足利尊氏の庶長子。足利義詮の庶兄。母は越前局。幼名は新熊野殿、慈円寺道昭。従四位下・左兵衛佐。
母の越前局は身分が低く、一夜の行為で生まれたとされることなどから尊氏は実子であることを認めなかったため、鎌倉の東勝寺に入って喝食となったが、のちに還俗し、尊氏が将軍となったのちに上洛して父子の名乗りを求めたが尊氏は許さなかったため、尊氏の弟・足利直義が自らの猶子として「直」の字を与えて直冬と名乗らせた。
貞和4:正平3年(1348)にようやく実子と認められて左兵衛佐に任じ、同年8月には紀伊国の南朝軍追討に功績があった。
翌貞和5:正平4年(1349)4月、中国地方の8ヶ国を管掌する長門探題として備後国に下向したが、同年9月に養父・直義と激しく対立する高師直の命を受けた杉原又四郎に襲撃されて九州に落ち延び、肥後国の河尻幸俊に迎えられ、ついで少弐頼尚の娘婿となってその後援を得た。
この頃の九州は、幕府方の九州探題・一色範氏と南朝方の征西将軍(後醍醐天皇の皇子・懐良親王)党とが対立しており、少弐氏は幕府方に属していたが、九州探題の一色氏とは競合関係にあったことから不和であった。直冬はこの少弐氏の後援を受け、さらには尊氏の命と称して軍勢を集めたことから第三極の勢力となり、九州は三者鼎立の大勢となった。この直冬勢力を、官途名から「佐殿(すけどの)」方とも称す。
観応元:正平5年(1350)10月末、尊氏は師直とともに直冬を討つため九州に向けて発向したが、尊氏と不仲になっていた直義が南朝に帰順して京都へ侵攻した(観応の擾乱)ことを知って撤兵したため、その来襲を免れている。
観応2:正平6年(1351)2月、直義優勢のままで尊氏との和議が結ばれると、翌3月には直冬が一色氏に代わって九州探題に任じられたが、同年8月に直義が北陸に出奔、翌観応3(=文和元):正平7年(1352)2月に鎌倉で没すると九州での勢威が衰退するとともに、尊氏との関係も再び決裂した。
同年11月には南朝方と結んだ一色範氏に逐われて長門国に移るが、幕府から離反して南朝に降った山名時氏と結んで中国地方の国人領主を味方につけて勢力を拡げ、尊氏・義詮父子と正面から対抗し得る一大勢力に成長し、文和2:正平8年(1353)には京都に侵攻している。
南朝から軍事統率者としての惣追捕使に任じられた直冬は、文和4:正平10年(1355)1月、山名時氏・桃井直常・斯波高経らと連携して入京を果たす。しかし近江国坂本を経て京都に向かう関東の軍勢を主力とする尊氏と、播磨国から山崎に進んだ赤松・京極勢を主力とする義詮の軍勢に挟撃され、直冬は3月12日に宿所としていた東寺を脱出、わずか2ヶ月で京都を明け渡した(東寺の合戦)。
逃れた直冬は再起に努めたが、諸豪族の協力を得られず安芸国に落ち、山名時氏の助力によって中国地方で転戦したが、昔日の勢力を回復することはできなかった。
貞治2:正平18年(1363)に直冬方の安芸・備後国の勢力は細川頼之の軍勢に敗れ、8月頃に直冬は石見国に奔ったようである。同年に山名時氏が幕府に降伏してのちの直冬の行動は不詳である。
その死期についても嘉慶元:元中4年(1387)7月説、嘉慶2:元中5年(1388)7月説、応永7年(1400)3月説などがあるが、いずれも明証を欠く。法名は玉渓道昭、慈恩寺殿と号す。
子の冬氏は兵衛佐と称し、中国武衛、善福寺殿と呼ばれ、孫は相国寺に住し、宝山和尚乾珍と号したという。