鴨川に流れ入る高野川の上流に開けた比叡山を南に見る山間の里が、大原である。平安時代、皇太子への道が閉ざされた惟喬親王が隠遁して以来、大原は隠れ里ととして知られるようになった。又、中国声明の中心地であった魚山に似ていたことから、天台声明の地として、数々の寺院が建立され、後に三千院がこれらの寺々を統括していく。大原は、円仁によって声明の修練道場として開山し、藤原時代になって俗化した叡山を離れた念仏聖が修行する隠棲の里になった。寂源によって声明道場として勝林院が開山し、良忍が来迎院を建立し、天台声明の中心地として栄え、宝泉院、実光院、往生極楽院などの多くの坊がなりたっていたという。
源平時代の末期には、平清盛の次女で高倉天皇に嫁ぎ、安徳天皇を産むものの、壇ノ浦で心ならずも助け上げられた建礼門院も、東山の麓で剃髪した後、大原・寂光院に移り住んでの隠遁生活。建礼門院が大原に残した足跡は大きいと云われる。一つが大原女の装束。建礼門院の侍女の服装を真似たものという。又、名物のしば漬けも、村人が建礼門院に献上した夏野菜を、侍女が紫蘇と一緒に漬けたのが始まりという。そんな里には、今でも現世を忘れ一時の心の安らぎを求める旅人がやってくる。
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大原を訪れたのが、9月と11月であった。何れも、コスモスが咲き誇る里であった。
寂光院(じゃつこういん)の沿革
594年(推古2) 聖徳太子により創建
1185年(文治元) 建礼門院徳子が隠棲
1186年(文治2) 後白河法皇御幸
寂光院、心無い者によって放火されたのが、平成12年の5月。訪れたのが、2年後の秋であった。本堂は焼失してしまい、小さな御堂が建立されていた。本尊の地蔵菩薩も焼損したが、本尊の胎内に納められていた3417体の子地蔵は奇跡的無傷であった。寂光院の地蔵菩薩にすがりたかったのであろう建礼院門は、ここに隠遁した生活を送ったのも、愛息と平家一門の冥福を願ってのものであったであろう。時代が下がって、豊臣秀吉亡き後淀君も、亡くなった長男鶴松の冥福を祈ったのか寂光院の修復をしている。子を持った母親というごく素朴な人間の基本に対する慈愛がここにはあるのだろうか。
三千院から寂光院への道は、田園の中を歩いているようだ。道の端には、コスモスが咲き、家々の庭にはたわわに実った柿の実が秋の空の下に映えている。はるかな昔、このような道をたどり、後白河法皇が、建礼院門を訪ねたのだろうか。それは、自らの悔いを思いつつの旅路であったのだろうか。そんな感傷を抱かせる道行きであり、寂光院だ。
「浪速より 小原の里にしたひきて 寂光院のみ仏にぞなむ 願へひと六万身の地蔵尊わけてたまはる信の深きに」
寂光院御詠歌
建礼門院 「思いきや 美山の奥にすまゐして 雲居の月をよそに見むとは」
大原の里から北へ2kmの地、焼杉山の山腹に位置する古知谷。大原の開放感のある里とは違って、仙境を思わせる深い木々に囲まれた山道を登っていくと阿弥陀寺が建つ。隠れた紅葉の名所ということで、大原から古知谷まで足を延ばしてんみた。この道を更に北上すれば、若狭の国に行く。かって、鯖が京の都に送られた鯖街道の一つだ。
古知谷 阿弥陀寺(こちたに あみだじ)の沿革
光明山法国院阿弥陀寺
1609年(慶長14) 弾誓上人により創建
阿弥陀寺への参道口は、広く開けた平地で、山門も型も唐門のような感じである。山門前の道がかっての若狭街道だろうか。
阿弥陀寺本堂までの参道は、正に山間の道を歩く感である。阿弥陀寺開山の弾誓上人は、念仏三昧の修行をつみ、最後の修行地がここ古知谷であったという。その頃の古知谷を思い浮かべる術はないが、大原に比べて幽邃の地であったに違いないと思われる。参道の両脇には古木が生茂り、日の光も十分に届かない感じである。山上から流れ出る小川の水の清らかさと冷たさが、深山に入ってきた感じである。やがて、石垣が積まれた狭い平地に本堂が見える。
阿弥陀寺の本尊は、開山bの弾誓上人の自作自蔵とのこと。正面右脇には安置されているのが、阿弥陀如来像で鎌倉時代の作と云われる。
本堂から石廟につながり、石棺の真下に掘ってある二重の石がんに生きながら入っての「ミイラ仏」となったそうである。
常人から見れば、何ともすさまじい生き様であるが、強い信仰に生きた証なのであろう。
そんな人の持つ尋常でない力を感じさせない山々の懐の深さを感じさせてくれる古知谷であった。
目的とした紅葉は、未だ早かったせいか、今ひとつの感であったが、それを忘れさせてくれるものを感じさせてくれる阿弥陀寺であった。