針摺原(はりすりばる)の合戦

九州の守護大名・少弐氏は、鎌倉時代の初期には筑前・豊前・肥前国と対馬の「三前一島」を守護領国とする有数の武家であったが、鎌倉幕府が北条氏一門を頭人とする鎮西探題を九州に設置するとその管轄下に置かれたのみならず、北条一門への優遇策から守護領国を減らされ、鎌倉時代末期には筑前一国を領知するのみとなっていた。
そのため後醍醐天皇が討幕を企てると、少弐氏は天皇方に転じた足利尊氏に与して正慶2:元弘3年(1333)5月に鎮西探題を滅ぼした(博多合戦)。その後、後醍醐天皇が樹立した建武政権から離脱した尊氏が北朝を擁して九州に逃れてくると、これを援けて尊氏飛躍の原動力となったが、尊氏が九州に足利一門の一色範氏を頭人とする九州探題を設置するとその管轄下に置かれることとなり、鎌倉時代と何ら変わることはなかったのである。
一方、南朝を興した後醍醐天皇は皇子の懐良親王を九州に送り込んで巻き返しを図り、足利政権の内部では尊氏とその弟である足利直義が対立し、貞和5:正平4年(1349)10月に直義養子の足利直冬が尊氏に追われて九州に逃れてくると、当時の少弐氏当主・少弐頼尚は翌観応元:正平5年(1350)10月までにはこれを奉じ、尊氏派である九州探題軍と戦う名分とした。少弐氏がどれだけ九州探題に対抗意識を燃やし続けていたかがうかがえる。この足利直冬・少弐頼尚らの連合した軍勢は九州での第三勢力にのし上がって「佐殿方」とも称されたが、観応3(=文和元):正平7年(1352)同年11月には直冬が九州を離れ、中国地方の戦線へと向かったのである。

この前後の経緯は不詳であるが、この11月に九州探題軍は足利直冬・少弐頼尚の拠る筑前国大宰府を攻めていたようで、この最中に直冬が離脱した後も頼尚は大宰府に在って抗戦を続けていたものとみられる。頼尚は古浦城にいたといい、先だって九州探題に任じられていた一色直氏に攻められている。この古浦を筑後国の高良山ないし肥前国三養基郡山浦とする史書もあるようだが、大宰府の浦城のことであろう。
この探題軍の攻撃に窮した義尚は、筑後国に在陣していた南朝方の将・菊池武光に救援を求めた。南朝軍を率いた武光は肥前国に進出して九州探題勢と戦っていたが、利あらず筑後国に兵を引いたところであった。
武光はこの義尚からの要請に応じることを決め、軍勢を筑前国へと向けた。南朝方は九州探題の一色方と佐殿方の分裂抗争に際しては、一色方に与力して佐殿方と戦ったこともあったが、究極的には九州を制圧することが命題であり、今は探題方の勢力を叩いておく方が得策と判断したのだろう。
武光は一族の赤星・城・木野などのほか、阿蘇惟澄などの軍勢とともに大宰府を後詰した。そして古浦城の囲みを解いて撤退する探題軍を追撃し、文和2:正平8年(1353)2月2日、大宰府南方の針摺原に捉えて破ったのである。直氏は肥前国へと逃れたが、探題方に合力していた大友氏一族の田原貞広・氏直父子が戦死している。
『太平記』によれば、頼尚はこの菊池武光の救援を深く感謝し、「今より以後子孫7代に至るまで、菊池に向かって弓を引き矢を放つことあるべからず」旨の起請文を記して呈したという。