上杉家臣。近江守。通称は数馬介。室は鉄(黒金)景信の妹。はじめ越後国三島郡枡形城主。
上杉謙信・景勝の2代に仕えた。初名は長重で、のちに謙信(長尾景虎)より一字を与えられて景持と名乗る。
永禄2年(1559)10月28日、上杉謙信麾下の諸将は京より帰国した謙信を祝賀して太刀を贈っているが、長重も「披露太刀之衆」として名を連ねている。
永禄4年(1561)3月、関東に出征していた謙信が北条氏の本拠である相模国小田原城を包囲した際に従軍しており、その後の閏3月に謙信が鶴岡八幡宮において上杉氏の名跡を継承して関東管領に任じられた際には、宇佐美定満・柿崎景家・河田長親とともに「御先士大将」4人として名が見える。
同年の川中島の合戦(第4回)では上杉軍の殿軍を務め、苦境に陥った上杉軍を整然と退却させた。その見事な采配ぶりは敵方の武田軍でさえも「近国他国にほめざるはなし、謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」と賞賛したという(『甲陽軍鑑』)。
その後しばらくは活動の事績が見えず、天正3年(1575)の『上杉氏軍役帳』にも記載されていないが、謙信の没後には上杉景勝に仕えた。
天正9年(1581)6月に蒲原郡新発田城主・新発田重家が景勝に叛旗を翻すと(新発田重家の乱)、天正10年(1582)1月には景勝の命で越後国蒲原郡三条城将となって新発田勢に備え、天正14年(1586)7月には新潟・沼垂で新発田勢と戦って功績を挙げ、景勝より感状を与えられている。
文禄3年(1594)の『文禄三年定納員数目録』によると、長重は三条衆として知行定納高1千7百余石であった。
慶長3年(1598)、上杉氏の移封に伴い陸奥国会津へ、慶長6年(1601)には出羽国米沢へと移った。
慶長7年(1602)には天正寺を建立し、開基となる。
慶長9年(1604)6月26日に死去した。法名は巒樹院殿昌林盛景持居士。