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山代の国から山城の国へ(2)

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松尾大社

阪急嵐山線の松尾駅前から大きな鳥居がたつ「松尾大社」は、上賀茂・下鴨両社と並ぶ古社。百済から帰化した古代豪族の秦氏の子孫である秦忌寸都理が、701年(大宝元)に、松尾山に坐す神霊を氏神と仰ぎ、社殿を営んだ事に始まる歴史ある神社で、地元では、「松尾さん」と親しみをこめて呼ばれている。
祭神は、大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)で、大山咋神は、山の上部に鎮座し、山及び山麓一帯を支配する神であり、比叡山と松尾山を支配する神という。中津島姫命は、福岡の宗像大社に祀られる三女神の一神で、古くから海上守護の霊徳があると云われている。平安時代には、大山咋神は、上賀茂神社の祭神 賀茂別雷神の父神にあたるとも云って、賀茂とも関係付けられたという。そして、江戸時代ころからは、造酒の神として全国の酒造家より幅広い信仰を集めるようになった。これは、秦氏が、伝来の新技法による酒造りを伝えたという伝承、及び境内に湧く名水「亀の井」の水が、醸造の際に混ぜると酒が腐らないといわれていることからであろう。このような事から、今でも全国の酒類・味噌・醤油・酢などの製造・販売業者から祀られている。
松尾大社の宝物殿には、平安初期の作と云われる御神体の三像が祀られているが、木造の御神体像は、珍しい。


霊亀の滝

上古の庭

蓬莱の庭

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表参道の鳥居をくぐり、参道を進むと立派な楼門があり、その奥に拝殿・本殿が広がっている。
社殿の背後の松尾山(別名 別雷山)を含む約12万坪が境内というのだから驚く。裏手を流れる渓流を御手洗川と称し、松尾山の別名といい、賀茂両社との関係深い事を意味して面白い。その御手洗川に霊亀滝がかかっている。又、松風苑と呼ばれる庭園の中には、上古の庭、曲水の庭などがある。更に、客殿の前には、蓬莱の庭も広がっている。

広隆寺

嵯峨野一帯を開発した秦氏。その長が、天皇から古代朝鮮語で族長を表すといわれる「ウヅマサ」の姓を賜り、やがて長の住む地は、太秦とよばれるようになった。今では、太秦というと映画村が有名であるが、京福電鉄太秦駅前に豪壮な南大門が建つ。南大門をくぐると広い境内が拡がる。観光客もまばらな境内には、近くの人達の憩いの散歩処のような感じである。
この広隆寺の霊宝堂に目指す「弥勒菩薩半跏像」がある。その穏やかで思慮深い顔を拝顔していると、心落ち着くものがある。まるで穢れのない子供のようなあどけなさも感じられる。奈良・中宮寺の「弥勒菩薩半跏像」も有名だが、それより物静かなたたずまいのように思える。弥勒菩薩は、釈迦が亡くなってから56億7000万年後のこの世の下生に伴い、衆生を救うために現れるという。如何に、人々を救うか修行してあるところの像とも云われている。
そんな広隆寺は、603年(推古11)に建立され、四天王寺・法隆寺などと共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つであった。この寺の建立にあたっては、日本書紀において、聖徳太子が「吾、尊き仏像を持つ。誰かこれを拝むものなきや」と訪ねたところ、秦河勝が、これを受け広隆寺を創建したという。その仏像が、「弥勒菩薩半跏像」だったと見られる。今では、広隆寺となっているが、古くは蜂岡寺とか秦寺などと呼ばれていたそうで、元々は、北野白梅町付近にあったと云われている。
広隆寺は、これまで2度の大火にあい、堂宇や僧房は殆ど焼失してしまったが、創建当初からの寺宝は殆どが守られてきた。その中でも国宝20点、重要文化財48点という多くの寺宝が残る。
平安初期まで活躍したであろう秦氏もその後の歴史上の表面には出てこないが、秦氏の残した功績が、残っている事に感慨を覚える。広隆寺は、関西在住まもなく訪れたが、それ以来、訪れる機会がなかった。又、いつの日か、「弥勒菩薩半跏像」前にぬかずきたいと思う。