秋元長朝(あきもと・ながとも) 1546〜1628

秋元景朝(別称:元景)の子。母は関東管領・上杉憲政の養女。通称は孫三郎・孫四郎。上野介・越中守。
秋元氏は下野国宇都宮氏の流れをくみ、秋元氏の祖である泰業は宇都宮氏第6代・泰綱の弟にあたる。
長朝ははじめ武蔵国深谷城主の上杉憲盛に仕え、三宿老のひとりであった。
天正18年(1590)の小田原征伐に際しては北条氏に与し、主家が小田原籠城に加わると長朝はその留守を預かって深谷城を守ったが、羽柴秀吉勢力の攻囲を受けて開城降伏した。
徳川氏関東移封後の文禄元年(1592)、井伊直政の推挙を受けて徳川家康に仕え、上野国総社4千石を領した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役の前後、関東管領上杉氏の旧臣であるという縁から二度に亘って上杉景勝に帰降を促す使者を務めた。また、下野国小山での軍議(小山評定)を受けて徳川勢が軍勢を西に転じたのち、下総国栗橋の関を守備して上杉勢を牽制した。
慶長6年(1601)、それらの功績を賞されて6千石を加賜され、総社1万石の大名として諸侯に列した。
慶長7年(1602)より利根川の水を引いて天狗岩堰(別称:越中堰)を開削して新田開発を行うなど、とくに民政に力を注いだ。
元和8年(1622)に致仕し、寛永5年(1628)8月29日に没した。享年83。法名は江月院巨嶽元誉。
子孫は上野国館林で6万石を領した。