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百萬遍知恩寺

知恩寺の沿革
  長徳山功徳院 百萬遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ) 
  1175年(承安5) 比叡山から下山した法然が一時居を構えた、賀茂神社付属の寺が起源
             法然の死後、弟子の源智が住持となり、浄土専修念仏の道場となる
  1662年(寛文2) 現在地に移る。  

古都を歩く ページTOP 念仏への想い

バス停に「百萬遍」という所がある。面白い名前でいわれがあるのだろうと思っていた。銀閣寺から出町柳駅に向かう今出川通り沿いを歩いていたとき、百萬遍知恩寺を知った。既に夕刻に近い時間だったこともあろう、境内には、人の姿も殆ど無く、静かな空間に御影堂が正面に建っている。
知恩寺が百萬遍という号を冠したのは、鎌倉時代末期のことで、1331年(元弘元)、後醍醐天皇は、第八代住持空円に、疫病を鎮めるよう命じ、御所に招かれた空円は7日間念仏を唱え続けた。このとき空円が唱えた念仏の回数はちょうど百萬遍。見事疫病を封じたことにより、後醍醐天皇より百萬遍の勅号と共に大念珠などを授けた。以来、百萬遍知恩寺と号し、念仏を唱えながら大念珠を百回回す「百萬遍念仏」の法が定められた。そして、今では、毎月15日に、御影堂で行われるようになっているという。

知恩院

東大路通から知恩院道を進むと、目前の巨大な三門に圧倒される。1621年(元和7)に徳川秀忠が建立されたこの門は、高さ約24m、横幅約50mの「五間三戸」と現存する木造の寺門では我が国最大という規模である。特別拝観で、三門に上った事があった。急な階段を上り、楼上に出る。楼上から京都の街並みが良く見える。この三門から旗を振ると、二条城からも良く見えたという。このような事から、知恩院の隠れた役割、京における徳川幕府の二条城と並ぶ根拠地であったといわれる。
知恩院は、巨大な三門に代表される大きさは、その寺域にも表れる。これは、1603年(慶長8)、徳川家康により、生母伝通院の菩提を弔うため、知恩院に寺領を寄進され、寺域の大幅拡張された。家康没後も秀忠、家光によって遺志が引き継がれ、広大な寺院になった。このように、徳川家の全面的なバックアップを得た知恩院でったからこそ、京都・御所の監視役的な役割説がでてきたであろうし、三門の大きさや将軍の公私の空間だった大方丈・小方丈へ続く廊下が、侵入者を防ぐ鴬張りになっているのもそんな説の根拠になっているのだろう。又、真実の程は不明だが、二条城への地下トンネルもあったと云われている。
そんな、裏の歴史があるように感じられる知恩院だが、本来は、法然が比叡山を下って、専修念仏を唱え、多くの門弟も増えたが、比叡山を始めとする旧仏教界からの反発や後鳥羽上皇の怒りなどから布教禁止され、讃岐に流され、4年後京に戻ったあと、房を構えたのが、知恩院内にある「勢至堂」の建つ場所であったという。そして、法然がこの地で亡くなり、法然終焉の地となった。そうした意味合いを持つ所だけに、浄土宗にとっては、聖地といえるのであろう。
三門を抜けると男坂と呼ばれる厳しい石段が待ち受ける。一気に上ると、巨大な御影堂だ。法然の御影を祀る本堂。丁度、御忌大会が行われていた。法然の忌日法要で、多くの僧侶達の読経が、御影堂に響き渡っていた。御影堂南の庇に、左甚五郎の忘れ傘がある。なかなか見つけられなかったが、教えられ見ることができた。忘れ傘ではなく、魔除けのために置かれているとも云われている。
境内には、除夜の鐘で有名な、大鐘楼もある。大きな大鐘で日本一だ。

知恩院の沿革
 浄土宗 総本山 華頂山大谷寺知恩教院
 法然亡き後、門弟たちが法然の廟をつくった。
 1227年(嘉禄3)  叡山の僧徒があしよせ廟を壊す。
 1234年(文暦元)  源智が、寺を開く
 江戸時代初期   徳川家の菩提寺として大幅に寺域を拡大