天龍寺の沿革 |
天龍寺は、夢窓疎石の勧めによって、足利尊氏が創建を命じたものだが、時は吉野の南朝と足利幕府を後ろ盾にした北朝という二つの朝廷が並存するという異常な状態だった。しかし、後醍醐天皇は、京都に戻ることなく1339年吉野の地で崩御した。一時親交のあったといわれる夢窓が、足利尊氏・直義兄弟に 「怨敵とて厭うべき者なし」と直言し、後醍醐天皇の鎮魂の寺として創建された。
大方丈の前に広がる池庭が京都三庭園の一つであり、夢窓疎石によって作庭されたものだ。庭園の池は曹源池を中心として亀山や嵐山を借景としている。正面に「龍門の滝」と呼ばれる三段の滝組があり、二段目の鯉魚石は、鯉が滝を登る姿を写したといわれ、中国の滝の故事からきていて、これが「登竜門」の語源となっている。この庭園の借景となる亀山が、後醍醐天皇埋葬の地であり、夢窓疎石が、まさに鎮魂の地としたことが分かる。
夢窓疎石は、中国・元との貿易を再開し、この利益によって天龍寺造営の資金にしたと云われる。この時の船の名が、「天龍寺船」と呼ばれた。この莫大な資金により、最盛時は、北は清涼寺から嵐山までを持つ広い寺域で、1386年(至徳3)に京都五山第一位となった。
後醍醐天皇の鎮魂の寺である一方中国との貿易による莫大な利益、夢窓疎石の宗教家であり実業家という異なる顔を見せているのが、何とも不思議な感じだ。
天龍寺派の寺院の一つに歴代足利将軍の菩提寺「等持院」が、衣笠山の南麓にある。
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お断り
天龍寺には、これまで三回程拝観したことがあるのですが、残念ながら写真画像が残っていません。
次に訪れる機会があれば、ご紹介出来ると思います。記録に残っている塔頭のみ紹介します。
宝厳院は、1461年(寛正2)に、室町幕府の管領であった細川頼之により、夢窓疎石の法孫にあたる聖仲永光禅師を迎え創建された。当初は、上京区にあったが、応仁の乱の焼失したが、その後変遷を経て引源寺内にあったものを移転再興した。これまでは、拝観出来なかったが、2002年より特別公開されるようになった。特に、庭園が有名で、庭園内の大きな石が獅子が吼えているように見える事から、「獅子岩」と名付けられている(右端の画像ー木で隠れてしまっているが。写っている人は関係ありません。)。特に、紅葉の時期は、素晴らしいと思われ、今一度再訪したいと思っていたが、果たせずにきてしまった。、
1429年(永亨元)に室町幕府の管領であった細川持之が、夢窓疎石の法孫にあたる玉岫(ぎょくしゅう)禅師を迎え創建された。創建当時は、北は二尊院、南は亀山に至る広大な寺領を有していたという。本堂前には、嵐山を借景とした枯山水庭園がある。
日本画の京都四条派を伝える竹内栖鳳とその門下生などの作品群が本堂内に飾ってある。