後醍醐天皇の皇子(第十六皇子か)。後村上天皇の皇弟。諱は「かねなが」とも読む。母は中納言・御子左為道の娘(三位局)。生年は不詳であるが、元徳2年(1330)前後の生まれと推定される。中務卿。征西将軍宮。鎮西宮・阿蘇宮とも称された。
足利尊氏と対立した父・後醍醐天皇が持明院統の光明天皇への譲位を余儀なくされたのち、征西将軍として九州の南朝(後醍醐天皇方)勢力を糾合して上洛すべき命を帯び、五条頼元・中院義定以下12人の廷臣に守られて九州へと発向した。その時期については、建武3:延元元年(1336)9月とする説と、暦応元:延元3年(1338)9月とする説がある。
その途次で伊予国の忽那義範を頼って忽那島に数年間滞在し、康永元:興国3年(1342)5月に海路を経て薩摩国の谷山隆信に迎えられ、その居城の谷山城に入った。
「阿蘇宮」とも称されたことから、当初は肥後国の阿蘇氏のもとに下向する予定であったとも目されるが、阿蘇惟時の去就が定かではなく、貞和3:正平2年(1347)11月末頃に谷山を発ち、翌年1月半ばには菊池氏の本拠である肥後国隈府城に入城。その後は筑後国への侵攻を計画したが、阿蘇氏の協力が得られなかったことなどもあり、頓挫したようである。
翌貞和5:正平4年(1349)、中央政局において足利尊氏・直義兄弟の分裂が明らかとなり(観応の擾乱)、同年9月に九州に逃れてきた足利直冬(直義の猶子)を筑前国の少弐頼尚が推戴したことで、北朝方(尊氏方)が九州探題・一色範氏(道猷)方と佐殿方(直冬・少弐氏)に分裂すると、佐殿方の圧迫を受けた一色範氏と結んで対抗し、九州探題方であった大友氏も帰順したことで豊前・豊後国も勢力下に収め、観応2:正平6年(1351)9月には菊池武光・阿蘇惟澄らを従えて筑後国に進出。
足利直義が失脚した余波を受けて勢力を衰退させた直冬が文和元:正平7年(1352)11月に長門国へと離脱したのちは、少弐氏と結んで一色氏の駆逐を進め、文和4:正平10年(1355)10月に至って一色範氏・直氏父子らを長門国に逐い、筑前国の博多に入った。
そして延文4:正平14年(1359)8月には、再び北朝方に転じた少弐頼尚を筑後国大保原に破り(筑後川の合戦)、康安元:正平16年(1361)8月には九州統治の要地である筑前国の大宰府を掌握。以後、ここを征西府と定めて北九州を制圧し、宿願であった東上への途を開いた。
応安2:正平24年(1369)12月には甥の良成親王を伊予国の河野通堯のもとに遣わして四国・中国地方の鎮定を命じた。東上を見据え、瀬戸内海の制海権の確保を企図したものと思われる。
しかし応安4:建徳2年(1371)12月、前年6月に幕府(北朝方)から九州探題に任じられてより周到な準備を重ねてきた今川了俊(貞世)が豊前国に入国し、豊前・豊後・肥前国より包囲網を狭めてくると支えきれず、応安5:文中元年(1372)8月12日に大宰府を制圧され、筑後国の高良山に撤退。以後、約2年に亘って抗戦を続けたが双方ともに決め手に欠け、戦線は膠着した。この間に九州南朝軍の中心であった菊池武光・菊池武政父子が没するなどして勢威は衰え、応安7:文中3年(1374)10月、菊池武朝らに擁されて肥後国の菊池に撤退するに至った。
永和元:天授元年(1375)に征西将軍の職を良成親王に譲り、永徳3:弘和3年(1383)3月27日、隠居の地としていた筑後国矢部で薨じた。
明治11年(1878)4月に宮内省が肥後国八代郡宮地村を墓地と認定し、同13年(1880)には懐良親王を祭る八代宮が創建された。