明日の朝出立だというのに、落ち着かない。
「本当に、都督はどうなされたのか。今度こそ、一緒に戦えると思ったのに」
甘寧は周瑜の容姿も気に入っていたが、それよりも周瑜の理路整然とした戦略と奇計が好きだった。

「子敬どのはまだか。一刻も早く都督をお助けせねばならぬというに」

聞き捨てならぬ言葉が甘寧の耳に飛び込んできた。
彼の立っていた後ろの天幕は、ちょうど右都督である程普が陣舎として使っているものであった。

「なに・・・!?」
都督を助ける?それはどういうことなのだろう?
甘寧の抱いた疑問への答えは同じ言葉を吐いた口から聞くことになった。

「夏口城までどれくらいかかるものなのだ。えい、まったく、いらいらさせる・・・・・そうか、都督をさらったのは、水戦後の混乱を良いことに我が軍の動きを封じることが目的なのだ!」

(都督がさらわれた?まさか、なぜそんな、劉軍は同盟勢力ではなかったのか?)
甘寧は今聞いたことを呂蒙に糾そうと思った。
(子明ならなにか知ってるはずだ)
 
 
 
 

「月瑛。あの人を逃がしたのはおまえか」
月瑛が部屋に密かに戻ると、灯りを消したはずの部屋が明るく、そしてそこには孔明がいた。
「・・・・・・お許しください。孔明さま」
月瑛は孔明の前で叩頭した。
「何があったのだ」 
「・・・・公瑾さまが血を吐いて倒れられたのです」
「・・・何だと!それで」
「そしてこう申されるのです。自分の命数はいくらもない、だから急がねばならない、と」
孔明は首を激しく振った。
「・・ばかな・・・!無茶なことを・・・!」
「血は、ほんの少しだけでした。医者を呼ぼうとしたのですが公瑾さまが止めるのです。そのかわりここから逃がせ、と」
月瑛は涙ぐんでいた。
「して、月瑛。馬はどちらの方向に走って行った?」





周瑜を乗せた馬は、乗り手が気を失ってしまったため、漢水にそって北に向かってしまっていた。
華容から偵察にでていた曹仁の部下は漢水のほとりでこの馬を見つけた。
彼らは馬に縄で縛り付けられている女を見たとき、どこからか捕らわれていて逃げ出してきたのだと思った。
縄を切り、馬から下ろすと馬はそのまま走ってどこかへ行ってしまった。
女の美貌に、兵たちはドキリとした。
「何をしておる」
かれらの背後から、上司である牛金が声をかけた。
「なんだ、なぜこんなところに女がいる?」
牛金は周瑜を見て、このままここにおいては兵たちに諍いが起こると思い、城に連れかえることにした。
襄陽にはまだ曹操がいるはずだった。
これだけの美女をつれていけば、恩賞がもらえるだろう、という目論見もあった。

牛金は周瑜を腕に抱いて運んでいるとき、奇妙な感覚に捕らわれた。
急に、曹操に渡すのが惜しくなったのだ。
このような戦場で会ったのも何かの縁であろうという気がしてならない。

そうして周瑜は知らぬ間に、夷陵の曹軍の城にまたしても捕らわれることになってしまった。



(13)へ続く