奈良を巡る
奈良朝から平安朝にかけて、藤原氏を避けて通れない。その藤原氏の栄華を示すのが、春日大社であり、興福寺ではないであろうか。今では、隆盛時の姿を観る事は出来ないが、その栄華を窺い知るには充分ではないであろうか。この藤原氏の始祖が、中臣鎌足であり、大化元年(645)蘇我入鹿を中大兄皇子共々打倒し、中大兄皇子(天智天皇)の側近として大化の改新をすすめた。特に、近江京への遷都や天智天皇と弟の大海人皇子(天武天皇)との仲介を務めたと云われている。そして、天智3年(669)臨終に際し、藤原の姓を賜り、藤原氏が誕生した。その後。鎌足の次男・不比等が、天武天皇の皇后・持統上皇の側近として刑部親王と共に大宝律令の編纂などを通した政務にあたり強固な地位を築いていた。娘の宮子が文武天皇の后であり、その間の子が首皇子(聖武天皇)、その后が、娘・安宿媛(光明子)という姻戚関係が出来ていた。特に、文武天皇の後、聖武天皇即位を画策したのが、不比等であり、光明子の母・県犬養橘三千代であったといわれる。この県犬養橘三千代は、光明子を皇后とし、後に光明子の産んだ皇女を皇太子として、聖武天皇の亡き後、称徳天皇として即位させるなどの力を発揮したと云われる凄腕の女官であったそうだ。不比等は、鎌足が創建した山階寺を平城京に移し、興福寺として藤原氏の氏寺とした。又、春日大社も不比等が、藤原氏の氏神として、鹿島神宮から「タケミカヅチノミコト」を勧請したものであり、藤原氏の氏寺と氏神が、不比等により揃えられた事になる。そして、藤原一族の栄華を永く続けられた要因が、藤原4家となった不比等の男子・4兄弟の存在であった。この4家が、その後各々の対立などもあり、盛衰を繰り返しながら、平安時代の絶頂期に向かっていく。
不比等亡き後、政治の実権が長屋王により執り行われていたが、4兄弟の力により、長屋王の邸宅を襲い、自殺に追い込んだ長屋王の変が、天平元年(729)に起り、天皇家一族以外女性・光明子を初めて皇后とするなど、再び、藤原一族による政権運営となっていく。しかし、その後天然痘が流行し、藤原4兄弟も天平9年(737)に相次いで病死してしまう。この4兄弟とは、
不比等の長男は、藤原武智麻呂で、後の南家の祖となる。
二男は、藤原房前で、後の北家の祖となる。
三男は、藤原宇合で、後の式家の祖となる。
四男は、藤原麻呂で、後の京家の祖となる。
この四兄弟亡き後、政権運営は、光明子の異父兄に当たる橘諸兄及び唐から帰朝した玄肪や吉備真備であったが、諸兄により太宰府に左遷させられた宇合の子・広嗣により、天平12年(740)に反乱が起こり、制圧されたものの世情不安となっていく。この事件をきっかけに、聖武天皇は、都を山背の恭仁や近江の紫香楽(信楽)、難波宮などを転々とする有様で、天平17年(745)にやっと平城京に戻る。この間諸国に国分寺建立の詔を発したり、大仏建立の詔を発していた。大仏建立事業に執念を燃やしていた聖武天皇が退位し、光明子との娘を孝謙天皇として即位した天平勝宝元年(749)以降、光明皇后の権威を背景に武智麻呂の子・仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が、実権の把握に向い、天平勝宝8年(756)に諸兄が退位し、仲麻呂が実権を握ることになる。しかし、その後、光明皇太后の亡き後、孝謙天皇が上皇となり道鏡を寵愛していったこともあり、仲麻呂と孝謙上皇との対立が深まり、仲麻呂は、天平宝宇8年(764)に反乱を起こすが失敗し、殺されてしまう(恵美押勝の乱)。これにより孝謙上皇は、天皇を廃し淡路に流し、自ら再び称徳天皇となり、道鏡を次期天皇としようとするが、和気清麻呂らによって阻止され、宝亀元年(770)に称徳天皇が死去し、光仁天皇が即位、道鏡は、下野の薬師寺に追放された。以降、光仁天皇の次位として桓武天皇を担いだ宇合の子・百川の式家、そして、藤原南家を中心とした政治組織のなか、長岡京への遷都を断行し、その造営に、藤原式家の種継に命じる。こうして、桓武天皇のもと、藤原南家と式家が勢力を伸ばしていった。しかし、種継の暗殺など結局長岡京から平安京への遷都となったのが、延暦13年(794)であった。桓武天皇亡き後平城天皇が、大同元年(806)に即位すると、父・桓武天皇が晩年寵愛した伊予親王とその母藤原吉子(南家・是公娘)に謀反の疑いをかけ自殺に追い込んだ事件を期に、南家が失脚していった。変わって、平城天皇は、式家の種継の子・仲成、薬子を執りたてた。しかし、平城天皇も精神不安定から、弟の嵯峨天皇に譲位し、平城京に戻ってしまうが、再び上皇として嵯峨天皇の政治に介入していき、ついには、薬子と共に反乱を起こすが、失敗。仲成は射殺、薬子は、毒を仰いで死ぬという結末を向かえ、ここに式家も失脚してしまったのが、弘仁元年(810)であった。そして、嵯峨天皇の腹心として、北家の冬嗣が、朝廷内の地位を固め、やがて冬家が勢力を延していくことになる。
不比等の四兄弟が亡くなったから、70年強、天皇即位のドロドロとした政争、そこに藤原四家が絡んでいくさまは、一編のドラマを観ているような感じである。何時の時代になっても、このような政争が、基本が変わらずにきている。そんな仲でも、人々は逞しく生きていく。人間の持つ強さというものを改めて感じてしまう。そんな藤原氏の実質的な開祖とも云える、不比等が創建した興福寺と春日大社を訪ねた。
