菊池武政(きくち・たけまさ) 1342〜1374

菊池武光の子。通称は次郎。肥後守。
征西将軍宮・懐良親王方(宮方)の勢力として九州平定を目指す父・武光に従い、延文4:正平14年(1359)8月、筑後国三井郡大保原で武家方(足利尊氏勢力)の少弐頼尚と合戦、夜襲により頼尚方を破っている(筑後川の合戦、別称を大保原の合戦)。
これに勝利して北九州を制圧した宮方は大宰府を占領して弘安元:正平16年(1361)に征西府を置くが、これを征討するために応安3:建徳元年(1370)に今川了俊が九州探題に任じられ、その先軍として今川義範が応安4:建徳2年(1371)7月に豊後国高崎城に入部すると、武政は同年8月に迎え撃ったが、高崎城は落とせなかった。
また、義範と同じく先軍として肥前国に派遣された今川仲秋を迎撃するために出陣し、応安5:文中元年(1372)2月に肥前国烏帽子岳で戦ったが、これにも敗れて九州探題軍の進撃を許すこととなり、同年8月に大宰府は九州探題軍の手に落ち、親王と菊池軍は筑後国高良山に退いて以後ここを本陣とし、筑後川を挟んで九州探題軍と対陣を続ける。
応安6:文中2年(1373)2月には肥前国本折城を攻め、阿蘇惟武と結ぶなどして再挙を図ったが勢力の回復は成らず、応安6:文中2年(1373)11月に死没した父に続いて応安7:文中3年(1374)5月26日、33歳で高良山の陣中に没した。