北野天満宮、云わずとすれた菅原道真公を祀り、「天神さん」の愛称で親しまれている。今では、学問の神として名高く、受験シーズンには多くの受験生が詣でてくる。ここ北野は、御所の北西に広がる原野であり、そこに雷神を祀る社が既に存在していた。雷神とは、水の神でもあり、農耕するものとっての祀り神でもあった。平安京になる前からの土着民が既に生活していた所でもあったのであろう。そんな北野の地に、菅原道真公を祀る社殿を造営したのが、947年(天暦元)。33歳で学者としての最高位の「文章博士」とない、宇多天皇の厚い信任を受けていた菅原道真であった。その後も醍醐天皇の御代には右大臣まで上り詰めるが、藤原一族らの嫉妬を招く事になり、901年(延喜元)、左大臣藤原時平の讒言で、時の醍醐天皇の廃位を図ったという濡れ衣を着せられ、大宰府に左遷されてしまう。道真は、身の潔白を訴えるが、都に戻る事も敵わず、2年後に失意のうちにその生涯を終える。道真没後、都には天変地異や疫病流行などの災厄が相次ぐなか、時平はじめかっての政敵が次々と急逝する。そして、御所清涼殿に落雷するに及んで、道真の祟りだとし、その祟りを鎮めるため、北野天満宮が創建され、且つ、それまで祀られていた雷神とも合わさった。
平安京は、天満宮に限らず、祟りを恐れ鎮めるための社などが、結構多くある。政争などにより、非業の死をした高貴な人達に恐れを抱いていたという事なのだろう。そもそも平安京への遷都を図った桓武天皇自身が、父光仁天皇の跡を次ぐに際しては、異母弟の他戸親王と争い、藤原百川の謀略により、天皇を呪詛したという濡れ衣によって、井上内親王・他戸親王の母子が大和国の宇智に幽閉され、3年後にその地で殺されてしまう。更に、その後、百川が頓死したことにより、井上内親王・他戸親王の祟りではないかと恐れられる。光仁天皇の跡を継いだ桓武天皇は、長岡京に遷都するが、造営長官の藤原種継の暗殺により、異母弟の早良親王を糾弾し、皇太子の地位を剥奪して、乙訓寺へ幽閉した。幽閉された早良親王は、抗議をこめ絶食、壮絶な最後を遂げる。そして、3年後、桓武天皇の夫人藤原旅子(百川の娘)が亡くなり、続いて后の一人多治比真宗が病死、翌年、天皇の生母も世を去る。更に翌年、皇后の藤原乙牟濾(百川の姪)が薨去。更に后の坂上又子が死ぬという悲劇が続いた。これらは、早良親王の怨霊として、その怨霊を鎮めるため、平安京遷都後、先の井上内親王・他戸親王も含めた霊を祀ったのが、上御霊神社であった。
自ら権力を獲得するための争いは、日本に限らず多くの国の歴史で出てくる話であるが、日本の特徴は、かっての政敵を神として祀るところにあるようだ。この辺りが、日本独特の神社の仕組みをつくりあげいったように思える。近代になっては、国家に功労がったとする人達も祀られていく。
さて、北野天満宮に戻ろう。菅原道真公といえば、梅、大宰府へ発つとき詠んだといわれる「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春を忘るな」は、あまりにも有名だ。だから天満宮と言えば、梅はつきもの。北野天満宮も2000本の梅の木が咲き誇り、ほのかな香りで迎えてくれる。そんな、梅の時期に良くお参りした。
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社殿の前には、受験生が行列している。社殿は、桧皮葺の多数の屋根が統合した八棟造と呼ばれる形式で、豊臣秀頼により再建された。見るともなく見てしまった絵馬、夫々の志望校が記してある。宗教心が薄いと云われる現代の若者達も、無意識のうちに正月の初詣などの古来からのまつりごとに参加してしまっているのが面白い。
楼門の前に梅園が広がる。平安朝時代は、桜より梅の方が愛でられたという。桜のような艶やかさはないが、厳しい寒さが緩み始めると、静に花が開きほのかな香りがかよいだす風情が、万葉人に心引き付けるものがあったのだろう。
天満宮の梅、何故か白梅が合っていると思うのも、道真とのイメージが合うからだろうか。
千本釈迦堂の沿革
千本釈迦堂 大報恩寺 真言宗智山派
1227年(安貞元) 求法上人義空が開創
北野天満宮の東にある千本釈迦堂は、応仁の乱でも焼失を免れた本堂が残る貴重な本堂である。これは、山名持豊率いる西軍の本営をおいた所であったためともいう。京都のお寺の殆どは、はるか洛中から離れていても、応仁の乱で焼失という話を良く聞いていただけに不思議な気がする。それにしても、現代から見れば無益な戦いをしたものである。歴史にもしはないが、応仁の乱がなかりせば、日本の歴史も多少変わっていたかもしれないが、更には、京都そのものも大きく違っていたのではないかと思う。
ここ千本釈迦堂の本堂前におかめ像が安置されている。これには、美談と悲話が残る。本堂造営の際、棟梁である高次が、柱の寸法を切り誤って悩むのを見た妻のおかめが、「斗組(ますぐみ)」を施し高さを調節する事を提案し、成功したという。しかし、おかめは、自分が助言したと世間が知れば、夫の棟梁として評価に傷がつくと、上棟式を前に自害してしまう。そのおかめの徳を偲び、災い転じて福をなすということから、「お多福」と呼ばれるようになった。
本堂内陣には、本尊の釈迦如来像を安置した須弥壇を、四天柱が囲んでいて、柱上部に渡された梁のようなものが、おかめが提案した斗組と云われている。本堂裏手の霊宝館には、釈迦十大弟子像をはじめとした仏像以外にも、足利義満の乗車御所車の輪やだ太鼓縁などが何気なく展示されているのも面白い。
北野天満宮の西よりに平野神社がある。京都でも代表する桜の名所でもある。ここの花見は、桜の下で宴が催すようになっているようだが、その時期に訪ねた事はなかった。本殿は、四つの社殿を横一列に連結させた珍しい建築様式である。この神社も歴史が古く、桓武天皇が奈良より勧請したといわれ、平安時代には朝廷からも崇敬されていたという。
北野天満宮の東口から、今出川通りのわずか350m程度の細い道が、上七軒通りといわれる花街。西陣の織物業者に支えられ繁栄した街で、祇園などの花街とは異なった風情がある。豊臣秀吉から京都初の茶屋の特許が与えられた由緒あるところだが、残念ながら、舞妓さんや芸妓の姿を見ることは出来なかった。
この上七軒からそう遠くない遊郭を舞台にした水上勉原作の「五番町夕霧楼」。原作を読んだ事はないが、佐久間良子が主演・映画化されたのを思い出す。そんな哀れさを誘うもののない街ではあるが、何か風情が似合うように思えてくる。