一色範氏(いっしき・のりうじ) ?〜1369

一色公深の子。母は今川国氏の女。宮内少輔。
建武3:延元元年(1336)2月、後醍醐天皇に叛いた足利尊氏に従って九州に赴き、4月に尊氏が上洛したのちも仁木義長とともに九州に留まって足利軍の軍務を統括し、仁木義長が同年6月に上洛したのちは初代の九州探題となり、博多の聖福寺直指庵を在所として九州経略に臨んだ。
しかし鎌倉時代の鎮西探題と変わるところがない九州探題の設置は少弐・大友・島津氏ら九州の雄族の反発を招くこととなり、その協力が得られなかったこともあって九州経略は困難を極め、暦応3:延元5(=興国元)年(1340)2月までの間に9回も辞任を願い出たが、許されなかったという。
貞和2:正平元年(1346)8月頃に子・直氏が九州に下向して九州探題となり、範氏もその実質を失わずに父子一体となって九州経略にあたったが、探題の経済的基盤は弱く、政治的・軍事的にも独立志向の強い九州の武士たちを十分に組織することができなかった。
さらには九州に下向していた後醍醐天皇の皇子・懐良親王が貞和4:正平3年(1348)1月に肥後国の菊池氏と合流したことで南朝方が勢いを増し、足利尊氏・直義兄弟の不和から尊氏に逐われた足利直冬が貞和5:正平4年(1349)9月に九州に入って少弐頼尚の後援を得て威勢を揮うようになると、九州は宮方(南朝勢)・武家方(北朝・九州探題勢)・佐殿方(足利直冬・少弐氏ら)の鼎立状態となり、その対応に苦慮することになる。
観応2:正平6年(1351)2月に尊氏が直義と和議を結ぶと、翌月には直冬が九州探題に任じられたために範氏は立場をなくし、宮方に降って佐殿方に対抗するも、同年9月に筑前国席田郡の月隈・金隈で佐殿方と戦って敗戦を喫した。しかしこの間に中央政局で尊氏・直義兄弟が再び分裂し、同年10月に尊氏が直義を追討するため南朝に帰順(正平の一統)すると直冬の勢威も退勢に向かい、文和元:正平7年(1352)11月には直冬を九州から長門国へと逐った。
しかし直冬と結んでいた少弐氏がこの頃より宮方と連携しており、翌文和2:正平8年(1353)2月に筑前国針摺原の合戦で少弐頼尚と菊池武光(南朝方)の連合軍に敗れたのちは、子の直氏・範光らとともに肥前国を固めて抗戦を続けたが、宮方勢に抗しきれず、文和4:正平10年(1355)10月には長門国に逃れ、ついで京都に帰って隠退した。
応安2:正平24年(1369)2月18日に没した。法名は大興寺古峯道猷。