正式には、慈照寺。金閣寺に対して銀閣寺と呼ばれる。金閣寺を造営した足利義満の孫第八代将軍足利義政が造営。京の都を焼き尽くした応仁の乱の責任も持ち、政から逃げるように隠遁した生活をおくった義政。そんな義政が義満に対抗するように造営した銀閣寺も、今では観光客で何時も溢れている。哲学の路を何度なく散策した時、銀閣寺の参道の人の多さに参拝をあきらめた事が何度かある。そんな銀閣寺でも3度訪れた。最後に訪ねたのが6月の平日。それでも修学旅行生を中心とした多くの観光客がいる。殆どの人は、義政の思いなど感じる事もなく、庭園を散策していることであろう。この庭園で詠んだといわれる一首。
「くやしくぞ過ぎしうき世を今日ぞ思ふ 心くまなき月をながめて」 義政の心中思いやられるも、施政者として如何に評価すべきだろうか。
総門をくぐると高い生垣で囲まれた細い参道が続く。左側は「銀閣寺垣」と呼ばれる地上約5mの高さに刈り込まれた 椿などの生垣だ。庭園を眺める事が出来ない。庭園を見せないことによる心理的効果を狙ったものであろうか。
銀閣寺門前の坂道。その突き当たり、黒石を敷き詰めた石畳の先に総門が見える。お寺といより山荘に入るような質素な門。
銀閣寺の沿革
1482(文明14)、足利義政の山荘、東山殿として造営が始まり、8年後に完成。直前に没した義政の遺命により禅宗寺院、慈照寺となる。銀閣寺と呼ばれるようになったのは江戸時代。
生垣の参道から中門をくぐると、白砂の庭が眼の前に広がる。右手に銀閣寺の象徴である(銀閣)観音堂。優美な空間が広がる。しかし、この造営した頃は、応仁の乱や飢饉で疲弊した時代だった。実際に造営にたずさわったのは名もなき民衆。複雑な感情を思うものの、やがて銀閣寺の持つ世界に入り、そんな思いも忘れている。
創建当時「銀閣」の二層部分には、内も外も黒漆が塗られ、鏡のように光っていたという。中秋の夜、満月は丁度この「銀閣」の真上を通る。月光が外壁を照らし、内部に射し込み床や壁に反射する。その瞬間「銀閣」はいかに輝いて見えたことであろうか。
「わが庵は月待山のふもとにて かたむく月のかげをしぞ思う」義政がそう詠んだ。当時の街中の悲惨とはまったくの別世界。
創建当時から残っているのは、「銀閣」と「東求堂」。義政の持仏堂。内部には、小さな書院や阿弥陀仏像と義政像を安置した仏間がある。普段は非公開だが、時折特別参観できるときがあり、拝観したことがある。書斎は思っていた以上に狭い4畳半の空間で、ここから庭園を眺めると心落ち着く感じになる。
しかし、どうしても義政が現世を離れ隠遁した空間のようにも思える。
庭園の高台から銀閣を俯瞰する。吉田山が間近に見える。まるで、御所を避けるような自然の壁。後ろには「五山の送り火」で有名な大文字山がある。
銀閣寺を後にして、出町柳まで戻る道、直ぐにも「橋本関雪記念館」がある。