京都に於ける徳川幕府の威光と権威を示すような二条城、1601年(慶長6)に徳川家康が、将軍上洛の際の居館として築城を命じ、三代将軍家光により、1624年(寛永元)から大改造が3年の歳月をかけて行われた。本丸、二の丸、天守閣を備えた総面積8万3000坪、建物面積2200坪という大規模なものであった。京都御所を上回る規模、そして、天守閣からは、広く京の都を一望し、御所を見下ろす事もできる。正に徳川の威信を示すが如くそびえる二条城を、御所ではどのような思いで、見ていたのであろうか。二条城の大改造が終わった1626年(寛永3)に、後水尾天皇以下、総勢千人に及ぶ行幸が二条城を訪れた。御所と二条城の間は、2Km程度の距離なので、先頭が二条城に入門した時も最後尾は、未だ御所の中だったと云われている。後水尾天皇は、寵愛していた御与津との間を幕府の手によって裂かれ、秀忠の五女和子を迎えざるを得なかった。そこに、かっての藤原氏や平氏が辿った道、己が娘を側室と送り、その子を天皇とすることにより、幕府が朝廷をも操る事が目的であったと思われる。そんな後水尾天皇は、どのような心境で、二条城を訪れたのであろうか。天守閣にも登りその眺望を眺めたともいう。己が御所を見下ろし、複雑な心境であったのではないだろうか。一見、朝廷と幕府の良い関係に見えたものの、この後に起こった「紫衣事件」を端に、後水尾天皇の幕府に対する憤りからだろう突然明正天皇に譲位してしまう。このため、益々朝廷と幕府の関係は、冷めたものなっていく。そして、徳川幕府の権威もより強くなったこともあって、この二条城に将軍が訪れる事は、幕末でなかった。家康が、ここに二条城構築を決める際重要視したのが、外濠・内掘の水であった。そして、眼につけたのが神泉苑。平安京の大内裏に隣接する禁苑だった。往時には、池の周囲には豪華な殿舎が設けられ、池に船を浮かべて管絃の宴を催したという。更に、かって大干ばつに見舞われた時、西寺の僧守敏に雨乞いをさせたが、雨が降らず、東寺の空海が雨乞いを行うと、大粒の雨が降り出したという逸話が残る。そして、後の祇園祭の起源となった御霊会が行われた。そんな神泉苑も朝廷の権力低下と共に、廃れていったが、この神泉苑の水に眼をつけた家康が、神泉苑の北側を二条城に取り組んでしまった。
時が流れ、1867年(慶応3)、十五代将軍 徳川慶喜が、二条城の大広間で大政奉還を上表する。徳川幕府の象徴として、かっての平安京の象徴ともいえる神泉苑の一部を取り込んで造られた二条城も、徳川幕府の終焉の舞台となったのは、歴史の皮肉を感じてしまう。
画像はクリックして拡大できます。
二条城といっても、城のイメージはわかない。今も残る櫓の存在が、城なのだという感を抱かせる。二条城という目的から、当然かもしれない。
、平安京の頃は、西側にある千本通がかって朱雀大通であったが、今では、東側の東大手門の前、堀川通に、何時も観光バスが数多く駐車している。
東大手門からしばらく進むと、唐門が迎える。極彩色の彩色を施した彫刻や、金箔押し飾り金具が豪華だ。
正面に二の丸御殿が広がる。二の丸御殿は全33室、800畳余という広さで、夫々の部屋には、狩野探幽率いる狩野派の一門によって描かれた障壁画や襖絵が埋め尽くしている。そして、有名な大広間が、大政奉還を表した所。ともかく広い。
二の丸御殿の南西側に広がる二の丸庭園で、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀を配した池泉回遊式庭園で、小堀遠州作と云われている。
本丸の西南隅には五層の天守閣がそびえていたが、1750年(寛延3)落雷で焼失し、更に1788年(天明8)の大火により焼失。その後、永らく再建されてこなかったが、幕末に徳川慶喜の住居として本丸御殿を建立、明治になり撤去後、明治26年から27年にかけて、京都御所にあった旧桂宮邸を移築した。
二の丸御殿の北側には、清流園が広がる。江戸時代初期の豪商角倉了衣の屋敷から建物の一部と庭石を譲り受け、更に全国から集めた銘石を基に茶室を加え、昭和40年に完成したもので、市民茶大会や国賓の接遇に利用されている。
二条城の南側に神泉苑がある。二条城側の北門から入ると「法成就池」が広がる。かっての大池だったという事がピンとこない。神泉苑の歴史を知らなければ、小さな池があるとしか思わないかもしれない。池の南側には、善女龍王を祀る社がある。かって、空海が雨乞いした時に、水の神である善女龍王が呼び寄せられ、雨が降ったことにより、ここに祀られている。
神泉苑は、四季折々、木々や花々によって異なった景観を示すという。訪れたのが3月上旬で、そうした艶やかさを見ることが出来なかった。
京の人は、神泉苑とは言わず、「御池」と呼び親しんできたところだが、平安京の優雅な時代を思い感じる場所として、何時までも、この姿で残っていて欲しいものだ。