高師直(こう・もろなお) ?〜1351

足利家臣。高師重(師継・道忍)の子。高師泰の兄弟(弟か)。五郎右(左)衛門尉と称す。三河守・武蔵守。河内・武蔵・上総・下野国の守護職を歴任する。妻は上杉頼重の娘で、足利尊氏直義兄弟の母の妹である。
高氏は高階氏の一族で、鎌倉時代から足利氏の執事としてその家政を統轄する地位にあり、父・師重もこれを勤めていた。
師直は尊氏が正慶2:元弘3年(1333)3月に鎌倉幕府の命を受けて伯耆国船上山の後醍醐天皇の軍を討つために出征したときには既に側近く仕えており、この後に鎌倉幕府が倒されて建武政権が興されると三河権守に任じられ、建武元年(1334)8月に雑訴決断所が四番制から八番制に改編された際に東山道の訴訟を扱う三番方の奉行に任じられた。また武者所の職務も兼任していたらしく、建武2年(1335)6月に権大納言・西園寺公宗の謀叛計画が露見した際には楠木正成とともに関係者を逮捕している。
同年7月の中先代の乱に際しては尊氏に従って関東に下り、その鎮定後の帰還命令に応じない尊氏に対して新田義貞が差し向けられると箱野で戦い(箱根・竹ノ下の合戦)、敗走する義貞軍を追って上洛する途次の建武3年(1336)1月2日には後醍醐天皇方の近江国伊岐代城を1日で攻め落とした(建武3年の京都攻防戦)。
この頃に武蔵権守に転じ、暦応元:延元3年(1338)には武蔵守に昇進。
建武3年11月に尊氏が足利(室町)幕府を興すと師直の地位も「足利氏執事」から「幕府執事」となって軍事・恩賞・公事・財政など広範な職務を総覧するとともに、足利直義が管轄する引付方の頭人のひとりとしても職務にあたり、康永3:興国5年(1344)3月に五方制の引付方が三方制の内談方に改編された際にも一方の頭人に任じられている。
建武3:延元元年12月に後醍醐天皇がいわゆる南朝を興して皇家が分裂した頃より師直も北朝方の大将格として各地で戦うが、暦応元:延元3年(1338)に陸奥国の大軍を率いて2度目の上洛に臨む北畠顕家を大和国奈良に迎撃し、5月に顕家を和泉国阿倍野で倒した軍功は名高く、これによって高一族の勢威は増大し、一族の守護領国は3ヶ国から6ヶ国に倍増した。
貞和2:正平元年(1346)、武蔵守護に補任される。
また、貞和3:正平2年(1347)8月に挙兵した南朝方の楠木正行細川顕氏山名時氏の軍勢を破ると、師直は師泰とともに大軍を率いて出陣し、貞和4:正平3年(1348)1月には河内国四条畷の合戦で正行を討ち、さらには南朝の本拠地である大和国吉野の行宮に侵攻して焼き払った。
これらの功績から高一族の声望はいちだんと高まるが、その反面において足利直義と不仲になっていったと言われ、具体的な時期としては康永年間(1342〜1345)頃の文書において両者の反目を読み取ることができるが、この反目がのちに「観応の擾乱」と呼ばれる足利氏の内部抗争の端緒となるのである。
この直義との政争によって師直は貞和5:正平4年(1349)閏6月に執事職を罷免されたが、8月には京都の直義邸を、ついで直義を匿った尊氏の邸宅をも大軍で包囲し、この武力を後ろ楯とした恫喝によって直義が引退して尊氏の嫡子・足利義詮に政務を譲ること、直義党の上杉重能・畠山直宗を流罪に処すことなどの要求を呑ませている。
観応元:正平5年(1350)10月末、九州に逃れていた足利直冬を討伐するために尊氏とともに出征したが、南朝と和睦して再起した直義が京都に向けて進撃しているとの報を受けて備前国より反転、翌観応2:正平6年(1351)1月には京都で直義党諸将の軍勢と戦うも利なく(観応2:正平6年の京都攻防戦)、丹波国を経て播磨国へと退き、月末には山陰地方の戦線を突破してきた師泰と合流を果たすが、2月の摂津国打出浜の合戦で足利直義勢と戦って敗れた。この講和条件において師泰とともに出家することを命じられ、道常と号す。
しかし2月26日、京都に帰還する途次の摂津国武庫川辺の鷲林寺の前で待ち伏せていた上杉能憲の軍勢に襲撃され、一族や被官とともに討たれた。『園太暦』には同時に討たれた高一族として、子の師夏、兄弟の師泰、その子の師世、甥の師景、従兄弟の師兼・師幸、師兼の養子である宗久の8名をあげている。
栃木県足利市菅田町光得寺の五輪塔の中に「前武州太守道常大禅定門」「観応ニ年辛卯ニ月廿六日」と刻まれたものがあるが、これが師直のものである。もとは同市樺崎八幡宮境内にあったが、明治時代の廃仏毀釈に際して移されたという。また、兵庫県伊丹市には師直の冥福を祈るために建てられたという師直塚がある。
古い権威を認めず、粗野で淫蕩な人物として『太平記』や『塵塚物語』などに描かれ、江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』では敵役の吉良上野介に擬せられるなど悪役となることが多いが、動乱期の政治家としては一世を風靡し、和歌をよくし文字も達者であった。暦応2:延元4年(1339)に『首楞厳義疏注経』を開版、康永元:興国3年(1342)に真如寺を創建して春屋妙葩を住持とし、三宝院賢俊などとも交わりがあった。