大内義弘(おおうち・よしひろ) 1356〜1399

周防・長門守護を兼ねた大内弘世の嫡子。幼名は孫太郎。はじめ周防介、のち左京権大夫。妻は今川仲秋の娘。
応安4:建徳2年(1371)12月、父・弘世とともに九州探題・今川了俊に従って九州に渡り、応安5:文中元年(1372)8月の大宰府攻略後に弘世が了俊と決裂して帰国した際、義弘も弘世とともに帰国した。しかし永和元:天授元年(1375)8月の水島の陣で了俊率いる九州探題軍が菊池氏の奉ずる南朝軍に敗れ、幕府が大内氏に九州探題軍への救援を要請した際、弘世はこれを拒否したが、義弘は同年末頃に半ば私的なかたちで3百騎を率いて出陣、九州探題軍に合流して各地を転戦し、永和3:天授3年(1377)1月に肥前国蜷内で、同年8月には肥後国白木原・臼間野で懐良親王を奉ずる菊池武朝と戦って大敗させるなど、南朝軍の攻略に大功を立てた。また、同年に豊前守護に任じられ、九州への勢力拡大の足がかりを築いた。
九州からの帰国時期は不詳であるが、康暦2:天授6年(1380)5月までには弟・満弘との内訌が勃発し、武力闘争に及んでいる。この抗争は大内氏勢力を二分する規模の内戦となり、長門国の栄山(さかりやま)城の攻防戦では、5月に攻略されるも、10月に至って奪還に成功している。安芸国の内郡(高田郡・山県郡方面)では5月28日に大激戦が行われたが、幕府から義弘援助の命を受けた諸豪族の支援もあって、義弘方が大勝している。
この長門・安芸国での内戦は石見国へも波及し、満弘方に有力領主の益田・福屋氏らが与したこともあって容易に鎮定できず、満弘が石見国を領して義弘に従うことで永徳元:弘和元年(1381)6月に和を結ぶに至った。
康応元:元中6年(1389)3月、安芸国厳島に参詣した将軍・足利義満を周防国に迎えて歓待し、帰洛する義満に随行して上洛し、以後は在京することが多くなる。
明徳2:元中8年(1391)暮れの明徳の乱には洛西の内野で勇戦して幕府軍勝利の立役者となり、その功によって山名氏の旧領国の和泉・紀伊の守護職を与えられ、周防・長門・豊前・石見・和泉・紀伊の6ヶ国の守護職を保持することになった。また、明徳3:元中9年(1392)閏10月に南北朝合一が成っているが、これは義弘が南朝の本拠に近い和泉・紀伊国の守護となった所縁などから南朝の阿野実為を介して和平交渉に尽力したためともいい、義満は義弘のたびたびの忠節を賞して明徳4年(1393)12月に、一族に準ずる御内書を与えている。
義弘による対外通交は康暦元:天授5年(1379)に高麗からの使者である韓国柱が帰国するにあたって兵を付して護送させたのが最初であるが、その後の対外通交は専ら今川了俊によって進められたこともあって義弘の遣使は途絶えるが、応永2年(1395)閏7月に了俊が九州探題職を解任されて以後は義弘が朝鮮との通交にあたることが多くなり、倭寇の禁止と引き換えに貿易上有利な立場を築いた。また応永6年(1399)にはその世系が百済の後裔であることを理由として縁故の土地の割譲を朝鮮に求めているが、これは成らなかった。
こうして義弘は家富み兵強く、このため幕府の集権体制に沿わぬ外様の大名として、また幕府が注目し始めていた対明貿易の競合者として、幕府の抑圧対象と目されるに至った。
この間の応永2年7月、前月に出家した義満に倣って出家する。
応永3年(1396)末頃に九州で少弐貞頼・菊池武朝らが挙兵すると、義弘は新たな九州探題として下向してきた渋川満頼への援兵として弟の満弘・盛見に軍勢を付して派遣したが、応永4年(1397)末に筑前国八田で満弘が戦死、鎮定はならなかった。この情勢を受けて義弘は応永5年(1398)10月に京都から下向して少弐勢を鎮圧したが、平定後も義満の上洛催促に応じず、応永6年10月に至って大兵を率いて和泉国堺に着き、幕府の慰撫を退けて乱を起こした(応永の乱)。
その挙兵計画は鎌倉公方の足利満兼や延暦寺・興福寺といった寺社勢力、そして美濃・近江・丹波国の不平分子などを糾合するものであったが、地方での挙兵は間もなく鎮定され、延暦寺・興福寺も起たず、孤立無援で堺に籠城して抵抗を続けたが、12月21日に鎌倉府軍の到来を迎えることのないままに討死した。享年45。堺の義弘山妙光寺に葬り、のちに周防国吉敷郡宇野令の香積寺(現在の瑠璃光寺)に移葬。道号は梅窓・秀山、法名は義弘・道実・弘実・有繁・道春・仏寛・仏実など、最終は秀山仏実。
義弘は勇将としてその武名を天下に轟かせる一方で、文芸にも明るかった。和歌では『新後拾遺和歌集』の作者に列し、連歌では二条良基の指導を受けて『連歌十問最秘抄』を伝授されている。