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天台宗門跡寺院を訪ねて

「山に光射す所」から来ていると云われる山科。北は如意ガ岳、西は清水山、東は音羽山に囲まれた小さな盆地である。関西在住時代、東京出張の帰り、音羽山のトンネルを越えると、やっと戻ってきたという感じを抱かせたものだった。山科も直ぐに通過し、再びトンネルを越えると京都。かっては、京都への東海道街道筋として京の東の玄関口として栄えたであろう山科にも遠い天智天皇の御陵から、毘沙門堂、勧修寺などの皇室ゆかりの名跡が残り、さらに下って忠臣蔵の大石内蔵助の隠棲の地であったりする。京の都に近いものの、京の都とは異なった地形や風景が、京の人々の心を癒せる所であったのかも知れない。

毘沙門堂


毘沙門堂(びしゃもんどう)の沿革
  護法山 出雲寺
  703年(大宝3)  文武天皇の勅願で僧行基によって出雲路(上京区・御所の北側)に開山
 1611年頃(慶長16) 天台宗の高僧・天海によって復興
 1665年(寛文5)   高弟公海によって、現在の地に再建
             後西天皇の皇子公弁法親王が入寺し、門跡寺院となる


疎水の流れ

玄関と宸殿

唐門と本堂

襖絵「九老之図」

宸殿内襖絵概況

弁天堂

宸殿の庭園

JR山科駅北口から、盆地の最北部に向かう。途中で、琵琶湖から引かれている疎水を渡る。近江の三井寺近くからトンネルを通り、山科で姿を現し、春は桜で映える所になる。やがて、毘沙門堂の参道に入ると、両脇を紅葉した木々で迎えてくれる。急な石段を上っていくと両側には「毘沙門天」と書かれた赤い旗が並んでいる。仁王門をくぐると、唐門、本堂が開けた地に姿を現す。左には宸殿が並ぶ。
本尊は、最澄作といわれる「毘沙門天坐像」で秘仏となっている。宸殿は、御所にあった後西天皇の旧殿を移築したもので、北側には、晩翠園と呼ばれる池泉回遊式庭園で江戸時代初期に造園された。
ここ毘沙門堂は、徳川家康のブレーンの一人天海上人が再興した寺であり、後に門跡寺院になったことから、東海道を往来する諸大名が立ち寄った所でもある。それだけに、京の市中の寺院に負けない装飾や絵画が見られる。
宸殿の襖絵は、全て狩野洞雲益信の筆によるもので、その中でも有名なのが「九老之図」である。老人が書を広げている机を注視しながら移動していくと、いつの間にか机の向きが変わって見える。斜めに向いていた老人も、正面から眺めると正対して見える。ここで休んであろう大名達も驚いたのではないだろうか。これは、逆遠近法という手法によるものだそうだ。
訪れたのが、11月の下旬であったので、木々の紅葉が素晴らしかった。しかも市中の寺院に比べ、山科という事もあるのか、さほどの混雑もしていないのには助かった。仁王門から夕暮れの山科盆地を眺めるのも良いかもしれないと思いつつ毘沙門天を後にした。

毘沙門堂の紅葉

参道の紅葉

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勧修寺


勧修寺(かんしゅうじ)の沿革
  真言宗山階派大本山 亀甲山 勧修寺
  900年(昌泰3)  醍醐天皇が母后胤子の菩提を弔うため千手観音を安置がはじまり
             その後応仁の乱で堂宇を焼失、江戸時代に復興

  

地下鉄東西線の「小野駅」から西に向かう。静かな田園風景の中を進んでいくと勧修寺。九の字に曲がって山門に着く。
勧修寺には面白い話が残っている。藤原高藤が鷹狩りに出かけ、この寺のあった宮道弥益という郡司の邸宅で雨宿りし一夜を過し、その時結ばれたのが娘の列子(れっし、又はたまこ)。それから6年後、再会した列子の傍に5-6歳の娘がいた。高藤の子、胤子であった。そして、胤子は、後に宇多天皇后となり醍醐天皇を産んだ。又、列子の呼び方、たまこから「玉の輿」という言葉が出来たとも云われている。
勧修寺の庭園は、「勧修寺氷池園」と呼ばれ、氷室の池を中心に造園されたもので、1684〜88年頃の古図によって平安時代の様相が復元されたもので、夏であれば蓮の花や花菖蒲が楽しめるというし、四季折々の花で彩られるとの事だが、訪れた時には、杜若が池のふちで咲き誇っていた。
池の周りを一周する。自然体に任せたような島を浮かべ、サギだろうか白い鳥が木に舞い降りている。これまで見てきた池泉式庭園に比べると造形されていない、いかにも自然そのものという感じがする。そんな平安の面影を残す勧修寺であるが、その横を名神高速が通っているのも皮肉な巡り合せだ。
又、庭園には、徳川光圀が寄進したという「雪見灯篭」や樹齢750年と云われる「這柏槙(はいひゃくしん)」というヒノキ科の低木など見るべきものも多い。

随心院

京都市営の地下鉄東西線に乗り、終点醍醐駅の一つ手前が小野駅で、かって小野市の栄えた所であった。小野駅から西側へ行くと勧修寺であり、この地の宮道氏など共に勢力を競っていた。目的地の随心院は、小野小町ゆかりの門跡寺院である。小町は小野篁の孫で出羽の国司を務めた小野良実の娘と云われる。篁と云えば夜な夜な六道珍皇寺の井戸から地獄に通い、閻魔の庁に仕えたという伝説が有名だが、漢詩や和歌の達人としてたいへんな学者だったそうだ。又、書家の小野道風は小町の従兄にあたるという家系。小町は、仁明天皇につかえ寵愛を受けたが、天皇崩御後、深草陵に葬られた翌年(852年(仁寿2)、小町は小野の郷に引きこもったと云われている。そして有名な話が、深草少将が小町を慕って満願の百日前の九十九日でこの世を去ってしまうという悲話であろう。そんな小町が詠ったのが、「花の色は うつろにけりないたずらに わが身世にふる ながめせしまに」である。

随心院の沿革
  真言宗善通寺派大本山 
  991年(正暦2)  仁海僧正が曼荼羅寺の子坊が元
            後堀河天皇より門跡の宣旨を受け、随心院門跡、小野門跡と称される
            応仁の乱で炎上焼失
  1599年(慶長4) 曼荼羅寺旧跡に再建

総門を入ると右手に梅林が広がっている。訪れたのが5月末だから梅園は閉じられていた。丁度、門前でフリーマーケットが開かれていた。謂れある寺の境内でのフリーマーケットというのが何となく微笑ましく感じられた。庫裡に入り見り、書院などを見せてもらうが、小野小町の晩年の姿を写したという「卒塔婆小町坐像」は、老婆であり日頃思い浮かべる小野小町とは、似ても似つかない感じであった。奥書院には、狩野派の筆による襖絵があり、節会饗宴の図など雅な様子が描かれている。
化粧橋の近くに小町が毎日洗顔していたと伝わる「小町化粧井戸」がある。如何にも小町の伝説を示す遺跡だが、今はその井戸を見ても感慨がわかないのも先ほど見た小町像の影響だろうか。


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