奈良を巡る
奈良の有名な寺院といえば、東大寺や興福寺だし、神社といえば、春日大社が出てくる。しかし、平城京として歴史を持つ奈良の町には、歴史上の古刹も点在している。今でこそ、小さな寺院であったりするが、往時は、興福寺などと並ぶ壮大なものであったという元興寺などが奈良町の近くに在る事を知り、初めて訪れたのが、平成13年(2001)5月であった。翌年秋には、更に山沿いに点在する古刹を訪ねた。
奈良町という行政区分がないが、元興寺周辺を奈良町として、昔の商家の町並みを整備し、多くの観光客が訪れる所となった。京の町家と同じく間口が狭く、奥行きが深い構造になっていて、表通りには格子がはめ込まれているのが特徴。室町時代末期の絵には既に格子が描かれていたというから、その歴史も古いし、そこに庶民の智慧が働いている。昼間は、外から見えにくいが、中からは外がよく見えるし、音や風を良く通してくれる。又、万一の火災時には。格子を取り払う工夫もされている。こんな、町家の様子を紹介してくれる所もある。又、軒下には、丸い小さな縫いぐるみが吊り下がっている。これは、庚申信仰から生まれた赤い「身代わり猿」で、その姿は何となく愛らしく感じる。京の町家とは違った庶民的な感じを抱かせる町家が続く中に、最初の古刹「元興寺」がある。
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横道から元興寺の境内に入る。南都七大寺であったと言われる元興寺だが、その面影は感じられない。正面に廻ると、正面に極楽堂が見える。奈良時代の終わり頃に出た智光は、日本最初の浄土教の研究に専念し、後に智光曼荼羅を残した。この智光が住んだのが極楽坊として、残った。この曼荼羅の謂れが面白い。「日本霊異記」によれば、行基が聖武天皇から信任されて大僧正の位を得た事に嫉妬し、自らを仮死させ地獄の責めを受け、行基が実は菩薩の化身である事を知って蘇生し、後に真の大徳となったという事がある。如何にも人間・智光を示す逸話といえる。更に、「今昔物語」では、智光が一心不乱に常住坐臥して経論を読みふけって極楽往生を願っているのに、同房の頼光は、寝ているばかりで、そうちあっさりと死んでしまう。その後、智光が夢を見ると、極楽にいる頼光を見つけ、ありえない事と嘆き悲しむ智光に、阿弥陀仏が右の掌を挙げて小浄土の相を示し、ただ浄土の壮厳を観ぜよと示したという。夢から覚めた智光は、さっそく絵師に夢で見た浄土の図を描かせ、一生これを観じて、ついに往生を得たという。この絵図が、今に伝わる智光曼荼羅だと云われる。
この説話をどう解釈すればよいか、浄土への信仰は、学問をしているだけでは叶わない、信念を持って信じる事が重要なのだと言う事を示すものなのであろうか。凡人には、分かりづらい話だが、智光の懸命さが伝わる。こうした奈良時代からの逸話の残る元興寺だが、その創建からの歴史が古い事を改めて驚く。蘇我氏が物部氏を滅ぼし、仏教を取り入れたのち、蘇我氏は、飛鳥に崇峻元年(588)に飛鳥に法興寺(飛鳥寺)を創建した。その後、平城京への遷都にあたり養老2年(718)に飛鳥から平城に法興寺を移し、寺名を元興寺と改めた。しかし、蘇我氏創建の寺が、何故、新たな都となった平城京に移されたのか、興味ある話ではある。当時の貴族達は、元興寺を奈良の飛鳥とも称したようで、万葉歌人の大伴坂上郎女は、「ふるさとのあすかはあれどあおによし ならのあすかを みらくしよしも」と詠っている。天平勝宝元年(749)の諸寺の持つ墾田の地限では、東大寺の4千町歩に対し、元興寺は2千町歩であり、薬師寺・興福寺が1千町歩と定められていたことから、如何に広大な境内を持った格式ある寺であったかを伺い知れる。しかし、時代の変遷により寺運は衰え、徐々に寺域も狭まり、いつしか町中に埋もれてしまうような小さな寺となった。それでも元興寺が細々とながらも残ってきたのは、智光曼荼羅への庶民の信仰のおかげと云われている。官寺ではなかった元興寺を支えてきたのが、庶民であったということに、寺の持つ意義が感じられる。庶民と共に歩む寺、それが、はるか遠い平城の時代の一人の高僧によって残された曼荼羅図であることに感慨を覚える。
元々元興寺の一子院であったといわれる十輪院は、元興寺極楽堂の南東隅に位置し、元正天皇(715〜24)の勅願寺であったとも云われる。その詳細は、明らかではないが、本尊の石造地蔵菩薩が有名であり、平安時代中期から鎌倉時代初期に造られた石仏龕中央に、石造地蔵菩薩ー寺伝によると弘仁年間(810-23)に弘法大師が造立ー、その左右に釈迦如来像、弥勒菩薩を浮き彫りで表している。龕とは、厨子を意味し、本堂はこれを拝するために造られた。
境内は、良く整備され、小さな池の周りには、不動明王像や石仏が多数配置されていて、町中にありながら、静かな佇まいを感じる。
寺名の白毫寺に何となく惹かれた。意味を知らなかったが、調べてみると、白毫とは、仏の額にあって光を放つという毛のことで、仏像では額に珠玉を散りばめて表す事が多いという。寺名の白毫寺は、本尊の阿弥陀如来像の白毫からきているそうだ。白毫寺は、霊亀元年(715)、勤操僧都により天智天皇の皇子・志貴親王の山荘跡に建てられたと伝えられている。
寂れた山門をくぐると、急な石段が続き、両脇のハギの木々が参道を覆っている感じだ。訪れたのが10月であり萩の花を見ることは叶わなかった。又、境内には、五色の椿があり、天然記念物に指定されているそうだが、これも季節的は無理。
境内から、奈良の街並みや遠く生駒山などを遠望できる。境内にあるベンチに座りながら、南都を眺めつつの一服も又風流な感じを抱かせる白毫寺であった。
「新」とは、新しいということではなく、霊験あらたかなるという意味での新薬師寺だそうだ。単純に考えていた事を恥じてしまう。そもそも新薬師寺は、聖武天皇の眼病平癒祈願のため、天平19年(747)に光明皇后勅願により創建されたもので、当時は大きな境内に七堂伽藍を並べた寺であったという。しかし、宝亀11年(780)の落雷により現本堂を残し殆ど焼失してしまった。現本堂は、元々は食堂であったととも云われているが、天平時代の建築を残した貴重なもので、国宝となっている。本堂前には、萩の木々があり、本堂を静に守っている感であるが、本堂内には、薬師如来坐像が中央に座し、その周りを有名な12神将の塑像群が並んでいるのは、圧倒的な姿で迫ってくる。12神将は、薬師如来に帰依する人々を守る薬叉大将だという。そうした威光を持つ群像に囲まれている薬師如来、何か、人を近づけないものを感じてしまう。この12神将は、元々白毫寺近くの岩淵寺という寺にあったものだという。この寺に移されたのが、鎌倉時代末頃といわれているから、薬師如来を守るという意味で、今のように安置されたのであろう。
知識の疎いまま、薬師寺と関係のある寺かと思い訪ねた新薬師寺であったが、薬師寺にはない落ち着いたそれでいて壮厳な雰囲気に圧倒されてしまった。