第3代の鎌倉公方。第2代鎌倉公方・足利氏満の子。幼名は金王丸または寿王丸。従四位下・左馬頭・左兵衛督。一色範直の姉を正室とした。
応永5年(1398)11月、父・氏満の死没を受けて家督を継ぐ。
翌年の春には弟の満直・満貞をそれぞれ陸奥国の篠川・稲村へと派遣し、父の代からの懸案であった奥州管理を進めた。同年7月末から10月末にかけて自らも巡行と称して陸奥国の白河を経て稲村に赴いている。また、同年中には関東八屋形の制度を発足させて常陸国の佐竹・小田、下総国の千葉・結城、下野国の小山・宇都宮・那須・長沼の各氏を鎌倉公方の藩屏と成すなど、新たな支配体制を確立させた。
同年11月に周防以下6ヶ国の守護を兼ねる大内義弘が和泉国の堺で謀叛を起こすが(応永の乱)、満兼にも上洛の予定があったこと、しきりに忠節を要求する御教書を下していることなどから、満兼も以前から義弘と意思を通じ、加担していたとされる。
満兼は11月21日に将軍・足利義満への助勢と称して出陣、武蔵国まで軍勢を進めて京都の情勢を窺ったが、12月21日に義弘が敗死したためにそれ以上の行動は起こさず、応永7年(1400)3月に至って鎌倉に帰った。
この後の6月には、京都に二心を抱いた過ちを改めて都鄙(京都と鎌倉)の和平を願う旨の願文を伊豆国三島大社に奉納しているが、この願文には自らの力量不足で天命のなかったことを嘆く調子があり、未だ将軍に成り代わる野望を捨て切れていない様子も窺われる。
同年7月、将軍家と密接な繋がりを有する陸奥国赤館城主・伊達政宗(第9代)が叛乱を起こすと白川満朝に命じてこれを鎮圧させ、政宗が応永9年(1402)に再び叛くと5月に上杉禅秀を大将として派遣、9月に至って降しているが、この頃京都では満兼が狂気したとの噂が流れた。一方の義満も満兼の調伏を命じるなど、両者の確執はついに解けなかった。
応永16年(1409)7月22日に病死した。32歳。法名は勝光院泰岳道安。