金閣寺の沿革 |
第三代目の将軍となった義満は、1392年に南北朝の合体に成功し政治的な安定を得ることができ、更に明との勘合貿易によって巨大な富を手にし、京の室町に「花の御所」と呼ばれる豪華絢爛な居を構えた。室町時代の室町もここからきている。まさに義満の時代は、室町幕府の最盛期と云っていいだろう。1397年には、西園寺公経の別荘北山第を譲り受け、山荘北山殿を造った。金閣舎利殿を中心とした庭園・建築は、極楽浄土をこの世に現したと云われた。北山殿完成後義満は、花の御所を義持に与え、以降他界するまで北山殿を住居とした。その義満は、九歳の長子義持に将軍職を譲り、出家したものの実権は手放さず、義持は有名無実の将軍職であった。しかも、義満は、異母弟の義嗣への偏愛が強く、1408年(応永15)に北山殿に後小松天皇を迎え、盛大な宴を催したがその接待役は、8歳年下の15歳の義嗣。義持の心中如何なるものであったか推測がつく。しかし、その2月後、義満が51歳で急逝すると、義持は、「北山殿を解体せよーー」と命じ、南禅寺をはじめ洛中の諸寺に移築された。しかし、さすがに舎利殿金閣だけは残された。複雑な親への感情が、解体という行為をさせたのであろうか。義満死後義嗣は、義持によって謀反の罪で討たれてしまう。そんな因縁を持つ金閣寺が、昭和25年一人の僧によって、美への嫉妬という原因から放火・焼失した。北山殿の解体は、親に対する嫉妬・反感から、そして、金閣寺そのものへの美しさに対する嫉妬。不思議な流れを感じる金閣寺。後に、孫の義政によって、銀閣寺が造営されたのも金閣寺という存在が大きなものであったのであろう。
そんな金閣寺、今日も多くの観光客が訪れている。当時の庶民から見れば異次元の世界と思われただろう北山殿だ。
二層と三層は、漆の上から純金の箔が張ってある、屋根は、椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねたこけらぶきで、屋根の上には、鳳凰が輝いている。この金箔貼りのドキュメンタリーを観たことがあったが、実に根気のいつ大変な技術がいる作業であることが分かる。
一層は、寝殿造りで法水院、二層は武家造りの書院で潮音洞と呼ばれ、三層は禅宗仏殿造りという三つの様式を調和させた建物。
金閣の前にある鏡湖池(きょうこち)を中心として大小の島々や当時の諸大名がきそって石を献納した庭園。
方丈の北側には、義満が手植えしたと伝わっている「陸船(りくしゅう)の松」。京都三松(宝泉院、善峯寺)の一つに数えられる。
方丈は、1678年(延宝6)に後水尾法皇の寄進によって再建された。
方丈の庭園
創建時の鳳凰像
焼失以前に取り外されていたため残っていた。かっては、金箔で覆われていた。
江戸時代の茶人、金森宗和好みの草庵風の茶室。「難を転じる」という言葉に掛け、床柱に南天の木を用いている。
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