左大文字山の北側にそびえるのが、鷹峰三山(鷹ケ峰・鷲ケ峰・天ケ峰)。この鷹峰のふもと一体を、1615年(元和元)徳川家康によって、本阿弥光悦に野屋敷と与えた一帯である。光悦は、そこに一族縁者をはじめ、種々な工芸にたずさわる多くの職人と共に住居を構え、光悦を中心とする工芸集落を営んだ所であった。本阿弥光悦は、代々の家業である刀剣鑑定はもとより、書や陶芸、絵画、蒔絵にも卓越した才能を発揮した芸術家であり、古田織部に師事した茶人でもあった。そして、法華経の熱烈な信者であった。そんな、光悦の菩提寺である光悦寺や常照寺、そして源光庵などの寺々が、広がる。
仏教大学前から、東北方向が北山通で、修学院の方向となる。真直ぐに上る細い道が千本通で源光庵に突き当る感じとなる。両脇の家や店は、如何にも古風な感じを抱かせ、市街地からそれほど離れていないのだが、昔日の京の街の風情を感じさせる。
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光悦寺(こうえつじ)の沿革
1615年(元和元) 本阿弥家の位牌堂を設ける
1637年(寛永14) 光悦の死後、日慈上人を向かえ開山
光悦寺は、紅葉でも有名であり、特に、石畳の参道両脇の紅葉の下を進んでいくのは良い気持ちになる。
庭園には、幾つかの茶室が点在していて、お寺の庭園というよりも、山荘の感じを強くさせる。茶室の周りは、「光悦垣」とも「臥牛垣」と呼ばれる竹垣で、割り竹を菱形に組んだもので、光悦が好んだものだという。
そして、休憩場の縁側に坐ると、眼の前になだらかな鷹峰の山稜が見える。
常照寺(じょうしょうじ)の沿革
1616年(元和2) 本阿弥光悦から土地の寄進を受け、日乾上人が創建
宗門の学問所、鷹峰壇林を設置。数百人の僧が学ぶ。
明治初期に壇林は廃止される。
源光庵から、光悦寺とは反対方向に進むと、常照寺の山門がある。この山門は、二代目吉野太夫が寄進といわれ、別名吉野門と呼ばれている。光悦と親しかった吉野太夫は、日乾上人に深く帰依したという。その帰依の証が吉野門であった。四月に、太夫を偲ぶ花供養が行われ、現役の島原の太夫を招かれるという。
そんな常照寺には訪れる人も少なく、気のよい受付のおばさんに招き入れられ、庭園を散策し、お茶を一服する。境内には、太夫の墓もある。静かな一時が過ごせる所である。
源光庵から千本通を少し下った所を、鷲峰方向に入ったところに「しょうざん」がる。「しょうざん」は、松山政雄氏が開設したもので、広大な敷地の中に食事所などの施設があるが、その中に数寄屋造りの迎賓館が「峰玉亭」である。その庭園には、北山台杉などが林立している。
峰玉亭の庭園光景