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藤原氏の氏寺である興福寺は、天智8年(669)藤原鎌足の私邸に建てられた山階寺を起源とし、その後天武元年(673)飛鳥への遷都に伴い、大和国高市郡に移し、寺名を厩坂寺とした。更に、和銅3年(710)の平城京への遷都により、藤原不比等によって和銅7年(714)に金堂を建立し、名を「興福寺」としたもので、その後、藤原氏一族により七堂伽藍が整備され、一大寺院として発展していった。しかし、その後の戦乱や天災により何度か堂宇が焼失を繰り返してきたが、藤原一族の支援により復興を繰り返してきたものの、江戸時代・享保2年(1717)の大火で殆どの堂宇を焼失してしまう。最早、往時の伽藍復興するまでの力もなく、僅かな堂宇(南円堂、中金堂)の再建のみで、やがて明治維新を向かえての廃仏毀釈の嵐の中、興福寺は瓦解寸前までいく。今尚、興福寺の顔とも云える五重塔も、当時の金額で25円で売りに出されたと言う。結局、五重塔の取り壊し費用など計算するとペイしないということから五重塔が売られずに済んだという信じられない話まである。
明治新政府のとった愚策の一つである「廃仏毀釈」の騒動が何故起ったのであろうか。それまでは、神仏習合という日本独自の智慧で共存していたにも関わらず、ある日を境に廃仏運動が一気に全国に拡がった。異常ともいえる話であるが、ある意味で日本人の特性を示す話かもしれない。倒幕運動に携わった一派に国学派がいた。この層の多くは、地方の富農・富商層の人々で、宗教的な位の攘夷思想であったという。明治新政府は、これらの人々に革命の功を与えるため、行政にたずさわる事をさけ、神祇官という役所に入れるという策をとった。その結果、純粋な国粋・攘夷思想の元に、仏教も外国からのものという発想のなかから、神仏分離を訴え、廃仏希釈の命が出されたと言う。
特に、興福寺はその標的のような存在で、多くの僧が春日神社の神官に任命され、更に、興福寺の筆頭塔頭子院など自ら下野する事を申し出たりしたという。この辺りに、興福寺の持つ特殊性があるのであろう。藤原一族の氏寺であったという事もあり、一族の公家達の門跡寺院的な性格を持ち、江戸時代には、大きく寺領を減らされたとはいえ2万余石のを与えられ一応の経済的基盤は持っていた。しかも、法相宗という云わば仏教学を学ぶ寺院であり、一般大衆との接点もないものであった。この為、廃仏毀釈の嵐の中、身を挺して寺を守るという高僧もなく、又、庶民達が積極的守るという動きも無く、退廃するしかなかった興福寺。そこに、興福寺の悲劇があったように思える。
今の興福寺は、明治新政府によって大幅に寺域が狭められた。江戸時代までは、奈良町や奈良公園をも含む広大な寺域を誇っていた。しかし、現在の興福寺でも広い寺域と感じてしまう。しかも、その寺域の中に点在する堂宇は、まばらに配置されているようで、或る意味で、公園のなかに堂宇が存在しているかのようである。そんな、興福寺は、今 中金堂を再建するというプロジェクトが進行し、平成22年(2010)完成を目指している。中金堂は、江戸時代の大火の後、100年後の文政2年(1819)に奈良の豪商によって仮再建されたものの荒廃が進み、平成12年(2000)に解体された。尚、中金堂の北側に、仮金堂が昭和50年に建てられ、本尊釈迦如来像などが移坐されている。
中金堂の東側にあったことから東金堂と呼ばれている。神亀3年(726)聖武天皇が元正天皇の病気回復を願って造立された薬師三尊像を安置されている。その後、何度かの焼失のあと、応永22年(1415)に再建され現在に至っている。堂としては、さほどの大きさではないが、堂内部に一端足を踏み入れると、薬師如来坐像を中心として、文殊菩薩坐像や十二神将立像、四天王立像などが所狭しtp安置されている様には圧倒される。
天平2年(730)に光明皇后によって創建された。現在の塔は、応永33年(1426)に再建されたもので、高さ50.1mあり、天平時代の様式を忠実に再現されているという。内陣の特別公開される事もあり、参観したことがある。東側に薬師三尊像、南側に釈迦如来像、西側に阿弥陀三尊像、北側に弥勒三尊像が安置されている。
この五重塔を、猿沢の池から眺めるのも好きだが、猿沢の池近くの柿の葉寿しの店に立ち寄るのが好きで、興福寺境内を下り、舌づつみしたもであった。
興福寺の境内のなかでも、南円堂は何時も人々で賑っている。それもそのはずで、西国三十三観音霊場の第九番目となっている。弘仁4年(813)に藤原冬嗣が父内麻呂の為創建したもので、現在の建物は、寛政元年(1789)の再建。堂内には、不空羂索観音菩薩坐像が安置されている。内部は通常公開されていないが、狭く丸い内部は、直ぐにでも一周できるほどだ。
興福寺の参詣で、少なくとも国宝館を訪ねないと意味がない。旧食堂跡に建てられた、何とも無粋なコンクリート造りの建屋だが、内部には、有名な阿修羅像や旧山田寺の仏頭など、見るべきものが多い。特に、阿修羅像については多くの人々が、その優美な顔立ちなど賛美の声を上げている。そうした感性に疎い私も、ここ国宝館の内部では、多くの仏像に囲まれ、不思議な感覚と落ち着きを味わえる。その中でも、天燈鬼・龍燈鬼のユニークな姿には、何故か微笑みを感じてしまう。