応安3:建徳元年(1370)6月、3代将軍・足利義満より渋川義行に替わって九州探題に任じられた今川了俊は、勢威の盛んであった九州南朝軍に対抗するために周到な準備と綿密な計画を立て、翌応安4:建徳2年(1371)12月半ばに豊前国へと入国した。了俊は自身の九州への渡海に先だって子の義範を豊後国、弟の仲秋を肥前国に派遣しており、これらの軍勢と呼応して進撃し、応安5:文中元年(1372)8月12日には南朝方が征西府を置く筑前国の大宰府を攻略する。
重要な拠点であった大宰府を落とされた征西将軍宮・懐良親王は、その擁立母体であった肥後国の菊池武光・武政父子らと共に後退して筑前国の高良山を本陣として九州探題軍の侵攻に抵抗したが、応安6:文中2年(1373)11月に菊池武光が、翌応安7:文中3年(1374)5月には菊池武政を立て続けに失い、形勢不利となって同年10月頃には菊池氏の本拠であった肥後国隈部城へと撤退したのである。
菊池氏の退勢を見て取った了俊は11月より軍勢を肥後国へと進め、翌永和元:文中4(=天授元)年(1375)3月に山鹿、4月8日には日岡へと進んで菊池氏の拠る水島台に相対し、7月13日に水島へと陣を進めた。
当時の菊池氏は菊池郡のほぼ全域をひとつの城郭と見なし、隈部城を中核としてその四方の要地に多くの城砦(外城)を配置して防備を固めていたが、この水島の地はその喉元ともいうべき西方の戦略的要地であり、防衛拠点として水嶋城(台城)もあったとされているが、九州探題軍は大した抵抗もなくこの地に陣を構えたようである。
了俊はこの菊池攻めが今後の展開を占う重要な戦いと見て、九州の雄族である少弐・大友・島津氏に来援を呼びかけた。これに応じてまずは大友親世が、ついで8月11日に島津氏久が着陣したが、少弐冬資は参陣してこなかった。そこで了俊は島津氏久に依頼して少弐冬資の参陣を促し、氏久の説得で冬資はようやくこれに応じたのである。
しかし8月26日、了俊はこの冬資を宴席に呼んで謀殺するという挙に出たのである。
少弐氏は鎌倉時代より大宰府の実質的統率者であったが、延文4:正平14年(1359)の筑後川の合戦に敗れてより南朝方に奪われていた大宰府を了俊が奪還したことによって大宰府、ひいては筑前国の支配をめぐって了俊と競合・対立していたことが覗われ、九州探題軍への協力には消極的であった。このため了俊は少弐氏を処罰することで九州探題の権威を知らしめようと図ったとも解されるが、これは全くの逆効果であった。
冬資を説得して連れてきた島津氏久の面目は丸潰れとなり、これに不快感を示した氏久に対して了俊は冬資が二心を抱いていたと説いて弁明したが、氏久は一言も発さず、聞き終わるや席を蹴って退出し、引き連れてきた手勢と共に帰国してしまったのである。
また、8月末には筑後国に南朝軍が蜂起し、この鎮圧に向かった九州探題軍が大敗を喫したという知らせが入ると水島の陣にも動揺が走り、士気は大いに下がって多くの将士が離反するという事態となる。ここに南朝軍がさらに攻勢をかけたために水島の陣の九州探題軍は瓦解し、了俊は9月8日に撤退を決しざるを得なく、南朝軍の追撃に応戦しながら筑後国を経て10月に肥前国杵島郡の塚崎にまで退いたのであった。